ハッピー・バタフライ・エフェクト(第1話)
「落ち着いて聞いてほしい」
葵の「落ち着いて」は不幸の前奏曲(プレリュード)。碌なことが起こらない。
「僕は時空警察で、あれは本物だ!」
葵が私の腕を引いて全力疾走する。
ここは大草原。地響きも激しく私たちに迫りくるのは、真っ黒で巨大なマンモスだった。
トイレの鏡でメイクの最終チェックして、自分に言い聞かせる。
今日の私は絶対カワイイ! だから宇月先輩に告白ってもフラれない!
昨日からの告白の練習も完璧。待ってたよ、放課後。王道の告白タイム。
私は先輩を待ち伏せようと鞄をとりに教室へ戻った。
「あれ? いい匂いする。亜結(あゆ)、シャンプー変えた?」
通り過ぎた私に、女子より先に気づいたのは幼馴染の葵(あおい)だった。
真島(ましま)葵とは保育園に入る前からの腐れ縁歴15年。しかも保育園から小・中・高校と神がかり的に毎年同じクラスになる。そんなんで私たちはお互いを何でも知っている親友。
「葵、今から宇月先輩に告白ってくるね」
「気合入ってるな」
「うん。ついに初カレだよ。緊張してきた」
私は葵を見上げながらうなずく。首が痛い。
小学生までは私の方が背が高かったのに、高校1年生になったいまの葵の背丈は180センチ。そのくせ細身で小顔だから余計に高く見える。小顔ついでに綺麗な顔だからモテるのに、BL男子かと思うほど本人が片っ端から断りまくっている。
「じゃ、応援してて。いってくる」
綺麗な顔の眉間にしわを寄せた葵が「ちょっとこっちへ」と私の手首をつかんだ。私たちがただの幼馴染なのを知っているのに、男子たちが「おー、今日も仲いいな。熟年夫婦」とか声をかける。早く熟年離婚して先輩の嫁になりたい……。
私は廊下の隅に連れて行かれる。人気のないのを確認しつつ、葵は小声でささやく。
「亜結、おまえが宇月先輩を好きだというから少し調べてみた」
あ、嫌な予感。
「落ち着いて聞いてほしい」
げっ、出た!
「先輩は隠れゲイだ。しかも妻子持ちの男と不倫している。……いや、おまえが目が点になるのもよくわかる。僕だって信じられなかった」
葵が見せてくれたスマホの写真には、先輩とスーツ姿の男の人のラブホに入っていくところが激写されていた。
緊張がなくなった途端に寒気が襲ってきた。そういえば、後ろの席の高島さんがマスクもしないで咳き込んでいたのを思い出す。カゼ病(うつ)されたんだ。
急に味気なくなってしまった放課後、トボトボと学校を後にする。気力のなくなった私の鞄を葵が代わりに持ってくれた。あいつのせいで失恋したんだからこれくらいでも足りない。このあとファミレスでヤケ食いパフェもおごらせよう。
「ごめんてば。余計なことしたのは謝るけど、どうせふられるんだし、怒らなくても」
「久し振りの恋愛だったのに、あんたのせいで気分台無しじゃん。ただでさえ葵がうろうろするから男子が勘違いして寄ってこないのに。バカ」
「それはお互い様だろ」
「あんたは選り好みしすぎだからでしょ。誰に告白られても秒でふるくせに。あとから聞けば鼻の形が気にいらないとか、運動部の女子は怖いとか」
「それ、誰にも言ってないよな。バレたら確実に殺(や)られる」
「言ってないよ。あーあ、先輩とプールとか花火大会とか行きたかったなあ。サイテーだよ。失恋するし風邪は引くし」
隣の葵を見上げる。夏服のシャツから伸びた腕が筋肉質でドキッとする。むかしは私より細くて背も低かったのに。いつのまにか男っぽくなっちゃったなあ。
意識したらなんとなく気まずくなって、私は葵を置いて足を速める。
1学期の期末テストが終わり、夏休みはすぐそこだった。梅雨明けして湿気も少なくなったとはいえ、外にいれば夕方でも薄らと額に汗がにじんでくる。それなのに、背筋が寒い。
「ねー、今日はパフェいいや。なんか寒気がひどくなってきた」
それはあっというまの出来事だった。突然すぎて、理解できなかった。
咄嗟に、葵が自分と私の鞄を放り投げ、男の腕を押さえていた。私はドラマの撮影に入り込んだのかと思ってしまった。ありえない。ナイフを握った男が正面から私を襲おうとしたなんて。
「亜結、逃げろ!」
組み合ったまま振り向きもせず葵が叫ぶ。私は怖くて動けなかった。もみ合う葵たちから目が離せなかった。
男が逃げだし、葵のシャツの下腹部が真っ赤に染まっているのを見て、初めて私は声が出た。それは言葉にならない悲鳴だった。倒れる葵に駆け寄るとすぐに救急車が到着した。見ていた誰かが呼んでくれたらしい。
それから先はよくおぼえていない。私は葵と一緒に救急車に乗った。感染症を避けたい救命士から遠ざけられながら、気がついたら病院にいて、ストレッチャーに乗せられた葵が集中治療室に運ばれたあと、私はそのドアの前に残されていた。
そうだ、真島のおじさんかおばさんへ連絡しないと。でも、私は連絡先を知らない。
葵の鞄から彼のスマホを取り出す。キャリアが違うせいで操作がわからない。私は画面を無茶苦茶タッチしてアドレス帳をさがした。
ふいに空間が歪んだ気がした。酷(ひど)いストレスでめまいを起こしたのかも。
通路の奥から音も激しくこちらへ向かってくる駆け足とストレッチャーの音がする。私はあわてて通路を空けた。と同時に私の目の前を、男の子を乗せたストレッチャーと手術着の人たちが通過する。その集団は葵の運ばれた集中治療室の中へドアにぶつかるようにして入って行った。
あれ? 手術室って何人も収容できるの? 私がぼーっとしてて部屋を勘違いした?
私は集中治療室に入ろうとする年配の看護婦さんをつかまえた。
「すみません、真島葵の手術室はここで合っていますか」
看護婦さんは持っていたカルテのボードから紙を何枚もめくって難しい顔になる。
「真島さんという方はいませんよ」
「たったいま運び込まれたんです。重篤で」
「ああ、それが急患さんの名前だったのね。その手術室よ。あなた彼のお知り合い? 保険証を持ってないかしら。あったら受付に出してほしいんだけれど」
「探します。ありがとうございました」
看護婦さんは急ぎ足で治療室へ入って行った。看護婦さんが指した部屋で間違いなかった。戸惑ったものの、急いで葵の鞄から保険証を探す。でも、鞄も財布の中もどんなに探しても、保険証は見つからない。
葵の家に行ってみよう。結局、真島のおじさんとおばさんの連絡先はわからなかったし。運が良ければどっちかが仕事から帰ってるかもしれない。
私は腕時計を見た。午後5時ジャスト。私は受付にまた戻ると伝えて、葵のスマホと鞄を握り締め、病院を後にした。
駅についてから商店街を抜けて住宅地まで止まらずに走る。咳が出て息が苦しい。でも、葵はもっと苦しんでいる。
心の中で何度も繰り返す――お願い、死なないで。
葵の家に着いたのは午後5時40分だった。帰宅時間には早いのかすれ違う人が不思議なほど少ない。これだとフルタイムで働いているおばさんはまだ帰っていないかも。
家の前に着いた。私と葵の家は同じような建売り二階建ての一軒家だ。もともと近所で、歩いて10分の距離だから昔からよく行き来している。私は押し慣れた玄関のインターフォンを何度も鳴らした。中からの反応はない。葵は一人っ子だし一世帯だから本当に誰もいないんだ。私は考えた挙句、うちのパパとママへ連絡を取ることにした。もしかしたら、どっちかがおじさんかおばさんの連絡先を知ってるかもしれない。
「亜結、なにしてんの」
背後から声がかかった。私は耳を疑った。
そんなはずがない。だって――
振り向くと、刺されたはずの制服姿の葵が立っていた。それも何事もなかったかのようにピンピンして。白いシャツは真っ赤に染まってもいなければ切れてもいない。
「葵、死ななかったの」
「なに、ケンカ売りにきた?」
私に近寄った葵が驚いた顔になる。持っていた自分の鞄を背負い直し、その手で私の頬をぬぐった。
「おまえ、なんで泣いてんの。どっかで転んだか」
怖くなってその手を払いのけた。目が葵の鞄とその左手に釘づけだった。私は後退(あとじさ)る。この人は私の知りつくしている真島葵。私が見上げる首の位置も、その長い睫毛も、平気で私にさわってくるところも全部同じ。それなのに
「葵、なんでスマホ持ってるの」
私は自分が持っていた葵の鞄から彼のスマホを取り出す。目の前の葵はなぜか私の持っているのと同じ鞄とスマホを持っていた。
葵の目が見開かれ、厳しい表情になった。
「それ、僕の鞄とスマホ。どこでそれを」
「やだ、来ないで! あなた誰よ!」
葵がスマホを取りあげようとする。私は必死で抵抗した。もみ合ううちに風景が歪んだ。
吹き抜ける心地よい風と、土の臭いを感じる。日差しが眩しい。私たちが立っていたのは葵の家の玄関先でも、住宅地でもなかった。そこは地面がむき出しになり、木や草のまばらに生える台地だった。ドンッという音が遠くに聞こえ、周りを見るとはるか向こうにある山が噴火の煙を上げている。火山だ。火山群は点在し、その下で黒い巨大な塊たちがモソモソと蠢(うごめ)いている。
「なにこれ。なんか怖いんだけど」
動かない葵の視線を追うと、2、3メートル先に5歳くらいの子供がいた。分厚い真っ黒な毛皮を着て、槍を持ったまま唖然とした表情でこっちを見ている。
不意をつかれ、葵に私の持っていたスマホを取り上げられた。
「返してよ!」
「ちょっと確認させろ――うわ、飛び過ぎて計測不可になるところだった」
「何の話をしているの。あなた一体だれなの」
「わかった。こうなったら全部話そう。代わりに、落ち着いて……」
そのとき、火山の噴火音とは別の嫌な地響きが聞こえてきた。徐々に音が近くなる。音のする方向を見ると砂埃をあげて黒い巨大な山の大群が迫ってくるところだった。山の先端には白く尖ったものがそれぞれ二本ずつ突き刺さっている。
「逃げろ!」
葵に腕を取られて一緒に走りだす。黒山を見た小さな男の子も走りだした。
「葵、あのCGなに?!」
「あれはCGじゃない。冗談じゃなくここは紀元前200年の日本。あれに追いつかれたら僕らは踏みつぶされる」
「何が起こったの」
「タイムマシンで移動した。いつもみたいに信じてくれ。いいか、落ち着いて聞いてほしい。僕は時空警察で、あれは本物だ」
「え、てことは……!!」
さすがに私も黒山の正体がわかった。私たちは噴火に驚いて興奮した巨大なマンモスの大群に追われていたのだった。
葵と岩のほら穴に飛び込んだ。マンモスたちは地響きを立てながら通過して行く。
私たち汗だくになりながら岩壁に背をつけてゼイゼイと肩で息をしていた。咳がひどくなってきた。かいた汗が制服のシャツに張り付いて寒気もきつい。そうだった。私は風邪を引いていたんだ。通り魔に葵が刺されたり、元気で帰ってきた葵に会ったりで忘れてた。走ったから具合も悪くなってきた。
ほら穴の奥で物音がする。私たちは一緒にギクリとして音のした方を見た。すると、暗闇から小さな影が割れ、毛皮を着て槍を持った男の子があらわれた。草原にいたあの子だ。
「この子もついてきたんだ。君、お父さんお母さんはどこ?」
男の子は言葉にならない獣のような声で答える。どうやら、私たちに何かを伝えようとしているらしい。
「この時代はまだ言葉が発達していないんだろう。表情が明るいから敵意はないみたいだ」
葵がゆっくりと男の子に近寄った。
「亜結、この子がくれるって」
葵が私の手に何かを差し出す。木の実だった。グミの実みたいに細長くて赤くて、つまんでみると柔らかい。
「くれるの? ありがとう」
微笑むと、男の子も嬉しそうに微笑み返した。言葉は通じなくても問題なかった。三人で座って木の実を何個か食べた。甘ずっぱい。果汁が咳で渇いた喉に刺激的にしみる。
そのうち、疲れたのか毛皮にくるまるようにして男の子は私の膝の上で眠ってしまった。安心しきったその寝顔に笑顔がこぼれてしまう。
「かわいいねぇ。ウルフくんを思い出すよ。ほら、私たちが保育園のときに葵んちにちょっとだけいたドイツ人の。真島のおじさんの会社の人の子だったっけ。あの子も私たちと同じ5歳くらいだったかなあ」
「ウルフ、ねえ……。良く覚えてるな」
「私も葵も全然ドイツ語話せないけれどすっごく仲良くなって一緒に遊んだじゃん。子供は仲良くなるのに言葉は関係ないんだなーっておじさん言ってたよね」
「あいつ、暴れたよな。うちの花瓶とか皿とか楽しそうにバンバン叩き割りやがって」
「そーそー、“ハイラーテ”って叫んでさー。困ったおじさんがクラシックのCDかけたらすっごくおとなしくなって、ずっとスピーカーの前から離れないの。静かになったの見て、逆におじさんとおばさんがあせってたよね。あれ、ウケた」
私が咳き込んだタイミングで葵がそっと口をはさんだ。
「あれは僕の大失態だ。父さんのマシンを勝手にいじって座標軸を大幅に間違えた。よく元の時代に戻って来れたと思う。あとでブン殴られてこっぴどく叱られた」
「元の時代? そういえば、時空警察って……?」
「うん。まず結論から話すと、あれはモーツァルトだ」
「はぁっ!? !? !? !?」
「時空警察はマシンをつかって任意の場所、時代にタイムスリップできる。当時、誤って僕は過去の人物を連れて来てしまったんだ。あの頃、マシンの性能がいまいちで、元の時代の特定がすぐにできなかったから、しばらくうちで預かってた。僕らはウルフくんと呼んでいたけれど、正式にはヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト」
「えっ!? あれが!?」
「ちなみに、父さんもやらかしてる。クラシックでおとなしくなるかと聴かせたのがセレナード第13番。別名アイネ・クライネ・ナハトムジーク。本人の曲だ。他人の曲は聴かせられない。後世に影響が出て作曲者が変わったら大変だから。本人のなら問題ないだろうし、一番なじむと思ったんだけど、後になって気づいた。これだとのちにつくるアイネ・クライネの作曲問題に関わる。原理としては、生まれたのはニワトリが先か卵が先か、コロ助を作ったのが奇天烈斎なのかキテレツなのか、と同じだ。誰がアイネ・クライネを作ったのか。モーツァルトに変わりはないけれど、幼少期にこの曲を聴いたからできたのか、晩年のモーツァルトが作曲したのがオリジナルなのか。途中で気づいた二人が血相を変えたのはそのせいだ」
「嘘、でしょ……」
「時空警察には怖くて報告していない。ついでにいえば“ハイラーテ”は日本語で“結婚して”だから。おまえ、モーツァルトにプロポーズされてたんだよ。でも、安心しろ。あいつ、むかしから誰にでも言ってたみたいだから」
私はもう途中から話がついていけなくなっていた。これが夢ならどんなに良かったか。
ところが、このあと葵に聞かされたのは、私の脳が理解を拒むほど最悪の内容だった。