双頭の性 第二十四場 そして追分は再び雨になった。

<目次>
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富岡は弾け出た感情を突然見失ったかのようにその場に座り込んだ。
深い疲れが私を襲った。死のうとするたびに、それは中断させられた。先ほどは切り裂きメリーたちに。こんどは富岡毅に。私は深く息を吸い込むと、そのまま吐き出さず胸にためた。
足元には、もう飲み下すことのできなくなったジメンヒドリナートが散乱していた。
間もなく、猟犬のように吠え立てて、世間が私を駆り立てることだろう。
オカマの殺人。陰茎をちょん切った猟奇的殺人者。オトコオンナたちの連続自殺。トランスジェンダーの悲惨な末路。嘲笑。そして揶揄。週刊誌、ワイドショー。裁判があり、刑務所があり。刑務所での生活があり。私は自分で自分の肉片を噛み砕くようにして、それらの想いを呑み込んだ。私のこれからの現実。人格と呼ばれるけっこうなものなど、そこにはない。
(それを生き尽せって?)
富岡は絶叫した、生き尽してこそ、と。そう、私にとって、生きていくことの方がはるかに困難だ、死ぬことより。それは言われるまでもなく、紛れもない真実だ。

依然として、パトカーのサイレンは聞こえてこなかった。
(もしかしたら、この人、電話をしてないのでは…?)
ふと、そういう気がした。だったら…ソニアの包丁で私は…。
意識が死へと泳ぎ出そうとしたそのときだった。富岡の、それは吐く息とも吸う息ともつかない声が、六月の午後の光を伝わって聞こえてきた。
「兄、富岡靖は、三十五年間、私の人生の恥部だったんです」
景色が突然無彩色になった。三たび死へと向かいかけていた私の意識は、こんどもその根を切られた。
「そういう兄がいることが私は恥ずかしかった。恥ずかしかっただけじゃない。子供の頃から私までオカマの兄弟と嘲られ、いじめられた。社会に出たあとも、だから兄のことは徹底して隠しました。でも、とうとう兄は自ら死んだ。兄が死にたいと思った気持の中には、きっと…きっと弟の私とのことも過っていたと思います。私には、兄が被虐的な自分の人生に弟まで巻き込んだ、そのことにも傷を負っていた、いまはそう思えるんです。だって、去年のお正月、およそ十年ぶりに実家で顔を合わせたとき、別れ際にごめんなって、ポツリと、でも私の目をじっと見つめて兄が言ったんです、とくに何を、というわけではなく。それって…」
富岡毅の目から、こらえがたい感情がこぼれ落ちた。
私の首がゆっくりと左右に振られ始めた。
「私は兄を恥じてはいけなかったんです。ヤッちゃんを死に追いやってはいけなかったんですっ。ヤッちゃんといっしょに生きなければいけなかったんですっ。だから、ヤッちゃんが自殺したあと、私は私を否定し、拒絶し、後悔し、そのぶんヤッちゃんを死に誘った存在があるのなら、それを白日の下にさらし、その人たちと対峙することで自分の罪悪感を拭い去ろうと、それでいろいろ調べ始め…」
私は言った。もういいわ。あなたの話は、悪いけどもういいわ。しかし、富岡は涙を流れるままにして、私の声が聞こえなかったかのように話し続けた。
「まだ小学生だった私は、消しても消せない過去を背負わされました。学校から帰る私に蜘蛛の巣を張って待ち伏せていた男がいたんです。その男は私に、おい、おまえもオカマなんだろう、寄ってけよ、そう言って、私を兄と同じ糸にからめようとしたんです。その出来事からです、私が兄の存在を生理的に嫌悪するまでになったのはっ」
「ありがとう。もう、何もかも謎は解けました。あなたがあんなふうに性同一性障害について、根掘り葉掘り質問したわけも、いまの話でよくわかりました。でも、これ以上、もう聞きたくはありません」
「いいえ、言わせてください、もうひとつだけ、お願いですっ。死んだとき、兄の性器は傷だらけだったんですよ。切りつけてたんです、自分の性器が憎くて。私が兄を嫌悪するどころじゃなく、兄自身が誰よりも自分を憎悪してたんですっ。あなたが以前言われたとおり、兄は真実の自分をとうとう受け容れられなかったんです。自分が二つに分かれたままだったんですっ。だからどう生きたらいいのか、きっと、わからなかったんですっ。だけど、だけど、自分を憎んじゃいけなかったんだ、富岡靖はあのままで素晴らしい富岡靖のはずだったんだ、そうでしょっ。私は、私は…そのことをわかるべきだったんだ。この話を…この話を、生きている彼にすべきだったんだっ。だって、彼の苦しみは私の苦しみに続いてたんだからっ」

なんてことを明かしてくれたのだろう。
きょうの惑乱、そして激情。その目に潜む憤懣と自己憐憫。
それらの出所がいま語られたのを私は知った。同時に、私に思いをぶつけることで自分を懸命に浄化しようとしている富岡靖の弟に、私の生がまたも翻弄されたことも。
思いのすべてを吐き出し終わり、富岡毅は全身の骨が粉になったようにうずくまっていた。
頭をたれ、それから言った。
「誰かに一度は話しておきたかったんです。もう一生、誰にも話すことはないでしょう。すみません…すみませんでした、ほんとうに」
私は富岡には聞こえない溜め息を身の内でついた。
富岡は、さっきもそうだったが、その言葉で私の生死に深く手を突っ込んだことに、決して気づきはしないだろう。
私は富岡から視線を切り、ちりぢりになった感情の小片をのろのろとかき寄せた。
生きていたい気持が蠢いているわけではなかった。が、富岡のせいで、もはや死に繋がっていた気持も凹凸が失われかかっていた。
だからって…。
私は怒っているのではない。
富岡はさもわかったふうにそれらを言ったわけではないのだから。
自らの膿んだ果肉からその汁を搾り出したのだから。
私は視線を富岡に回し、やがて、言葉に出さなかったすべてを込めてうなずいた。
彼は、兄の死に、同じ双頭の性を抱く私の生を繋げようとしているのだった。私に生きろというのはその意味なのだ。私を死んだ兄に接木して、生かそうとしているのだった。

思えば私は、肉体の性別を変える手術が人格を破壊すると恐れられていた時代、それでも心の性別のままの私でありたいと、敢然とその恐怖を生き尽くしてきた。いま私の前に待ち構えている現実は、そのときのそれとまったく同じことかもしれないのだった。私が真に私でありたいと欲するなら、人格をズタズタに破壊するこれからの生を私は敢然と生き尽くさねばならない、そういうことなのかもしれないのだった。
…そういうことなのだった。
細胞という細胞が揺れ、私は生命の底の底まで息をついた。
それから。
五十六年間紡いできた濡れた布を踏んで、のろのろと立ち上がった。
「あのう…。電話をしてくださいな。まだなんでしょう?」
富岡は弱々しく首を振って言った。
「私は、あなたを、警察のようなところに渡したくなかった…」
富岡は唇を噛んだ。視線がいまにも落ちそうな線香花火のように揺れていた。私たちはすぐそばにありながら、何百メートルも離れて立つ人を見るように互いの存在をなぞり合った。
やがて富岡は私の目に促され、先ほどと同じくテーブルの下を探し、上を探し、麻々のからだの下からようやく携帯電話を見つけ出した。
「どうか、許してください」
富岡毅は深々と頭を下げ、電話をする声が私には聞こえないところまで離れていった。私は電話が始まると瞼を下ろし、これから始まろうとする時の境い目に佇んだ。
私に、やがて、私の声が聞こえてきた。
「捕まったら、私って、女の刑務所に入れてもらえるのかしら。それとも男の刑務所に入るのかしら」

六月十五日。夕刻。追分は再び雨になった。
涙雨とよく言われるが、そうではない。
私は泣きはしなかった。