サヨナラ東京 第六の季節。盛夏。それはいとも激しく、かつやさしい。
<目次>
https://www.gengoya.net/info/novel-3/
●溶岩お婆さん。
長い歴史を持つ集落がある。
そこは飛鳥時代から浅間山の噴火に見舞われ、とくに約二四〇年前、江戸時代の天明の大噴火のときには溶岩が集落全体を呑み込み、五〇〇人近い命が喪われたという。
その火砕流の凄さは、五〇段あった観音堂の石段が一五段になってしまったことからも窺える。
八月初旬。
去年、不動産会社の人から、その集落にある婦人会の売店でおいしい豆腐が手に入ると聞いていたのを思い出し、観音堂の見物もかねて出かけてみた。
もし歩けば二時間ぐらいの距離だろうか。
たまにはピクニック気分で長時間歩くのもいいとは思ったが、何しろ盛夏だ。自重して自転車を使った。
「わたしの作った豆腐やワラジがね、誰かに喜ばれると嬉しいもんだよ。お金にはかえられん」
浅間山の溶岩のようなゴツゴツとした容貌。生活改善クラブ「ヒマワリの会」の売店で店番をやっているお婆さんは、そう言って静かにほほ笑んだ。
ぼくだって他人様の顔をとやかく言えるご面相ではないのだが、そういう物理的な問題を横にどければ、その微笑はとても涼やかなものだった。
店には江戸時代から継承しているという草餅、梅干し、瓜と見まがうばかりの太いキュウリの浅漬け、スリッパの形に編まれた端切れのワラジ、木の瘤を利用した肩たたき、フジヅルで作った籠やザル、そしてお目当ての広辞苑ぐらいある巨大な豆腐が並んでいた。
ぼくはさっそく豆腐とキュウリの浅漬けを買い求めた後、壁にかけてあるいくつもの賞状に視線を向けた。しばらくすると、ぼくの背にお婆さんの声がした。
「みんな小さいことばっかりだがね。凝固剤を使わずに昔ながらの豆腐を復活させたとか。このへんの土じゃあゴマができんでね。ゴマのかわりになるもんを植えて殖やしたとか。ほかの集落の人間は、なんでそんなことで県から表彰されるんか言うて、文句たらたらなんだけどねえ」
表彰状は七枚もあった。みんな毎日の暮らしの中でのほんのちょっとした工夫、それがこの賞状になったらしい。ぼくは頭を下げた。
「よくわかりました。どうも、ありがとうございました」
そして、帰ろうと背を向けたぼくを溶岩お婆さんの声が引き留めた。
「いやぁ、こんな賞状はどうでもいいことですよ。夫や子どもが喜んでくれる、そのことが嬉しくてやったんですから。県から褒められようが怒られようが、どうでもいいことですよ」
意外な言葉だった。てっきり自慢の賞状だろうと思っていたから。
しかも、もっと意外だったのは、溶岩お婆さんがそれを言う時、うって変わって丁寧な言葉づかいになったことだった。
「まあ…そうだとしましても…」ぼくはあらためて溶岩お婆さんに正対した。「ぼくは妻があの世へ逝って以来、家事をいろいろやってますけど、毎日こなしていく、というか、毎日ごまかしていくだけで精一杯で、工夫をするなんてことはとても…」
すると溶岩お婆さん、ぼくの言葉の途中で背筋をスッと伸ばした。
「それで十分です。家事は尊いですよ。夫の仕事も子どもの勉強も、国の政治も、ぜんぶ家事から始まりますからね」
突然、別人格が宿ったかと思うような凛としたもの言い。
ぼくはゴツゴツした溶岩の隙間に見え隠れしている小さな目を探し出し、思わず覗き込んだ。
「教養人とは?」
と訊かれれば、多くの人は学識にベースを置いて答えようとするのではないだろうか。
が、ぼくはつねづね思ってきた。
人間にとって何がいちばん大切なことか、生活を通じて直観している人、そういう人を「教養のある人」と言うべきではないかと。
(思いもかけずこんな山の奥で、こんな教養人に出会おうとは!)
平野部の競争社会では、なかなか出会えない幸運だった。
ところが…だった。
溶岩お婆さんは再び突然、最初の人格に戻ると言った。
「もう、お昼は食ったかい。オカラをご馳走するがね」
なんという転調。
ありがたくご馳走になった。
差し出された弁当箱いっぱいに詰まったオカラは、生まれて初めて見る白さだった。きっと、しょうゆを使っていないのだろう。食べると上品な塩味で、口中には高貴な香りさえ広がった。
「料理は人格の反映だとも言いますけど、このオカラは…」
ぼくは感想を正直に伝えようと口を開いた。すると、
「六十年も主婦やって、ちぃとは進歩せんとつまらんがね」
スラリとぼくの言いかかった賛辞をさえぎり、またもやあの涼やかな微笑み。
ぼくは畏れ入り、ただ首を振るしかなかった。
その夜。
「ヒマワリの会」で買った豆腐とキュウリの浅漬けで冷酒を飲みながら、棚の上の妻の写真に目を向けた。
「あの人、素晴らしいことを言う時だけ、どうして突然に丁寧な言葉づかいになったんだろうね」
しばらくして妻が答えた。
「きっと、そうしてきた自分自身に敬意を払っているからじゃないかしら」
ぼくは八〇年間、いったい何を養ってきたのか。
われとわが身を何度もふり返りすぎて、もう首が痛い。
●ネズミ戦線、異常あり。
後ればせながら気づいたことがある。
それは…。
都会での生存競争は人間が敵であり味方だった。しかしこの山奥の生存競争では、動植物が敵であり味方となる、ということだ。
「当たり前じゃないか」と言われそうだが、案外そういう自覚は持てないものだ。
なぜなら、我々はふだんから動植物の上に立っていて、対等な生存競争の相手としては認識していないのがふつうだからだ。
ぼくは、日常という舞台の登場人物がほぼ動植物にかぎられ、人間の姿が極端に少なくなっていることを最近になってやっと意識するようになった。
別な言い方をすれば、日々の喜怒哀楽が人間関係からではなく、主として動植物から生まれていることに気づいたのだった。
そして。
このことが、いつしか、自分でも驚くような行動や態度、価値観の変容を呼び込んでいたらしいことに、これまた初めて気づかされた。
(ぼくってこんな人間だった?)
自分の横を走る新たな自分の横顔をあっけにとられて見るような思い。
そんな出来事を一つ二つ紹介させていただけたら、と思う。
その一、ネズミとの戦い。
いまどき、ネズミが走り回る家はめったになかろう。
もしあっても、舞台は夜中の天井裏と相場が決まっている。昭和の半ばごろまでの家庭ではそうだった。
しかし、ここのネズミは深夜営業だけではない。白昼もぼくの眼前に堂々と出没し、二四時間体制で繁殖活動に励んでいる。
夏場は木が生い茂り、室内が昼間でも暗い。そのため、なかなか気づかなかったのだが、ある日、よく見ると黒い豆粒のようなものが至る所に落ちている。
(何かの糞?)
もしかしたらネズミではなかろうかと、寝る時には食品をぜんぶしまうようにした。が、石鹸はそのままにしていたら、翌朝ボロボロになっていた。やはりネズミらしい。
また、こんなこともあった。
タオル類を積み重ねてある棚の奥の方で、何か生きものの鳴き声がしたような気がしたので恐る恐るめくってみたら、ピンク色の毛のないネズミの子がウヨウヨいた。
身の毛がよだつ、とはこのこと。
無我夢中でタオルを子ネズミごと丸めると、思いっきりきつく縛り上げ、自転車を飛ばして一目散にゴミ集積場へ。中で窒息している子ネズミたちへの憐憫の情なんてまったくなかった。
それより、
(この毒のカタマリを早く始末しなければ!)
そんな切迫感、そして危機感。
ネズミがただ走り回るだけならまだしも、同じ屋根の下で子孫を増やし、堂々と生活の根を下ろそうとしているなんて、絶対に受け容れられる事態ではなかった。
ゴミの集積場からの帰り道、気持はしだいに怒りに変じ、ついには理性をも吹っ飛ばし、
(あいつら、必ず根絶やしにしてやるぞっ)
と、ハンドルを握る拳にギリギリギリと力が入る。
こんな年になって、そんな殺生ができるとは思いもしなかった。まるでまだ世間がよく見えていない十代の若者だ。
しかし。
このまま放置すれば、一年後にはわが家がネズミ算とやらで何百匹ものネズミの巣窟になるかもしれないのだった。
とはいうものの…。
頭が冷えてくると、できるだけ余計な殺生したくない気持が勝ってきた。
だから最初は、天井を走り回る音がしたり、壁際を走るやつを見つけると、長い木の枝で天井や床を叩いて脅すにとどめた。
しかし、それが効果を発揮するのは数十秒間ぐらい。すぐに運動会が再開される。
それではと、こんどはネズミの嫌がる音波発信機をネットで取り寄せた。そして、発射角度を念入りに調整して二階と一階に二台もセット。
何しろ科学の力だから、文系のぼくの期待は大いにふくらんだのだが、なんとまあ、現代科学も森のネズミには効果ゼロ。素朴な木の枝の方がまだマシだった。
こうなったら昭和生まれの昔人間、懐かしの武器に頼るしかなくなった。
ネコイラズを再びネットで取り寄せたのだ。そして、
(どこか見えないところに行って成仏してくれよ)
と願いながら、ネズミの通りそうなところにばらまいた。
が、またしても残念。見向きもされないのだ。
ネコイラズ饅頭の臭いは、すでに「危険物」として親から子へと代々語り継がれているのか、理由はよくわからないのだが。
で。
やっとまあ、私め。その段階になって思い出した。
(生きものは相対する敵の強さとか、殺意とかがどの程度のものか、瞬時に察知する。ほら、あのかわいらしいシジュウカラだって、そうだったじゃないか)
まして同じ屋根の下でテリトリーの乗っ取りをたくらむネズミは、ぼくを下に見ていい相手か、怖れるべき相手か、ちゃんと見切っているにちがいない。つまり、できれば殺したくないという程度の敵意しかないぼくは、裏返せば攻撃性のない、実害のない、ヘナチョコな生きものにしか見えていないのではなかろうか。
完全に足元を見られているのだった。
生きもの界では、テリトリーに侵入されたら「殺すぞ!」と追い出すか、「負けました」と逃げ出すか、どちらかしかない。
生きるか死ぬか。常在戦場。それが大原則。
(忘れるんじゃないぞ、ここは他の生きものとの境界のない森の中だということを!)
ぼくはネズミの砦、天井の一角を睨みつけながら自分を叱りつけた。
物騒な話になってきたが、ぼくは無意識のうちにネズミを下に見ていたからこそ態度がテキトーになっていた、つまり甘っちょろくなっていたのだろうと思う。
もし、ぼくが「生きもの同士としては対等な存在なのだ」という気持でネズミを見ていれば、結果、同じ土俵で最初から真っ向勝負、真剣勝負を挑んでいたにちがいないのだった。
これは一匹の人間として深く反省すべきことだった。
「万物の霊長」という人間の驕った感覚は、科学技術で環境を徹底的にコントロールした東京でならまだしも、自然界ではきれいさっぱり捨てなければいけない。思い起こせば、そのことは引っ越し当初の落ち葉掃きですでに実感していたはずなのに、もったいなくも忘れ去っていた。
これからは同じ地平に立って勝負をし、彼らを恐怖のどん底に突き落として、ここは生存に適した場所ではないとわからせてやるのだ。
腹は決まった。
その翌日。昼下がり。
窓を覆うムラサキシキブの枝を間引きし、少し明るくなった床で寝転んでいると、目の端を黒い影が横切ったように感じた。
首をそっと起こすと、壁際を走っているネズミがいるではないか。とたんにからだ中の血が熱くなる。
いざ、決戦!
この部屋から逃がさないようすぐに戸を閉め、窓を閉め、不細工な大工仕事で作った先がシャモジ状に広がった新兵器を手に、ネズミが隠れた家具の方に忍び足で迫る。必ず殺す、そう決めて。
その時ぼくを支配していた感情は残虐性ではなく、テリトリーの横取りをたくらむ侵入者、ネズミとの戦いに勝つんだという勇猛心。さらに言えば、一種の正義感。
一〇分もかかっただろうか。
家具やカーテンの後ろに機敏に隠れる敵を執拗に追い回し、キィキィと悲鳴を上げさせ続け、やっと叩き潰した。
潰れた感触は気持いいものではなかったが、一年後にこの家が何百匹ものネズミの巣窟になっていることを思えば、憐みなど無用。
奥歯をグッと噛みしめ、仁王立ちになる。決戦はまだ始まったばかりなのだ。
しかし。
そんなに力むまでもなかった。
不思議なことに、その第一歩だけでネズミは姿を消してしまったからだ。
こんなに極端な結果は、まったく想定外だった。
カラスを追い払う実験で、捕えたカラスを仲間の前で傷めつけると、そこには寄りつかなくなるという事例をテレビで観たことがある。もしかしたら、それと似たような効果をあげたのではないだろうか。
ネズミに上げさせ続けた一〇分間の恐怖の叫び声が、人間には聞こえない周波数となって、何十、何百メートル四方かのネズミに届いたのだろうか?
(このあと何匹のネズミを叩き潰さなきゃいけないんだろう)
と思っていたぼくとしてはホッとする結果ではあった。
同時に、笑われるかもしれないが、この勝利によって、ぼくはなんだか一皮も二皮も剥けたような気がしたのも事実だった。
きょうもいつの間にか虫に刺されている。
かゆい。真っ赤に腫れる。顔が、首が。とにかく、かゆみの大波小波。もしかしたら、植物の汁でかぶれたのかもしれない。
庭仕事の時にはツルツル頭にタオルをかけ、広島カープの赤い帽子をかぶり、その上からさらに養蜂用のネットつきの麦藁帽をかぶり、長袖に軍手、長靴。露出している肌などないつもりなのだが…。
「養蜂ネットの網目より、もっと小さい羽虫がいますよ」
とツクシ外交をした時、Kさんが言っていた。もしかしたら攻撃したのは彼らなのか。
植物であれ、昆虫であれ、逆の立場になればぼくは外敵、侵入者、もしくは食糧なのだから仕方がない。毎日が戦い。いや、正常な生存競争なのだ。
ただ。
ここの戦士たちには、動物も鳥も昆虫も植物も後ろ手に隠しているものが何もないのだった。たくらみや下心がない。正々堂々と正面から戦いを仕掛けてくる。
その点が人間の戦場とは大違いなのだ。
人間対人間の生存競争ではたいてい私怨が残る。しかし、動植物との生存競争にはそれがない。
ここでマムシに咬まれて死んでも、クマに襲われて命を落としても、ぼくは馬鹿な死に方をしたとは、いまでは思わないだろう。その死を潔く受け容れることができるにちがいない。
そう思わせてくれる、ここは、生きもの同士の本源的な戦場なのである。
ある種、清々しい戦場なのである。
●アリ戦線にも、異常あり。
じつはネズミに続いてもう一つ、アリとも本気の戦いを行った。
ある日の昼下がり。
パソコンに向かおうと二階に上がると、板壁の隙間からアリが川となって這い出ていた。幅一〇センチぐらい。数は無数としか言いようがない。
その瞬間脳裏を過ったのは、熱帯雨林を帯状になって行軍し、ヘビでも大トカゲでも襲って餌にしてしまう獰猛な軍隊アリの映像だった。
(まさか軍隊アリじゃ…)
しかし、ここは日本。しかも軍隊アリはたしか大きさがニセンチぐらいと言っていたような。目の前を行軍するのは数ミリの飴色した小さなアリだった。
(なぜ突然ここに?)
二階に食糧はない。襲来の意図がわからない。アリの洪水はベッドの方に向かっていた。
(もしこのアリたちが寝ている間に身体を覆い、鼻の穴に、耳の穴に侵入してきたら…)
背筋がブルッとし、とたんに戦闘スイッチが入った。
アリを敵に回すことになろうとは、考えてもみなかった。
アリは人類の味方。お手本にすべき勤勉さの持ち主。そんな印象だったから。
「アリとキリギリス」以来の刷り込みかもしれないが、夏の地面を走り回るけなげな姿には、深い共感と同時に尊敬の念さえ湧いてくる。
だが、いま、アリの洪水を目の前にしてぼくの頭は一八〇度変わった。
(今夜こいつらに襲われないよう、打つべき手をさっさと打つんだ)
ネズミ戦争での教訓、わがテリトリーへの侵入者に対しては、殺すか逃げるか、二つに一つ。それが自然界の習いだということを忘れるな。
まずは自転車を必死に漕いで四五分。小さなホームセンターというか「よろず屋」さんに急ぎ、上がった息のまま言った。
「い、いちばん強力な殺虫剤、く、くださいっ」
「いちばん強力? 殺すのは、何なんですかね」と中年のご主人。
「アリなんです、家に入ってきたアリを殺したいんです!」
「ああ、アリ。それじゃあ、これがいいがね」
勧められたのは殺蟻剤だった。そんな専門薬までつくられているとはアリも気の毒にと一瞬思ったが、情けは無用とさっそく買い求める。
大急ぎで帰ると、いまやベッドの下を通り抜けて反対側の板壁の隙間へと流れ込んでいるアリの洪水めがけて大噴射。這い出て来る穴にもストロー状のノズルをつけて突っ込み、「地獄の底まで届け」とばかりに噴射、噴射、噴射!
それでいったんは生きて動いているアリの姿が見えなくなった。
ところがだった。しばらくすると、こんどは違う板の隙間から別働隊が列をなして行進して来るではないか。
「いったい何万匹いるんだ」
思わず声が出る。
ぼくの神経は、すでにからだ中をアリが這い回っているかのようにささくれ立ち、無我夢中で噴射を続けた。
そして。
ともかく幅広の粘着テープで隙間という隙間をすべて塞いで、やっと一安心。
足元はまるでゴマ粒をバケツでぶちまけたようにアリの死骸でいっぱいになった。
ぼくは暮れなずむ赤い夕日を浴びながら、ただ一人生き残った勇者のように、しばらく戦場に立ち尽くしていた。
人間も自然界に入れば、否応なく野生の生きものの一員に組み入れられてしまう。そのことが痛切にわかる夏となった。
東京では会社、学校、趣味の会、隣近所、ボランティア等々、自分の属する座標には人間ばかり。存在理由を築くのも人間関係の中にかぎられていた。
しかし、森暮らしの座標には、シジュウカラやリス、キツネ、アリやネズミにヘビ、カエル、そして樹木や草花など、自然界の生きものばかりだ。
しかも、彼らには遠慮というものがない。食うか食われるか、殺すか殺されるか。遠慮したり、弱みを見せるということは、私はあなたを恐れている、という意志表示にほかならない。
先のネズミの死も、このアリたちの死も、この森で懸命に生きるもの同士のぶつかり合いの結果なのであって、動物の命を奪う行為自体を楽しむハンティングやゲーム・フィッシングとは根本的に異なる。
何もわざわざ言い訳をしたいわけではない。
が、ぼくはネズミやアリの死を「どうってことないよ」と下に見ているから殺したのではないのだった。生きものすべての命は対等。つまりネズミやアリ一匹の生死は人間一人の生死と等価値。それをわかった上でのサバイバル戦だったのだと申し添えておきたいのだった。
真冬に来た三本脚のキツネ。
もう何か月も姿を見ていない。
あの不自由さだ。きっと誰にも看取られず、死んでしまったにちがいない。
でも、それでよいのだと思う。
生きとし生けるもの、自立して独りで戦い抜き、そして独りで死んでいく。
世間は孤独死を避けたがるけれど、それは生きものとしての自立性という観点からすると、どうなんだろうねとぼくは思う。家族に手を握られながら死にたい気持はもちろん「ごもっとも」と思うが、しかしそれは生きものの本然なのだろうかと。人類固有のただのひ弱さとは言えないのだろうかと。
ぼくはいま「孤独死は生きものとして自然であり、不幸がることはまったくない」という思いがしてならない。
いろいろ異論はあるだろうけれども。
●足ることを知る人々。
日本が最も暑い季節、七月末。
森を抜けて五〇分ほど自転車で走ると、キャベツ農家の集落に出る。
そこへ行くまでの間にはいくつかの新旧別荘地が横たわり、牧草地帯があり、ジャガイモ畑やトウモロコシ畑、豆畑、そして忽然と焼き肉屋さんやピザ屋さんがあり、そしてゴルフ・コースへと続く森がある。
集落は緩やかに起伏する広大なキャベツ畑の裾を縁取るように点々とあるのだが、首都圏のキャベツの多くは彼らが供給しているらしい。
戦後、国有林を農地に転換する政策が推進され、ここ浅間山北麓の高原地帯もその一つとなった。初代、二代目はさぞ大変だっただろう。まったくの人力だけで無数の木を倒し、根を掘り起こし、火山岩と格闘する毎日。
開拓途上で亡くなられた人々の慰霊碑が町道のはずれにあるが、掘り出した自然の岩をそのまま据えた武骨な形状が、当時の過酷さを嫌でも想像させる。
ぼくの情報源の石油屋さんの話によれば、あまりに厳しい生活に大多数は都会に下りたが、二十数世帯がなんとか粘り抜き、今日の礎を築いたのだそうだ。
その開拓地もいまや主力は三代目に移った。
ひ孫にあたる四代目ともなると、もはや開拓の苦労話は風化しつつあるらしい。
農業はすっかり機械化され、空中散布される強烈な農薬のおかげで、キャベツに虫がつかなくなった。同時に例の「雑草」として不当な差別を受ける競合植物も生えてこなくなって、収穫量も格段に上がった。
また。
農産物もブランド化による販路拡大や巧みな出荷調整で、売り上げの安定と増大がはかられる時代だ。キャベツ農家の人々もその波に乗って、三代目以降はキラキラのヨーロッパ車を走らせ、近隣のゴルフ・クラブの会員となり、屋根には金色に輝くシャチホコを高々とのせるまでになった。
山村のお百姓さんの顔と言えば、かつては素朴な日本人の代表だったのではないだろうか。
しかし残念ながら、ここではそれはもう昔語りだ。いま、農協に卸せなかった規格部外品を路傍店で別荘族に売る農家の人々の顔つきは、都会の競争社会で利を追う人々のそれと変わりがない。
値段は、農協に卸せなかった規格部外品であることや中間マージン、流通コストがかからないぶん当然割安かと思いきや、東京のスーパーで買うのと似たようなもの。
牧場に続くコナラ林が無惨にも伐採されたので気をもんでいたら、たったひと月でプレハブ造りのけばけばしいカラオケ屋さんが誕生した。
それもこれも欲、欲、欲。
もちろん、利益を得ようとする行為を非難することはできないが、そこには日本の原風景、トンボやセミを追う子どもたちの姿はない。お爺さん世代にはメダカやフナのすくえた小川もコンクリート製の直線溝に変わった。草刈りの手間を省くため、畑にも土手にも「雑草」駆除剤が多用され、昆虫にも住みにくい世になった。昆虫がいなくなった村には、小鳥も寄りつかないのである。
マ、ル、ハ、ダ、カ。
こういう状態をほんとうは「文化果つるところ」と言うのではないだろうか。
対照的なのは、この早春、犬に吠えられながらツクシを摘んだ村だ。
カラオケ屋やピザ屋や焼き肉屋はない。そのかわり、農家の庭先には梅やサクラ、レンギョウ、ボケ(ぼくではない)など、いかにも代々農業や林業を生業としてきた家らしい古木が何気なく佇んでいる。
もっと早く再訪すればよかった。春から初夏にかけては、さぞきれいだっただろう。いまもナツツバキ、ウツギ、フヨウなどの木々の花が咲き、その足元にはギボウシ、シモツケソウ、ホタルブクロ、それから名前を思い出せない数々の花々。
ここですれ違うのは、自転車並みの速度で走る軽トラックか軽自動車ばかり。未だに茅葺きのままの屋根もある。しかも、その屋根には風で運ばれた白やピンクの花々が…。
自然と歩みがゆっくりになり、肩の力も抜けていく村だった。
そんな農家の入口に、掘っ立て小屋の売店らしきものがあったので足を止めてみた。
見れば、キュウリが段ボール箱の底に転がっている。曲がったのや太さが揃っていないものばかりだから、規格部外品なのだろう。が、酢の物や炒め物にすれば何の問題もない。
「これ、一本いくらですか」
と若い奥さんに試しに尋ねてみた。するとその人、サア、いくらにしたものか…といった風情で首を傾げる。
奥で何やら作業中のお婆さんが、
「一〇〇円もらっときなさいよ、一〇〇円。ぜんぶで一〇〇円」
とあっけらかんと嫁に声をかける。
(え? ぜんぶで一〇〇円? 一箱ぜんぶで?)
ふだんぼくが行くJAのスーパーでは、いま一本四〇円している。ざっと数えると一五、六本はありそうだった。ということは、曲がったキュウリではあるが、一本がたったの六円ぐらい。
なんとまあ、どこかの路傍店とはえらい違いだ。いや、この村の、この人の欲のなさが稀有なのだと言うべきか。
あらためて顔を見ると、後ろ手に何も隠していない、あっけらかんとした明るい目をされている。
嬉しくなって、山盛りのミョウガも一ザル買う。こちらも大小あって不揃い。泥も洗ってはない。しかし、わずか二〇〇円。ふつうの五分の一にもならない安さだ。
…と。
奥からお婆さんが登場。
「これ、けさ、もいだんだけど、持ってく?」
明々(あかあか)と笑いかけながら、トマトを両手いっぱいに持って来てくれた。売っているような丸いツルツルしたのではなく、ゴツゴツした不格好なトマトだが、弾けそうなみずみずしさ。自家用トマトのおすそ分けにちがいない。申し訳ないからお金を払おうとするが、顔の前で両手を振って受け取っってくれない。
やれやれ。恐縮のあまり、声が一オクターブ高くなる。
「スミマセン、ありがとうございます、いただきます、スミマセン、スミマセン」
何を謝っているのか知らないけれど、ほかに言葉が出ない。
帰り道。
自転車をゆっくり走らせながら、深く深く、そしてさらに深く反省した。
人間はどうしたら幸せになれるのか、よく考えなきゃいかんということだなあと。
現代農村の抜け目のなさ、欲の深さは、現代社会そのままと言っていいだろう。彼らだけを批判がましく言うことはできない。
花に包まれた昔農村の方が絶滅危惧種なのだ。
あの穏やかさ、静けさは、おそらく、ぼくの勝手な意見を押しつけるようで申し訳ないけれど、足ることを知る暮らしをしている人々が多くおられる、その証しなのではないだろうかとぼくは想像する。
たとえば先ほどのお二人。もしかしたらあの人たちも、
「あれが欲しい、これが欲しい、あの人が羨ましい、もっと儲けたい…そういうこと言い出したらキリがないよ。いま持っているもので十分じゃと思わんとねえ」
そんなふうに分をわきまえた暮らしをごく当たり前にされているのかもしれない。いや、そう思っても間違いないような気が強くする。
ぼくは自転車を停め、昔農村の方をふり返った。
昔農村はきっと千年以上も前から、このままの静けさで山裾に佇んでいたのだろう。
そして、これもまたぼくの想像なのだが…。
浅間山の湧水が幾千夜を経て地層に濾され、澄みきった一滴を滴らせるように、山で木々を育て、野で菜を作ることだけに向き合って来た何世代にもわたる地道な暮らしが、人間のギトギトした諸欲を濾し取って、現在のあの佇まいとなった。
そのようにも思えるのだった。
これからも時々あの村には行ってみなければ…。
ぼくは集落に向かって深々とお辞儀をした。
「ありがとう。ほんとうに、どうもありがとうございました」
胸に昔農村の温もりが満ちた。
●ゴメンナサイ。
スーパー・アヅマの月に一度の「舌つづみ百円市」、それは幸せに会いに行く号砲だ。
まず、そこに至る道がいい。
アカツメクサとシロツメクサの花。背丈より高く育ったトウモロコシ畑。牧草地。花豆の畑。
その中に一本の農道。
よく深夜の静けさのことを人は語るが、真夏の白昼の田舎道は、呼吸するのもはばかられるほど静かだ。
犬も歩いていない。
鳥も声をひそめている。
影さえも蒸発してしまいそうな日照り。
標高一二〇〇メートル。大気は乾ききり、透きとおって、森の奥の奥まで見通せそうな光の届き方である。
そこに、ときたま、赤いジャージ姿の少女が独りうつむいて歩いていたりすると、ぼくの少年時代の孤独と重なり、胸が痛いほど寂しくなる。
そんな森閑とした道をゆっくり進み、バスに乗り換える。
バスもまたのんびり。前後に車はいない。厳寒期もそうだが、真夏の日盛りも、よほどでないと人は車を出さない。
ここでは草も木も畑も山も空も、すべてあるがまま。作為的なものは何もない。
それに比べ、東京の車窓から見える風景の騒々しかったことといったら。これが欲しい、あいつが羨ましい、有名になりたい、ワタシを見てヨ、どきやがれ、このドアホ…。
道中四五分。JR吾妻線のS駅前に到着。
じつはスーパー・アヅマ、元は八百屋さんだったそうだ。それが頑張って、電球や電池、洗剤やトイレット・ペーパー、ちょっとした文房具、そして豆腐やラーメン、漬物、干物、牛乳、ヨーグルト、缶詰なども置く便利屋さんになった。
まさにコンビニエント! 店の広さも都会のコンビニぐらい。
この「舌つづみ百円市」のことは、生協の注文品の集配所で仕分けを待つ間、例の姦しいおばさん、お婆さんたちの雑談が何となく耳に入って興味を持った。
ちなみに。
ぼくはこの「まるで上沼さん&黒柳さんたち」に未だ仲間入りを許されていない。
たぶん、これからも軽い村八分状態が続くのだろう。彼女たちにとってぼくは、いつまでたっても「東京から、こともあろうにわが村に死にに来た招かれざる客」であり、「年寄りはわたしらでもう十分間に合うとるのにね」ということなのだろうから。
もっともな意見だ。彼女たちに文句はない。
で、本題に戻ると…。
「舌つづみ百円市」では、東京で三〇〇~五〇〇円見当のものが、なんとまあ一〇〇円均一で並んでいる。ふだん行くJAのスーパーの特売でも、なかなかこんな特価には出会えない。
とにかく破格に安い。だけど、そのとき心を過るのは、不思議と損得気分ではない。
(なんて豊かなんだ!)
そういう感慨。ご主人にも安売り店特有の荒々しさがない。買わなきゃ損だよという猛々しさがまったくない。
「おいしいんだよう。切ないほど甘いんだよう。よかったら持ってってぇ」
そして最後に
「安くてごめんねぇ」
の一声がつく。
丸々と太った胴体、垂れた頬っぺた。すべてが幸せそうにふくらんでいる。
そのご主人、物を売っているかに見えて、きっとそういう感覚はないのだろう。たぶん、月に一度、皆さんが喜んで買っていってくれる、その幸せな気分を味わっているのだろうと想像する。
照れくさい言い方だが、幸せの分かち合い? そういうことだ。
スーパー・アヅマから帰ってみると、玄関先には「野菜の舟」が着いていた。
プリプリのキュウリにナス、カボチャが段ボールにいっぱい。
キュウリの上にメモがある。Kさんから着いた野菜だと判明した。
Kさんは畑を借りておられる。いまはいろいろな野菜の収穫時期なのだろう。立派に育った喜びのおこぼれをありがたく頂戴する。
メモにはこうあった。
「よろしかったら、どうぞ。ゴメンナサイ。K」
勝手に押しつけてゴメンナサイ。そういう意味だろう。いかにもKさんらしい。
じつはぼく、ひと月前、初めてラッキョウ漬けに挑戦し、その大きな瓶を眺めては、毎日ひとりで幸せな気分に浸っているところだった。
ノビルがお好きなKさんだから、きっとラッキョウもお好きにちがいない。差し上げれば、ぼくと同じ幸せ気分を共有してもらえるのではないだろうか。
瓶に小分けし、持って行く前にぼくもメモを書いた。
「よろしかったら、どうぞ。こちらこそゴメンナサイ」