炭山の御神木(2)
その年も予想通り冷害だった。春先に咲く辛夷は北向きに咲いたし、桜の開花も遅かった。冷害の予感はあったが、何時か分厚い雲は切れ、暖かい太陽が降りそそぐ時が来ると信じて種を蒔いた。だが期待は裏切られ、収穫は豊作年の半分もなかった。
「今年も駄目だったな。炭焼きはともかく、もっと救済事業があれば助かるんだがな」
和男は富美の前ではつい弱音が出る。返しを期待しない本音を、富美は柔軟に受け止めてくれている。どんな苦境に立たされても。富美の顔から笑顔が絶えることは無かった。和男には富美が日々の変化を楽しんでいるようにも見えるのだった。それが救いだった。
北風が地面に筋状に粉雪を残して行く、冷たい風が吹く季節になった。荒地の雑木を切り倒し、丸太を野積にして小枝は焼き払う。寒風の中、単調な作業は続いた。
「毎日毎日同じ作業ばかりで、もういい加減嫌になったな」
「でも、和ちゃん、考えても見てよ。切り倒した木は炭になり、荒地は段々と拓けて行ってるじゃない。あとは伐根して耕して種を蒔く。何時の間にか畑になるのよ。一石二鳥じゃない」
言われてみればその通りだった。炭を焼くために木を切り倒す。拓かれた大地を耕して種を蒔く。確かに、富美の言う通りだった。
農作業の後かたずけも終わり、一段落がついた時、富美は自転車で士幌市街まで正月用品を買いに出かけた。往復で六時間以上は掛かる。二人が暮らす開拓小屋は坊主山(東ヌプカウシヌプリ)の裾にある。士幌市街からは徐々に標高が高くなるので、行きは下りが続くので楽なのだが、帰りは辛い。二人で馬車で行こうと提案したのだが、富美は頑なに自転車で一人で行くと言い張った。
晩秋の日没は早い。午後四時半を過ぎると、辺りは漆黒の闇となる。大地が暮色に包まれても、富美は戻らなかった。ひょっとすると富美は戻らないかも知れない。そう思うと急に不安になった。過去を振り返って見る。喧嘩をした時の状況を思い起こしてみた。春先から今まで、自分では些細なことでも、富美には我慢出来ない言動があったのかも知れない。それとも、どんなに努力しても、報われない貧乏生活に嫌気がさしたのかも知れない。富美は未だ若いし子供もいないし別れるのは早い方がいいと思ったのかも知れない。第一、市街に買い物に行くとだけ告げて、何を買うとも、何時に帰るとも言わなかった。疑惑が湧きあがると、際限なく広がって行く。
一度不安に襲われると、不吉な疑問が次々と湧きあがってきた。
富美は何回か流し台で吐いていた。最近、痩せて来たような気がする。その度に具合が悪いのか、と訊いたのだが、満面に笑みを浮かべて首を横に振った。だから、別に気にも止めなかったのだが、考えて見ると富美は身体に異変が起きていたのかも知れない。最悪の場合癌に侵されたのかも知れない。
和男は茶箪笥の引き出しを開けた。そこには必ず保険証があるはずだった。保険証は無かった。心臓が張り裂けそうになった。富美は病院に行ったのだ。病に侵されていても、富美は誰にも知らせず、一人で背負って戦っていく積もりなのだ。富美とはそんな女である。
だがそれもそうだが、この季節で不作の年だ、ひよっとすると熊が餌を求めて里に下りて来たのかも知れない。瞬間、富美が熊に襲われる凄惨な光景が脳裏を過った。背景には、隣村の鹿追村東瓜幕で出没した熊が、紅葉橋付近で出動要請を受けた自衛隊によって射殺されたというニュースが流れたばかりである。妄想が走馬灯のように脳裏を駆け巡っていた。
和男は父が残した旧式の村田銃を手にすると、馬に馬車を括りつけ、市街地に向け走った。
馬に鞭を打って十五分ほど馬車を走らせた時、自転車を押して坂道を登って来る富美に出会った。富美の元気な姿を確認した時、一気に緊張が解け、膝がガクガクと震えた。
ともかく自転車を荷台に上げ、冷え切っている富美の身体を毛布で温めた。
「馬鹿垂れが。だから俺が馬車で一緒に行くべって言ったのに。何で自転車で。全く。今時分は熊がうろついてんだぞ。それなのに、一人で行くなんて、全く馬鹿も程ほどにしろ」
富美の安全が確認できた安堵感がそうさせるのか、言葉が勝手に口から飛び出して来る。
富美は和男の言葉を聞いているのかいないのか、輝き始めた星空を呑気に眺めてニコニコと笑っていた。そんな富美の態度を見て和男は腹が立った。
「おい、聞いてんのか。俺がどんなに心配したか分かってるのか」
「聞いてるよ。それにしてもさ、柏の葉っぱがさ、風でカサカサなるもんだから、熊が潜んでるじゃないかってね。おっかなかったわ。柏の葉っぱってさ、秋になっても、どうして落ちないのかね」
「ああ、柏の葉っぱはな、新芽が出るまで落ちないんだよ。新芽が出始めると安心して葉っぱを落とすんだ。どういう訳か知んねえけどな。とにかくそういうもんだ」
「へえ、そうなんだ。新芽がでるまで、木を守ろうとしてんだね」
「そだ。それより病気じゃ無かったんか?」
「病気?誰がさ」
「お前だよ。病院に行ったんだろ」
「何ともないよ」
富美は曖昧に答えるだけだった。
「保険証無かったぞ。だから病院に行ったと思って」
「ああ、保険証ね。もし、交通事故に遭ったら困るなと思ってさ」
「それで持って行ったのか」
「そうだよ」
「俺は又、病気になって病院に行ったと思って、慌てたよ」
「心配してくれたんだ」
富美は星空を見上げて意味あり気に笑った。和男には富美が笑った意味が分からない。
「どうでもいいけど、あんまり人に心配かけさすな」
言って和男は軽く馬の尻に鞭を入れた。和男が腹を立てて怒っても富美は何時も、けろりとしている。富美の人を食った態度には何時もはぐらかされる。それでも不思議なことに腹が立ったことは無い。まるで喧嘩にならないのである。富美と話をしていると、まるで別世界にいるような気にさせられるのだ。独特の世界感を持った女だった。
家に戻ると富美は直ぐに買い物袋を開け始めた。ニコニコと上機嫌である。
「先ずはね、これ」
富美が手で翳して見せたのは純白の産着だった。
「お前、何だそれ・・・・・・。まさか、まさか。冗談だろ」
「冗談なんかじゃないわ」
「と云うことは」
「と云うことなの」
富美は満面の笑顔である。
「できたのか?」
和男は生唾を飲み込んで訊いた。富美は頷いた。
「実はね、もしかしたら赤ちゃんができたかも知れないと思って病院に行ったの」
「そんな大事を何で俺に言わんのだ。馬鹿垂れが」
「だって、赤ちゃんが出来てなかったら、アンタはガッカリするでしょ。私アンタのガッカリする顔を見たくないもん」
「それで、一人で確かめに行ったのか」
「そう」
「そうじゃないんだよ。もし、風邪をひいたり熊に食われたらどうするんだ。それを心配してるんだ。お前一人の体じゃないんだぞ」
「アンタ怒ってんの?」
「怒ってなんていないよ。いや、怒ってるよ」
「一体どっちなのよ」
「早い話、嬉しくてたまらんってことかな」
二人は顔を見合わせて笑った。子供が出来たことは今年最大の慶事だった。
「いずれにしろ跡取りが出来たんだからな。もっともっと頑張らなきゃな」
和男は富美の腹を撫でながら、自分に言い聞かせるように呟いた。
「アンタね。お腹をさすったって、男か女か分からんよ」
「分かるさ。確かにここにいる。富美、腹の子は間違いなく男だ。よかったな」
「何言ってんのよ。未だ分かる訳ないじゃない」
「分かるよ。男の血が滾ってるのが、俺の手の平に伝わってきてるからな」
「私はどっちでもいいわ。女の子なら、婿さんに来てもらえばいいし。むしろ、女の子の方がいいかな。可愛いしね」
「そうだな、婿取りでもいいか。それにしても、婿取りとなると、相手の家に負けないほど金持ちになってなきゃならんな」
「どうして?」
「当たり前だろ。婿の家より貧乏だと、娘が可哀想だからよ」
和男は言い残して外に出た。晩秋に吹く風は冷たく、早くも乾いた粉雪が上空に舞っていた。興奮している和男の身体は火照っていた。冷たい風も心地良い。