旅人(1)
蝉しぐれが大地に降り注いでいた。まるで合いの手を入れるかように、潮騒が悠久の時を刻んでいる。空に一点の瑕疵もない、良く晴れた日だった。
和尚が朝の勤行を終えて母屋に戻る時、貧相な老人が境内の塵を拾っている姿が目に止まった。小柄な、恐らく七十を幾分過ぎているだろう老人は、ビニール片や煙草の吸殻を拾い集めていた。檀家の一人だろうと思ったが、住職に見覚えは無かった。
最近は檀家の数も減り、寺に奉仕してくれる人は限られていた。それらの人の殆どとは顔見知りである。だが、塵を拾う老人に、記憶を辿っても、糸に絡まって来る者は居なかった。
老人に冷えた麦茶を差し出すと、ニッと笑って軽く頭を下げて、一気に飲み干した。老人は,ベンチを占領していた、大きめのバッグパックを引き寄せ、和尚が座るスペースを作った。
「どこから来なすったのかな?」
「どこって、まあ、今は根なし草みたいなもんです」
「ほう、それは又、風流といえば風流なことで」
和尚は言葉に詰まった。改めて近くで老人を見ると、衣服は清潔で、身体にも汚れは無い。ホームレスでもなさそうである。住職の先入観は外れたようである。
「ところでどちらから参られたのかな?」
改めて訊いてみる。
「厚岸の国泰寺、それと、様似の等樹院を訪ねて、ここに来ました」
「ほう、貴方は蝦夷の三官寺を巡ってこられたのですね」
「蝦夷の三官寺?」
「さよう。当寺の他、国泰寺と等樹院が蝦夷三官寺なのです。この寺は、慶長十八年に時の将軍徳川家斉公によって正式に建立された、芝増上寺の末寺なのです。という訳で、中々、田舎寺とは言え、由緒正しい寺なのですよ」
和尚は自慢げに説明した。
「そうだったんですか。知りませんでした。古風蒼然とした佇まいに惹かれ、遂、足を踏み入れてしまいました」
老人はそう言って軽く頭を下げた。
和尚は、老人は蝦夷三官寺についての知識は持っていると気がついた。でなければ、ここ善光寺と同じ三官寺の、国泰寺や等樹院を巡るはずはない。知識を隠すには何等かの意図があるのだろうか。
「和尚様、実は私には分からないことがありまして・・・・・」
「ほう、何なりとおっしやって下さい」
「私は死んだ後、どうなるのでしょう?私はね、癌を患っていましてね。余り長生きはできそうもないもんですから」
「さて、どうなるとは、どのような?」
「はい、死後の世界がどのようなものなのか知りたいのです」
「なる程、死後の世界ですか。これは何しろ難しくて良く分かりません。何しろ死後の世界を見て来た者はおりませんからな」
「死後の世界は暗い処か、明るい処なのか、それだけでも知りたいのです」
「私は明るい世界だと信じてます」
「そうですか」
老人は言って傍らに置いたバッグバックを引き寄せて、膝の上に置いて抱きしめた。バッグの中に何か固い思いものが入っているようである。
「人は死ぬと、先ず七日後に、現世を離れて冥界に行く。そこは、現世と来世の間にあって泰広王によって、五戒の取り調べがある。五戒とは即ち、殺人、盗み、邪淫、虚言、酒癖をいうのだが、何、調べは簡単なものらしい」
「五戒の他に、戒めとして賭け事は無いのですか?」
「無い」
老人は怪訝な表情を浮かべた。現世では飲む打つ買うは男の甲斐性なんて言われる一方、ろくでなしと揶揄されている。特に打つの場合、家庭に災いをもたらす悪である。賭け事が五戒の内に入っていないのは不思議だった。
潮騒すらかき消すほどの蝉の声が大地に降り注いでいた。だが、静寂なのである。自然が醸し出す音は騒音ではない。
「して、その後は?」
「三途の川を渡る事になる。それにしても、何故そのようなことを知りたいのです」
「怖いのです。死ぬことが怖いのです」
「恐れることはありませんぞ。三途の川を渡ると、七日後に初江王によって、盗み、その後、宋帝王による邪淫、五官王によって虚言癖は無かったか否か、そして、最後は閻魔王によって、地獄へ落ちるか安楽国へ導かれるかの審判が下されるのです」
聞きながら、老人は青空の遠くを見つめていた。
「それで、冥界というところは怖いところですか?」
一点に視線を置きながら、呟くように訊ねた。
「決して怖くはありませんよ。邪な生き方をしていなければね。冥界と言うところは慈愛に満ちた、何の恐れも穢れもない、平和な世界なのです。勿論生活の心配は無いし、暑くも無く寒くも無く、芳香に満ち満ちた世界なのです。そりゃそうでしょう、家族を支え、守って、必死に生きた人間が最期にたどり着く場所なのですから、酷い世界である筈はありません。そもそも、現世に生きる人々は総て旅人であり、旅の終わりには天上に戻り、再び旅に出る。この繰り返しの一つが人生なのです。つまりこの世は輪廻中の仮の宿といえるのです。所詮、人間は永遠の旅人なのです。愚僧はそう思っています」
「そうですか。安心しました。ところで、これの始末をお願いします」
老人は深々と頭を下げて、拾い集めたゴミが入ったビニール袋を和尚に預けた。
「お蔭様で庭は随分とすっきりしました」
和尚はゴミ袋を受け取り、合掌してそっと、老人の表情を窺った。老人の表情から険が消えていた。背負っていた迷いが取れたのだろう。
「ところで、これからどちらに行かれるのですか?」
「ああ、私ですか。私はこれから地球を実感したいので、地球岬に行ってみようと思っています」
「地球岬ですか。地球岬と言えば、室蘭ですよね」
「そうです。室蘭の母恋駅の近くと聞いています」
「そうですか。ところで乗り物は?」
「汽車で母恋駅まで行って、あとは歩きですよ。徒歩で行こうと思ってます。健康のためにね。少しでも足腰をきたえないと、三途の川を渡れませんからね」
老人はそう言って、意味あり気にニヤリと笑った。冗談ではなさそうだった。だが、住職には老人が笑う意味が分からなかった。
「ああ、御住職。私は、磯崎と言う者です。無職の年金生活者です。つまり社会の厄介者です。ハハハ」
乾いた笑いを残して老人は去って行った。
中天にある真夏の太陽の下で、一層激しさを増した蝉しぐれが、巨大な音響となって、老人の背に降り注いでいた。
老人が立ち去る姿を見送りながら、住職は釈然としないものを感じていた。老人が最後に残した言葉が気がかりだったのである。
(安心しました)とはどういう事だろう。重篤な病に侵され、余命幾ばくも無い老人が、行く先の不安が解消されて発した言葉なのか。それとも、会話にケリを付けたくて発した言葉なのか分からなかった。ただ、あの老人は、境内のゴミを拾いながら、明らかに住職が現れるのを待っていたような気がする。老人が住職に求めたものに対して、適格に応えることが出来たのか、はなはだ疑問ではあった。何しろ、あの老人が何を求め、どのような答えを期待していたのかは分からない。ただ、一つ言えることは、磯崎と名乗ったあの老人は、何かを決断し、実行しなければならない決意を固めているような気がしてならなかった。
(所詮、誰かに背中を押してもらいたかっのかな)
何れにしろ、老人が未智だった死後の世界が、決して恐ろしい世界ではないと教えられ、満足したのであれば、それも救済といえるのだろう。だが、住職は老人の真意を理解したわけではない。その老人は、一見穏やかな微笑みを絶やさなかったけれども、住職には、笑みの中に殺気のようなものを感じていたからである。