旅人(3)
数年前、磯崎は無二の親友を失った。診察を受けた時点で、末期の胃がんだったのだ。親友の瀬古を失った時、激しい悔恨と自責の念に駆られたのだが、それが未だトラウマのように心の痛みとして残っている。
六十歳を過ぎて、二十年振りの同窓会があった。今まで、瀬古は同窓会に出席したことは無かったのだが、初めて顔を出したのである。宴会の時、出席者は総て浴衣に着替えていたのだが、何故か瀬古だけは、スーツを脱ごうとはしなかった。打ち解けた場での冗談にも薄く笑みを浮かべるだけで、普段饒舌な口から発せられる言葉は無かったのである。
何か瀬古一人が別世界にいて、上空から同窓の友を眺めているかのようだった。磯崎はそんな親友に違和感を覚えていたのだが、以後、その謎を解く機会は無かった。
「何故早く病院に連れて行かなかったんだ」
磯崎は瀬古の妻を詰った。胃がんなんて、早く見つければ治るのに、そんな思いを含んだ怒りだった。
「実は私は全く分からなかったのです。主人が亡くなったあと、タンスの裏から大量の胃薬と痛め止めの空袋が・・・・・」
そう言って妻は泣き崩れた。
大学を卒業後、彼は牧場経営を目指して奮闘した。
元々乳牛三十頭余りを飼育する酪農家だったが、経営規模の拡大を決意して、苦労の末、遂に畜産公社のリース事業を利用し、広大な土地と百頭の牛を手に入れたのだが、牧場経営を始めた翌年から、牛乳の生産調整が始まって、生産量の凡そ七〇パーセントの牛乳に、食紅を混入させられて廃棄させられたのである。それでも、瀬古は歯を食いしばり、先祖伝来の山を崩して土を売り、はては、更地の土地まで手放して守ろうとしたのだが、牧場は差し押さえられ、二束三文で手放さざるを得なかったのだ。未だある、銀行から一千万の繋ぎ資金を借り入れたのだが、これも返済不能に陥り、債権は債権整理機構に売り飛ばされ、以後、その債権整理機構に数万円ずつ返済を続けていた。銀行から、一千万の借金をした時、信用保証協会に保障料として、五十万円支払ったのに、借り入れた一千万は債務として残ったままなのである。一体保障協会に支払った五十万は何だったのか、企業が倒産して、返済不能に陥った時の保障では無かったのか。
「払う金が無いのなら自己破産しな」
銀行の担当者は、背筋が凍るような表情で言い放ったという。
自己破産とは、事業をする者にとって、死刑を宣告されたと同じ意味を持つ。一度躓くと、二度と復活出来ない日本の社会構造は、誰よりも銀行マンなら知っているはずである。事業の失敗者は無能力者の烙印を押され、多額の借金を背負って、その後の人生を社会の底辺で生きていかなければまらない。
瀬古は、自己破産して、無一文になったことより、友人だと信じていた銀行マンが豹変し、頼りにしていた友人知人が、次々と去っていった現実が悲しかった。
その後、瀬古は故郷を離れ、林業作業員として、二人の子供を育て上げ、遂に癌に倒れたのである。
確かに瀬古は自己破産することにより、借金地獄から解放された。だが同時に彼が培ってきた信用と、キャリアの総ても失ったのである。学歴なんて全く価値はなかった。妻子を養わなくてはならない。そんな責任感が、きつい肉体労働に駆り立てたのだった。
それでも、長女は結婚式で両親への感謝の言葉を述べた時、最後に、
「私はこの家に生まれて本当に良かった。お父さんとお母さんに幸せとは何かを教えられたからです」
と言って大粒の涙を流した。その後の言葉は無く、暫くの間沈黙した後、頭を下げて感謝の言葉を終えたのである。恐らく、苦難の時を経て、それでも明るくて、偽りの無い家庭生活で育まれた彼女の万感の想いが、最後の言葉を失わせたのだろう。
感謝の言葉を聞いて、磯崎は涙が溢れてならなかった。欲しいものがあるかと聞いても、首を横に振り、我慢を重ねて育った娘である。瀬古が、娘が欲しがっていたものを察して買ってくると、娘は何時までもそれを胸に抱いて離さなかった。瀬古は生前、そんな娘の健気な姿が眼に焼き付いていると微笑を浮かべて語ったことがある。その娘が、この家に生まれてきて本当に良かったと感謝をしたのである。
日々、顔から笑顔が消えることはなく、明るい娘だった。そのくせ家庭の苦境は知っていたのだ。それが又、瀬古を苦しめたのだった。結局、最後まで彼を見捨てなかったのは家族だけだった。
まもなく、瀬古は苦労を掛けて済まない。総ては駄目な男の俺に責任がある。そう言い残して死んだという。本当に総てが瀬古の責任だったのだろうか。今、瀬古に公社牧場を進めた役人と銀行員は、高額な年金で豊な生活をしている。