旅人(5)
磯崎は大小の差はあるものの、全身は病魔に侵され、今後、更に新たな病魔が襲ってくるのだろうと予感していた。まるで倒木がキノコや藻に侵されて朽ち果て、やがて土に帰る様に似ていると思った。それにしても、と思う。癌細胞とは哀れなもので、健康な身体に巣くって、蝕んでやがて巣食った肉体とともに自身も滅んでいく。増殖すればるほど肉体の寿命は短くなるのに、それでも全身に勢力を伸ばそうとするのだから、遇の骨頂と言える。
健康な時は思いもしなかったことだが、今は己の朽ち果ていく姿が、はっきりと見えるようになった。
今の所、病を患っているとはいえ、体は動く。猫や象は死期を覚ると、人目に付かない場所で最期を迎えるという。恐らく身内にも友人にも迷惑をかけない心ずかいなのだろう。まわりの人に迷惑をかけない身の処し方は、正に磯崎の理想とするところだった。
人に迷惑をかけない生き方、その第一歩として、身辺は常に綺麗にしておこうと思う。
とりあえず蔵書の処分をすることにした。自分には大切な価値ある蔵書ばかりである。衝動買いをした本など一冊もない。だから、妙な感傷に囚われていると、一冊も処分できないだろう。
長年かけて、自分なりに希少本だと思って集めた蔵書が約五百冊ほどあったのだが、リサイクルショップに査定してもらったところ、総てで六十円だった。退職後にゆっくりと読破しょうとして集めた希少本がたった六十円の価値しかなかったのだ。そのことは、売れ行きの良い本は高額で買い取られ、売れ行きの鈍い本は二束三文の価値しかないということなのだ。一番分かりやすい資本主義の原理なのである。もう読まない本だと割り切っていても、腑に落ちないことではあった。
その他、家具や電気器具の総てを遺品整理会社に依頼して処分し、大家にも退去の挨拶を済ませ、大き目のバッグに当座の衣類と妻の位牌を入れて旅に出た。七十数年生きた財産の総てが大き目のバッグ一つに収まっている。先ずは厚岸に向かって国泰寺をたずね、次は様似の等樹院をたずねた。どの寺も閑散としていて、人の気配すらしなかった。最後に尋ねたのが、有珠の善光寺だったのだ。
磯崎が高名な寺を尋ねたのには理由があった。身に不治の病を得て、生きていても仕方がない身だと覚ったものの、実は自ら命を断つ勇気がなかったからだ。だから、由緒のある寺で、死後の世界を教えてもらいたかったのである。仮に、死後の世界の景色は美しく、芳香に満ち満ちて暖かく、きれいな蝶や小鳥の舞う世界であるなら、貧乏な上に不治の病に苦しみながら現世で生きる意味はない。だから、蝦夷の名刹である三官寺を尋ねて教えを請いたかったのである。
結果、この問いに答えてくれたのは有珠の善光寺の住職だけだった。勿論、浦河の国泰寺の住職や、様似の等樹院の住職だって、会うことが叶ったなら、快く教えてくれただろう。ただ、磯崎は仰々しく門を叩いて面会を求めるより、偶然に合って、あたかも雑談の中で教えを請いたかったのである。あくまでも、磯崎が死を望んでいることは絶対に覚られたくなかったからである。
老人が寺を去った後、住職は気になっていた。寺の門を出て行く老人の後姿が、現世の人間の姿とは見えなかったのだ。あの老人はなぜ死後の世界を知りたかったのだろう。
住職は翌日も気掛かりで、朝の勤行を終えた後も老人のことが気になり、胸のしこりとなっていたのである。前の日、寺の境内でゴミを拾っていた老人が気になってならない。たしかに、あの時の老人の背には死の影が射していた。気のせいだと、強いて思ってみる。だが、少し丸みを帯びた痩せた背に、諦観が覆いかぶさって見えたのである。
(確か彼の老人は磯崎と言ったな。してウチの寺のあと、地球を見に行くと言ってたが)
住職は礒崎と名乗った老人の風貌と言動を思い返していた。
(間違いない。彼は今生の別れにこの寺を訪ねたのだ。しかも北海道では一番格式の高い、蝦夷三官寺を巡り、冥土の土産としたのであろう。
午前中は快晴で、焙るような熱暑が、大地に降り注いでいたが、午後になって一転して天空は入道雲に覆われて、大地を叩きつける激しい雨となった。上空では稲妻が縦横に走り、雷鳴は四隣に轟いた。
住職は天候の急変に一瞬逡巡したが、意を決して私服に着替えて、自家用軽自動車のハンドルを握った。激しい雨と雷鳴は一向に止む気配はなかった。路上にせり出て来た霧は雨を呼び、雨は又霧を呼んだ。ワイパーをフル回転にしても遠くまでははっきりと見通せなかった。雷が襲ってきても、車の中にいれば大丈夫だという位の知識はもっていたが、分厚い雲に覆われて、薄暗くなった国道を走るのはさすがに不気味で不安だった。
恐れが杞憂であって欲しいと願う一方、老人の命が失われるかもしれないという心配が脳裏を過る。と同時にバッグパックを背負った昨日の老人が、雨を避け、駅舎の長椅子に座ってのんびりと缶コーヒーを飲んでいる。ふと、そんな映像も同時に脳裏を過るのだった。
この時、磯崎は安宿を出て母恋の駅舎に居た。誰との約束もない気ままな旅である。日本の美しい景色を存分に味わうには徒歩がいい。死を前にして、今更、健康目的でのウォーキングなんて意味はない。健康のことより、ゆっくりと景色を見たかった。だから安宿から母恋の駅舎まで徒歩で来た。
磯崎は母恋駅の待合室の長椅子で缶コーヒーを飲んでいた。駅の自動販売機のコーヒーは総てアイスコーヒーだった。磯崎はどんなに暑い日でもアイスコーヒーは飲まない。だけど小さな駅舎の自動販売機は、夏の間は総てアイスコーヒーになる。その日は夥しく汗をかいたので、異常に喉が渇いていた。水より多少なりともコーヒーの香りがあった方がいい。ただそんな理由だけでアイスの缶コーヒーを買ったのだ。
少し汗が引いた頃だった。突然、水平線上に入道雲が現れると、たちまち上空は黒雲に覆われて雷鳴が轟き、あっという間に大地を驟雨が襲った。地球岬の観光客は悲鳴を上げ、一斉に姿を消した。
突然の雨を避け、観光客の大半は乗って来た自家用車に逃げ込み、バスで来た観光客は駅舎に逃げ込こんで来た。
コーヒーを飲み終えた頃、雷は遠くに去って、辺りは急に明るくなった。上空に再び真夏の青空が広がった。雷雨を避けて駅舎に避難していた観光客は再び地球岬に向かって移動を始めた。
礒崎も人々の流れに紛れて地球岬を目指した。地球岬展望台に立つと、眼前に百八十度の大パノラマが広がっていた。海の果ては気のせいか丸みを帯びているように見える。地球岬展望台から歩いて四分ほど左の歩道を進むと、金屏風展望台に着く。金屏風は百メートルほどの断崖絶壁が海岸線に連なり、朝日を浴びると金色に輝くという。残念ながら磯崎が金屏風展望台についた時の絶壁は、赤褐色の肌を晒しているばかりだった。どうやら、朝日が射した時、船上からみると岩肌が金色に輝いて見えるらしい。
磯崎は金屏風が金色に輝こうと単なる赤褐色の岩壁であろうと、特段興味は無かった。ただ、人目に付かない場所を意識的に探していた。幸いにして、この辺りに来ると、観光客の姿は疎らだった。金屏風展望台を過ぎると、一応柵はしてあるものの、海岸を仕切る柵は、簡単に乗り越えることが出来た。
観光客の姿が見えなくなったところで、柵を乗り越えて岩の裂け目の、狭い平地に腰を降ろした。
バッグパックを引き寄せ、ウイスキーを取り出し、無理やり喉に流し込んだ。喉に焼けるような痛みが走ったが、爽快だった。どうせここで死ぬのだから、身体の心配はしなくてもいのだ。
ウイスキーで大量の睡眠薬を喉に流し込んだ。
酔いが急に五体を巡る。磯崎はバッグパックから妻の位牌を取り出し、手を合わせた。礒崎と結婚したことが妻にとって幸せだったのか、それとも不満だったのかは分からない。だが磯崎にとって、妻の存在は身体の一部であり、決して切り離すことの出来ない存在だった。だから妻が死んだ時、はっきりと自分も何時死んでもいいと思ったものである。そうは思ったが、人間というものは、よほどのきっかけが無い限り、簡単に死ぬことは出来ないようになっているらしい。生きる意義を失っていても、来世への旅立つ決心はつかななかった。何かの事故により、一瞬で命を失う死に方が良いのかもしれない。少なくとも病魔と戦いながら、苦しみ続けて生きながらえるよりは、案外幸せな死に方なのかも知れない。
酔いが激しい勢いで五体をめぐり始めた。
位牌を床に置いて、妻の面影を四辺に探した時、飾る花が無いことに気がついた。礒崎は立ち上がって周辺を見回した。金屏風展望台の一帯はクマザサに覆われている。野花の一輪も無かった。あきらめて戻ろうとした時、平地のほんの狭い空間に夕顔が咲いているのを見つけた。磯崎は夕顔を一輪摘み取って妻の位牌に添えた。それだけで随分と心が安らいだ。
再び妻の位牌の前に座ってウイスキーをがぶ飲みした。お終いだ。でも、これは正しい選択だ。生きていても何の楽しみも生きがいも無い。おまけに、全身癌に犯されている。生きていても間もなく寿命が尽きる。早いか遅いかの違いである。病に苦しみ、他人にも、迷惑を掛けながらも生き続ける意味は無い。
強かに酔った。死んだ妻が父母が兄が晴れ渡った青空の彼方で微笑んでいる。幼いころ、粗末な食事だったけれども、家族で卓袱台を囲む時は楽しかった。何しろ、遊んで帰ってくる時は腹が減っている。だから、何を食べても旨かった。間もなく、そんな家族が待つ家に戻る。楽しい旅になりそうだった。
もう一度抜けるように晴れ渡った空を見て、地球の果てだという、水平線を見ようと思った。崖の淵に立った時、足元の土がぬかるんでいて滑った。身体が宙に浮いた。この瞬間、磯崎は意識を失っていた。