不戦の王 24 いざ上洛
<目次>
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源氏・清原連合軍は勢いに乗って、五日後の九月十一日には、20数キロ北にある鳥海(とのみ)柵も一気に抜いた。
抜けるはずだった。誰もいなかったのだから。無人の柵に、清原軍は例によって炎の戦士を差し向けた。
鳥海柵は現在の岩手県金ヶ崎町。胆沢川北岸にあるこの柵は、朝廷の北限の軍事基地、鎮守府将軍のいる胆沢城と指呼の距離にあって睨み合っている。それだけに、そう簡単には陥落しない城柵のはずだった。
ところが、安倍はそこでも戦おうとせず、捨てた。
朝廷軍が来たと見るや、自慢の軍馬をこのときも攻めに使うことなく、悠々たる退却の足として用いたのである。
城の主は、三男の鳥海三郎宗任。
しかし、からっぽでは、城主が誰であろうと関係ない。焼け残った蔵からは酒十甕が出てきた。しかも濁り酒ではなく清酒(すみさけ)だった。
「もしや、これが倭人の長(おさ)しか口にできぬという清酒というものではないのか」
清原軍は目を輝かせて、甕から立ち昇る匂いに鼻を近づけた。頼義がその背中に、ここぞとばかり厳しく言い放った。
「待ていっ。一滴たりとも飲むでないぞっ。毒を飲ませるための策に決まっておる。でなくば、これほどの量の清酒が捨て置かれるはずはなかろうがっ」
一同、しぶしぶ引き下がった。しかし当然の推論ではあった。
「しからば、そこらの犬でも捕まえて、毒見をさせたらいかがなもので」
未練たっぷりに、そう提案する武将もあった。
そのとき、清原武則が言った。
「犬を連れてくるには及ばぬわ。これが毒か否か、わしが試してみようかのう」
「なんと。武則殿がお毒見とな?」
頼義が複雑な表情をした。下がり眉の下から、武則の魂胆を測りかねている。
周囲は騒然とした。おやめくだされ、と止める清原方の者。さすが剛胆な、とわざとらしく感心してみせる源氏の者。源氏の将士は明らかに挑発している。毒で死ぬ武則を見たがっている。
武則は周囲の騒ぎをよそに、蔵の隅に転がっていた焼き塩壷を拾い上げ、ざぶりと甕の酒をすくった。
「お、お待ちくだされいっ」
清原の者は必死で止める。しかし、武則、ニタリと垂れた頬をゆるませ、その手を払うと一息にあおった。
「おおっ」
「お館様っ」
どよめきが起こる。全員、武則がいまにも喉を掻きむしり、のたうち始めやしないかと見守るなか、武則は平気な顔をして次の甕からも同じようにした。
「うーい、うまい! なるほど。倭朝の貴人が黄金の水と言うて珍重がるはずじゃわい。しかも、この戦勝。安倍の城の火を見たあとの清酒は、なんとまあ、美味なことよのう」
前にも触れたが、清酒は京の高級官僚でもめったに手に入らない貴重品である。なのに、陸の果て、陸奥の夷族の安倍の三男坊程度の居城に十甕もあろうとは。
頼義は一方では武則の蛮勇ともいえる振る舞いに、依然として解せない思いを抱きながらも、もう一方では安倍の奥深さをいまさらながら思い知らされた。
(京の、それも相当に上つ方との交流なくば、これほどの清酒、決して手には入れられぬ。さては関白と? しかし、そうじゃとしても、これだけ大量の清酒、相応のやり取りをしておらねば得られまいに)
そのとおりである。
相応以上のやりとりをしたから手に入れられたのだった。頼義が畏れ入ったのはもっともだった。
そのとき武則が、三つめの甕から酒をすくって、頼義をわざと横目に見て言った。
「安倍という家はのう、代々毒を持たぬこと、ご存じではなかったとみえるな。安倍は古より、熊退治にも矢毒、槍毒を決して使わせぬ。安倍とはそういう家じゃ。獣との戦いにおいてさえ、義を重んずる家なのじゃよ」
武則は頼義の眼前であてつけがましく清酒をあおりながら続けた。頼義はまたしても一本取られたらしいとわかると、むっつりとして顔を背けた。
「そのような安倍がじゃよ、なにゆえに人に毒を用いようぞ。のう、そうでござろう。安倍は勝てさえすれば手段は選ばぬ倭人とは、いささか違うてござるでな。敵ながら見上げたもの、いや、敵にするのはもったいないほど義を尊ぶ一族なのでござるよ。この置き捨てにされた甕は、我らが清酒で飲みつぶれている間に逃げる、そのための策ですらなかろう。これをこぼさず持って行こうとすれば、当然逃げ足が遅うなる。それゆえに置き捨てにした。ただそれだけのことでござろう。殺し合いを避けられるものなら、黄金や清酒を犠牲にしてでも避ける。戦えば勝つとわかっておっても、よほどの目的がないかぎり戦を避ける。それが安倍じゃ。そのようなわけで、頼義殿、顔を背けんで、せっかくの置き土産じゃ、さあ安倍を信じて飲まれるがよろしかろう。もしまだご不審とあらば、わしの飲んだこの甕からすくわれよ。いやはや、清酒とは、なんと高貴な味のするものかな。ああ、もったいなや、もったいなや」
武則はそう言って、おどけて踊りの手振りをして見せた。一座がどっと沸いて口々に賛辞をおくった。
頼義はもう何度目か、源氏の将士の面前で愚弄された。
しかし。
頼義はそこで意外な反撃を試みた。横目づかいに武則を一瞥すると、
「おお、おお。なんという…。そうであったか。我が不明が恥ずかしいわい。思えば、武則殿がそのように安倍をよう知るおかげで、衣川も鳥海も、なんなく抜くことができたのじゃ。卿(けい)、功を譲ることなかれじゃっ」
そう言ってのけたのである。
この戦の功績はそなたのもの。決して謙遜することはないぞ。
それは、源頼義が征夷大将軍として演じた精一杯の偉そうぶりにほかならなかった。
ちなみに、卿とは君主が臣下を呼ぶのに用いる言葉。と同時に、相手に対する敬いもきちんと含まれている。頼義は武則を卿と呼ぶことで、並みいる将士に、逆転してしまったかに見える上下関係をあらためて明白にしてみせつつ、しかも、最大の功労者である夷族の長をきちんと敬ってみせるゆとりを示して、人物の大きさも演出してみせようとしたのだった。
いやはや、頼義の人生もなかなか大変だった。
さて、朝廷軍が戦勝と清酒に酔いしれている頃、安倍鳥海三郎宗任は、なんと戦場を離れ、京に向かっていた。その清酒の入手先に向かっていたのである。
相手は、言うまでもなく時の最高権力者、関白藤原頼通。
宗任の回りには、貞任が特に選りすぐった日本で初めての武士たちが控えていた。勇気、忠義、仁愛、教養を身につけた十代、二十代の精鋭五十六騎。しかも、全員がなんらかの意味で安倍の血に繋がる者ばかりだった。
荷を運ぶ馬は三十頭。そして献上するための駿馬が百頭。
荷駄の中には、黄金だけで三駄。一駄とは三十六貫。一頭の馬が運ぶ重さをそう勘定していた時代だから、とんでもない量の黄金といえる。それから、上布(上等な麻布)一千反。細布百反。一反で成人一人の衣服を作れることを考えると、これもいかに桁外れな量であるかがわかる。
ほかにも、砂鉄やら琥珀やら、熊の皮やら鹿の皮、薬草、昆布、鷹の尾羽などなど。
それらをすべて関白頼通に献上するだけの大きな折衝を、これから宗任はしようというのだった。
一行には、二尾もいた。慣れない馬に、横座りのできる特製の鞍を置いて。
二尾、十八歳。朱鳥と違って、小柄、細身、控えめ。朱鳥が男勝りであるぶん、馬術にも武術にも距離をおいて育てられた。気性もまたそうだったから、二尾にとってはそれがごく自然なことではあったが。
戦時であるため、正式な婚礼の儀などできなかった。貞任が立会いして、盃を交わしただけの婚礼だった。
しかし安倍一族の主だった将、酋刈乙比古、朱鳥、藤原経清、八身、そして母小真(こま)姫(き)が参集して、京へ向かう別れの挨拶をする段になると、ずいぶん大げさな交感がなされた。
陸奥に残って戦を継続する者、京へ行く者。たしかに、これが永遠の別れになる可能性がないでもない。だが、それにしても大げさな別れの交感ではあった。
宗任一行はそのあと、現在の鳴子から奥羽山脈を横断して新庄盆地に出たあと、最上川沿いに下って羽黒山三所に参拝した。つまり坂東を縦断するのではなく、清原の睨みがきいている土地を選んで京を目指したのである。
安倍と清原とは、何度も書いてきたように、戦前から姻戚関係を結んで元々は不可侵の関係にある。またそればかりでなく、双方朝権への対処方法は異なるものの、それを認め合ったうえで、交易、交通など必要な便宜をはかり合ってもいる。
この戦では敵味方になっているが、貞任と武則、宗任の上洛については腹を一つにしてあった。だから、悠々と、いやむしろ清原に守られるように、宗任は出羽を抜け、念珠が関(日本海沿岸の山形県と新潟県の県境)から北陸路を通って京に向かったのである。
九月十一日。
つまり鳥海柵に朝廷軍が入り、清酒に酔いしれているちょうどその頃、宗任は出立している。大量に放置された清酒は、その出立を無事に行わせるためのものでもあったのかもしれない。
この宗任の一行。
急ぎに急いだ。
記録では、わずか四日後の十五日には京に着いたことになっている。
これは、全員が騎馬であることを考慮にいれても、異例中の異例の速さと言わねばならない。なぜなら、京から国府のある多賀城(仙台市の東、10余キロ)まで、少なくとも二十日は要するのが当時の常識だったからである。
宗任には安倍の最後の城、貞任の居城、厨川柵の戦いが終わる前に、どうしても関白頼通の耳に入れておきたいことがあったのだった。
だから鬼神のごとく駆けたのだった。
そして、そのかいあって、朝廷軍が厨川柵を囲んだ日には京に着いていたのである。