不戦の王 30 亀裂

<目次>
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安倍貞任の厨川柵は現在の岩手県盛岡市天昌寺町あたりにあったのではないか、という。
しかし、そもそも厨川柵とは複合的な柵で、至近距離の嫗戸(うばと)柵と安倍館、それらを含めて厨川柵とみなすという説がある。また鎌倉時代になって地頭として赴任した工藤小次郎が、安倍一族の去った跡地に造った柵、それをまた厨川柵と称したことからも、貞任の厨川柵がどこだったのか、特定をいっそう混乱させている。
が、いずれにしろ、天昌寺町および現在の町名で前九年、安倍館と称する地域を中心にして、安倍軍対朝廷軍の最後の戦いが展開されたことは間違いなかろう。
そのあたり、いまはわずかに安倍館遺跡の樹林を残すのみですっかり市街地となり、近くを東北新幹線、秋田新幹線が銀蛇のごとく走っている。

父頼時は、存命中、南限の衣川柵に自分の本拠地を置いて、そこより南に広がる倭人の国土と対峙し、北限の厨川柵には貞任を置いて、まだ朝権の及ばない北の蝦夷の大地に隠然と睨みをきかせていた。そしてその間の要所には宗任以下六人の男子を配し、地域の豪族との血縁を強化してきたのである。
これは陸奥の国の、まさしく「いいとこどり」だったという話は何度かしてきたが、もういちどくり返しておくと…。
まず第一に北上川流域の穀倉地帯、第二に北上高地の鉱山資源、そして第三に大陸渡りの血統をひく大型馬の産地、それら倭人社会には乏しい主要産品をすべて安倍一族が掌握しており、この事実こそ安倍が倭人朝廷からしつこく征服の対象とされてきた理由なのだった。
逆に言えば、もし陸奥に黄金も米も馬もなければどうだっただろうか。けっしてこのような戦争を仕掛けられることもなく、渡島(北海道)が長くそうであったように、ただ捨て置きにされたのではないだろうか。

さて、その北限の城砦、厨川柵。
東には北上川の本流がある。西には諸葛川。南では雫石川(しずくいしがわ・当時の栗谷川)が北上川に合流している。北は手つかずの大自然、蝦夷の大地に続く万一の退路である。
天然の要害と言われていた。
現在は千年前とは川の流れ自体が変わっていようし、その間にはずいぶん埋め立て、潅漑事業も行われたことだろう、往時の要害ぶりは現地に立ってもちょっと想像しにくい。それは、この時代のどの遺跡についても言える。が、源氏礼賛の書『陸奥話記』にも、厨川柵がどのような要害であったか、けっこう力んで書かれているので紹介しておきたい。

『十五日、酉の刻に到着す。厨川、嫗戸の二柵を囲む。(中略)件の柵、西北は大澤を、二面は河をへだてる。河岸は三丈有余の壁が立ちて途なし。その内に柵を築きて自ら固む。柵の上に楼櫓(ろうろ)を構え、ここに鋭卒を置く。河と柵の間にみぞを掘り、みぞの底にさかさまに刀を立て鉄びしをまく…』

つまり、西北(諸葛川側)が葦の繁る大きな湿地帯、二方(おそらくは北上川と雫石川側)が9メートルも高さのある崖を持った川で隔てられ、その上に柵を築き、物見の櫓を建てていたという。おまけに川を渡っても、刀を逆さまに立てた空堀があり、足の裏を突き破る鉄菱も撒かれていたと描写している。
そこに酉の刻、午後六時頃に着いた。
その夜は二つの柵を囲む隊が連携し、翼を張るように取り囲んだということも記されている。

しかし。
最前線にいるのは、やはり清原軍である。
源氏方の大軍勢ではない。
源義家は金山探索から帰陣すると、介山法師たちに見せられたイリュージョンの呪縛から未だ逃れられないまま…いや、そのように現代人の感覚で陰陽の業をマジック扱いしてはいけないのだった。ここは「卓越した陰陽師のみに可能な観想の照射を受けたため」と言い直そう。とにかく義家は父頼義に熱っぽく報告した。
「黄金はございませなんだ。黄金と見たのは陰陽の術。いま思えば、我らを足止めせんがための術策と思われまする。安倍にはもはや黄金はない、それが残念ながら、この探索の結論にござりまする。もし黄金を得ることがこの戦の隠れた目的であったするならば、この戦、そもそも月に手を伸ばすに似た虚しい一挙であったと言わざるをえますまい。陸奥の黄金はこの三百年で掘りつくされた、それがあの山に入ってわかった真実かと存じます」
「な…何を言い出すのじゃ…」
「いいえ。仮に別な山があるといたしましても、このような大軍を擁して戦を仕掛けるほどの黄金はすでに底をついておるものと思われます。この陸奥からの黄金で藤原京、平城京、平安京と、どれほど多くの寺仏を造ってきたか。そのことを思えば、陸奥にいかに豊かな黄金が眠っていたとしても、もはや黄金は…」
「もうよいわ、よいっ。もうよいっ」
そのような話、聞きとうもないわっ。
義家の言う真実とやらを頼義は信じようとしなかった。義家を信じなかったのではない。その言葉を信じてしまっては、自分の依って立つ土台がなくなる、即座にそれを思ったのである。
頼義はずいぶん長い間、唇をへの字に曲げていた。
やがてどうにか苦々しい思いを飲み下すと、こころなしか気が抜けたような声で義家に言った。
「ご苦労であったな。残すは厨川柵のみじゃ。この期に及んで、間違っても命は落とすまいぞ。わかったな」
そして一見すると世を捨てたように見えるいつもの暗い目を、黄金がないと報告された北上の山並みにぼんやりと這わせ始めた。
いつまでも這わせていた。
義家には、父の肩が少々落ちているように感じられたが、それは気のせいではなかった。その父の背を義家は、子として初めて錐のような非難の眼差しで刺した。

この義家の状況。
これもまた、貞任の仕組んだ罠だった。
実行したのは介山法師、八身たちだが、貞任は源氏の親子に対しても、そうやって亀裂を呼ぶ重大な楔をしっかり打ち込んだのだった。
そのようなことであるとは知りようもない義家、父の目を捉え直すと突き上げる憤りをどうにか抑え込んで、もういちど自分の心の内を開陳した。
「どうかお聞きくだされ。戦い獲るほどの黄金がないと思われるいま、もはや命を惜しんで清原の後塵を拝するわけにはまいりませぬ。この先の厨川が最後の戦場にござりまする。どうかこの義家に、坂東武者の精鋭を預からせていただけますように。武門の源家の威信を賭け、清原ごとき夷族、その鼻面を引き回してやりとうございます。このまま先を取られておっては、二度と坂東武者から信を得ることもできませぬ。京に持ち帰れる宝は、戦功しかないのでござりまするっ。どうか義家に手柄を立てさせてくださりませっ」
もう、最後は半ば喧嘩腰だった。
しかし、
「義家よ…」頼義が首をゆっくり横に振った。「ふっ。またしてもそのようなことを言うか。ならぬ、それはならぬな。すでに鼻面は引き回しておるぞ。そうであろう、わからぬか。咬ませ犬を走らせておるのは、誰じゃ。わしじゃよ、征夷大将軍じゃよ。義家、もそっと大局を見よ。勝ち負けでいうなら、この戦、坂東武者に出羽の蝦夷が加わると決まったとたんに勝負がついておる。いまは、すでについた勝負の跡をなぞっておるようなものじゃ。よいかげんで、そなたも政治というものを学ぶのじゃな」
頼義は自分より頭ひとつ大きい義家の肩に手を置き、しばらく上目づかいにその目を覗き込んでいた。義家も父の目をはじき返すように見返していた。
(自ら安倍の首級を挙げることもせず、黄金も持たず、手ぶら同然で京に帰ればどんな誹りを受けるか。父上、それでよいのでござるかっ)
義家の握った両拳が震えだした。
数呼吸。双方無言。
やがて父は、我が子のそのような心情を見透かしながらも、あっさりと打っちゃった。
「さて、と。そろそろ腰を上げようかい。どのみち我らが厨川に着く頃には、安倍の者ども、もう逃げておろうがのう」
その言葉を聞くと、義家、すっと顎を引いた。そして、一瞬まるで遠くを見るように父を眺めた。
義家の心中には、そのとき、父との間の絶望的な空隙が白々と生じた。

源氏サイドに立った史書では、「頼義こそ源氏の黄金時代の幕を開いた傑物」という書き方になっている。
真実はどうであったのか。非常に異論の多いところだろう。
たしかに夷をもって夷を征するのが倭人の常套手段ではあった。夷に代理戦争をさせることは恥ではない。
しかも、この合戦。藤原頼通は東夷(あずまえびす)と蔑まれる坂東武者に支えられた源氏を使って安倍を討とうとし、その源氏は蝦夷清原で蝦夷安倍を討とうとしている。「夷による征夷」の二重構造。征夷戦の典型なのだった。
だから、
「わしの代わりに清原に戦をさせる。そのどこが悪いか」
頼義としては、当然そういう理屈になる。
が、思い出していただきたい。
「源氏の名簿を清原に差し出せ」
つまり、「我が方はかような陣容でありますから、どうぞよろしくお引き回しのほどを」とへりくだれ。武則は、頼義が参戦を乞いにきたとき、そう言ったのではなかったか。しかも頼義はそれを呑んだのだった。
陸奥の完全皇化という成果を得るためには、なりふりかまっていられないのが頼義の状況だったとはいえ、とんでもない征夷大将軍もあったものだ。
それでも頼義は、源氏の英雄と言えるのだろうか。