不戦の王 34 密道

<目次>
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翌、九月十七日。未の刻。午後二時頃。
最初の火の手は源氏軍があげた。
城柵よりも高く積み上げた民家取り壊しの材に火が放たれ、それが厨川柵に燃え移った。
『陸奥話記』の記述によると、義家自ら「神火を投じた」という。
そのとき鳩が軍陣の上を飛んだので、頼義がそれを拝むと、たちまち暴風が起こったことになっているが、とにかく、北上川の川風は柵や櫓に無数に突き立っている矢羽に炎を運び、矢羽が付け火となって、たちまち柵内を火の海にした。
貞任、武則申し合わせどおりの炎上作戦である。
火勢が弱まるのを待って、十万の朝廷軍が柵に踏み込んだ。
踏み込んでみると、しかし、足掛け三日にわたってあれほどの攻防があったのだから、さぞかし大勢の兵士が…と思って警戒していたら、柵内にいたのはわずか三百人にも満たない人数だった。
それも死期が間近と思われる老人老婆ばかり。もちろん鎧兜をつけているわけでもなく、刀を差しているわけでもない。満足に歩けるかどうかさえわからない。およそ戦力には入らない高齢者が朝廷軍を待っていた。
(我らを苦しめた武者たちは、いづくへ消えたのか)
誰しも同じ思いである。
まさか、こんな老人たちが弓を引き絞り、弩を放ち、石投げ器を操ったとは思えない。
頼義、義家、清原親子、唖然とした気持を隠しようもなかった。
四周、とくに退路となる北の森につながる側には、坂東武者が隙間なく詰めている。
(逃げられるはずがない)
にもかかわらず、柵内には馬もいない。猥歌を歌った女たちもいない。いちばん驚いたのは、戦場だというのに死骸さえ見当たらないことだった。
焼け落ちた厨川柵が、寸刻、奇妙な沈黙に包まれた。
三百人にも満たない老人を前に、十万という巨兵は、あまりに間抜けて見えた。
「あの騎馬武者はどうした。あの毛無の赤鬼は?」
ようやく義家が、ひとりの老人の前に顔を突き出して問うた。
「皆、いづくに消え失せたっ。申せっ」
老犬のように生命力を消した老人が、別に恐れるでもなく、かといってふてぶてしい態度でもなく、淡々とした目を義家に向けた。
「いづくに消えたかと訊いておるっ。聞こえるか、武者や馬や女はいづくに逃げたのじゃっ」
義家、咬みつかんばかり。
すると老人はうなずき、肉のない腕をゆるゆると上げた。皺だらけの手が天に向けられた。
「…ぬ?」
死んだ? 義家、からかわれた。思わず刀に手をかけかかり、なんとか思い止まる。老人はほほ笑みに似た緩みを頬に浮かべると、天を指した手をゆっくりと後方に転じた。そこには焼け残った林があった。
「なんじゃ、何を言いたい…」
「み、つ、ど、う」
老人は歯茎だけになった口をやっと開いた。
「みつどう?」
「み、つ、ど、う」
老人はくり返した。
「抜け道…で…ござるよ」
そのとき、きのう正任に命を一時預かりしてもらったばかりの武則が口をはさんだ。
「みつどうとは、秘密の道のことじゃ、義家殿。安倍の得意でござる。安倍はまこと逃げ上手じゃ」
義家、キッとして武則を睨んだが、どうやら正しいことを言われたらしい。
怒りを呑んでもういちど老人の指した林の方向を見ると、林のむこうには、どうやら満々と水をたたえた大きな池がある。これだけの水源が柵内にあれば、何年でも篭城できよう、そう思えるほどの大池である。
(しかし、密道と池に何の関係がある)
そう思った。が、その瞬間、義家はやっと気がついた。気がついたら、駆け出していた。
「も、もしや…密道に水を流し込んだのじゃなっ」叫びながら走った。「ここから逃げたのじゃなっ」
着くと義家、ざぶざぶと膝まで池に踏み込み、そしていまいましげに水を蹴った。池は、いまも刻々と水かさを増していた。
「北上川の水を入れた、自分らが逃げたその後で。堰を切ったのであろうよ」
解説者のように、背後から武則が言った。そのわざとらしい余裕に、義家、逃げた敵以上に憎い者を見るような目を向けた。
その密道は、よほど大きなトンネルだったのだろう。池の大きさ、水かさの増す量からすると、もしかしたら、騎乗のまま駆け抜けられるほどのトンネルだったのではあるまいか。そうでなければ、大軍が、あるいは多くの馬が、あんなに早々に消えるはずがなかった。
しかも、そのトンネルの出口は、柵の北側を固める一万五千の源氏軍が気づかなかったほど遠方ということになる。広い。そしてとてつもなく長いトンネルなのだ。
安倍軍が戦をする場合、最も大切なのは、退路の確保に対する手立てだった。なぜなら、命のやりとりをするのが安倍の戦の目的ではなかったから。安倍は負けなければよいだけである。負けないための基本方針は、余裕をもって逃げることだ。だから、攻められにくさもさることながら、逃げやすさを築城の根本に据える。それが安倍なのだった。

(誰の首も獲れなんだ…)
義家は密道あとに満ち続ける水を見つめて奥歯をぎりぎりと噛んだ。京に持ち帰る首級はない。もとより黄金もない。源氏はこれで安倍に勝ったと言えるのか?
そのときである。勢いこんだ声が頼義、義家を覚醒させた。
「安倍貞任、およびその嫡男、千代童丸とおぼしき亡骸を、は、は、発見いたしま…」
みなまで言わせず頼義は叫んだ。
「な、な、な、何? な、な、なんと? さ、さ、貞任のっ?」
しかし武則は、貞任とおぼしき亡骸と聞いても、まったく動じなかった。むしろ、馬鹿ばかしいと言いたげにそっぽを向いた。
義家にとっても、その報は、考えてみれば意味がなかった。
生きてそこに立つ貞任を討ち取ったのでなければ、源氏の手柄とは絶対に言えない。亡骸など、ほんものであろうが偽者であろうが、関係ないのだった。
義家、安倍軍を取り逃がした無念さにへの字にしていた口元を、さらに歪めた。
が。
頼義だけが違った。明らかに朗報を聞いた風情である。
「ど、どこじゃ、どこで見つけた」
「焼け落ちた館の下でござりまする。対座し、刺し違えた姿で倒れており申した」
頼義の暗い目に、黄色い光がねっとりと宿った。頼義には、ある種、屍体に群がる掃除屋の猛禽を連想させるところがある。
「それから、さらに…」
「まだあるのかっ」
「さらに二体、その傍らに。その二体は自刃しております。鎧兜から察しまするに、相当高位の士かと存じまする」
「よし。行く、わしが検分してやる。案内せいっ」
頼義、いつもは八の字の眉をこの時ばかりは吊り上げるようにして、せかせかと急いだ。

それは、報告のとおり、貞任、千代童丸、それから藤原経清、安倍重任の亡骸だった。
そういうことになった。
そう決めたのは源頼義である。
武則は否も応もなく、いちおう四体の亡骸に目を走らせはしたが、すぐに興味を失い、どこに焦点を結んでいるのかわからない視線を安倍の逃げた北の空に放った。
(安倍は強い、やはり強い。強いからこそ完璧に逃げられた。源氏がこれまで一勝もできなかったはずよ)
武則は、ここ厨川でだけなぜ安倍が抗戦したのか、この段階になって、貞任の真意がようやくわかってきた。
(安倍は源氏に最後に一泡ふかせたかったのではない。そのようなこと、どのみち負ける戦でやるわけがない。無駄死にする者を出すだけじゃ。そうではなく、この厨川での抗戦は、わしに対してやったのじゃ。わしに戦後の約定を守らせるため、武力を誇示しおったのじゃ。わしにわざわざ強さを見せおったのじゃよ、そうに決まっておる。約定を守らねばどうなるか、わざわざ最後に教え賜うたというわけじゃよ)
武則は、要は、安倍の外交とは、相手の良識に期待するだけの柔なものではない。軍事力を背景にした力の外交なのだぞ。それを胆に銘じられたということだった。
貞任のおっとりとしたお公家顔が、想い浮かべようとしなくても自ずと浮かんできた。武則は、その顔に向かって苦笑した。
(もう、正任に握られてしもうた命じゃよ。貞任、そのように老人を脅すものではないぞい)

頼義の命令で貞任、経清、重任の首が斬り落とされ、桶に塩漬けにされた。千代童丸の亡骸だけは、柵に残っていた安倍の老人たちに引き渡された。
その老人たちは、
「いずれを見ても老残の身、いまにして殺すもならず…」
と頼義に言わせ、捨て置きにされた。殺すには、相手があまりに弱々しすぎて手をかける気にもなれなかったのだ。
一方、嫡男義家は早々にその場を離れていた。
父の後を追って来て、しばらくは貞任たちの亡骸を睨むように凝視していたのだが、そのうちいっさいを否定するかのようにいかつい顎をゆっくりと右へ左へ振ると、無言で去った。
父の、思わぬ儲けにほくそえむ商人のような上機嫌とは真反対に、その顔は突き上げる怒りに歪んでいた。そして、見たくもない父の方に背を向け、まわりに聞こえるのもかまわず吐き捨てた。
「死者の首を狩るはやめなされいっ。武門の恥でござるぞっ」
それは征夷大将軍の所業を公然と非難した、軍律違反の一言でもあった。

これら四つの遺体。
いったい誰がほんものなのか。
全員が替え玉なのか。
亡骸にされた大人三人、子ども一人について言えば、それが影武者であったとしても、ほんとうに自刃したのか、すでに死んでいた遺体をそのように装ったものなのか、それもわからない。
貞任の人格、いや安倍一族の大切にする世道からして、生ける影武者に自刃を強要する可能性は皆無だろうと推察できるが、その点も果たしてどうだったのだろうか。
ともあれ。
源頼義としては、貞任、経清、重任の首をまんまと手に入れることができた。
願ってもない結末。
(それを拒むは痴れ者よ。のう義家、そうであろうが?)