大地に立つ(12)

春江は無事退院し、後顧の憂いは無くなった。短い夏休みも終わり、久しぶりに級友が顔を揃えた。だがそこに順子と正二の姿はなかった。担任の古川は教室に入って来ていきなり、
「順子が夏休みに入って間もなく入院した。帯広の協会病院で治療中だ。入院は少し長引きそうだがきっと元気に戻って来ると先生は信じてる」
と、沈痛な表情で報告した。
修二郎の心臓は早鐘のように高鳴っていた。
「先生、病名は何ですか」
「分からん」
古川は誰かの問いにぶっきら棒に答えた。その曇った表情から、順子の病気は尋常ではないと容易に察しがついた。教室の中は沈痛な。空気が流れていた。
(先生より早く俺に知らせるべきなのに。そうだろう順子)
修二郎は心の内で呟いた。
日曜日の早朝、修二郎は朝露をたっぷりと含んだトマトと苺を摘んだ。いずれも順子の好きな物だった。それを紙袋に入れて、始発の帯広行きのバスに乗った。
「あのうー高田順子さんの病室はどこですか」
修二郎はナースステーションで恐る恐る尋ねた。
「ああ、高田順子ちゃんね、三階の332号室ですよ。順子ちゃんのボーイフレンドかい? 大丈夫よ、順子ちゃんはきっと元気になるからね」
小太りの看護婦は聞きもしないことまで言った。看護婦の軽い言葉は、逆に順子は重病ではないかと疑わせるものだった。
「どうしたんだよ。何故早く俺に知らせなかったんだよ」
修二郎は順子の顔を見るなり、いきなり恨み言を口にした。順子との間での挨拶は不要だった。
順子は毛糸の帽子を被り粗末なベッドに横たわっていた。順子は修二郎の突然の出現に驚き、そして明らかに動揺した。でも修二郎の何時もどおりの雑な言葉を聞いて安心したのか、順子は微笑んで、
「ごめん、病気になったら修に嫌われると思って」
と詫びた。
「私早く学校に行きたい」
少しの沈黙の後、順子は訴えるように呟いた。明らかに身に負った病に怯え、誰かに救いを求めている。
そんな痛々しい姿を見て、せめて半分でも順子の苦しみを引き受けてやりたいと願った。
話したいことは山ほどあった。でも言葉は脳裏で空回りするばかりで、口からは出てこなかった。
「トマトと苺を捥いで来た。朝採ったんだ」
修二郎はテレながら、収穫したばかりのトマトと苺を差し出した。
「嬉しい、ありがとう」
順子はそれを受け取ると、大事そうに胸に抱いた。
そんな順子の病と闘う痛々しい姿を見て、順子の肉体を蹂躙したいと懸想した自分が情けなかった。
殆ど会話らしい会話もなく、修二郎は順子に別れを告げた。
「もう帰るの?」
「又直ぐ来るよ。今度は西瓜と味瓜を持ってくる。それより早く元気になって学校へ来いよ」
「うん、元気になりたいけどね。ひよっとして私、進学できないかも知れない」
「大丈夫だって、病院で勉強すればいいんだよ」
修二郎は順子の病の重さを知らなかった。順子は入院によって勉強が出来ず、受験に失敗するのではないかと心配をしていると思ったのである。
後ろ髪を引かれる思いだった。
出きることならずっと傍にいてやりたかった。けれども長居は順子に疲労を覚えさせるだけだと思った。元気になれば何時でも会えるのだ。そう思い未練を断ち切って病室を出た。
帯広に出ると必ず立寄る田村書店にも寄る気になれず鹿追行きのバスに乗った。
(何故順子は毛糸の帽子を被っていたのだろう)
帰りのバスの中で、修二郎は考えていた。何事も遠慮せずに言い合える筈の順子に、その謎を問う勇気はなかった。聞けば恐ろしい答えが返って来る予感がしたからだった。
北国の秋の訪れは早い。鮮やかな彩りは深山から一気に里に降りて来る。清澄で貫けるような青い空をバックに、東ヌプカウシヌプリ(夫婦山)もその伸びやかな裾を錦で飾り、欠伸でもしているかのように、ノンビリと憩っていた。そんな穏やかで長閑な雰囲気を他所に、順子は必死に病魔と闘っていた。
順子の病名は骨髄腫だった。
修二郎は日曜日には必ずといっても良いほど順子の見舞いに行った。順子の病状は一向に回復の兆しを見せなかった。そして、この頃順子は仕切りに、歩けるうちにやりたい事があると口にするようになった。
「何だよ、やりたい事って」
「秘密。ヒントはネ、九月二十九日」
「何だよ、それ俺の誕生日だよ」
「そうだよ、修の誕生日だよ」
そう言って順子は微笑むばかりである。だが、その表情は寂しげだった。
順子の病室は六人部屋だった。若い二人の会話を、同室の患者が耳を傍立てて聞いている。
「順、いい天気だから屋上に行かないか」
修二郎は小声で順子を誘った。屋上に通じる狭い階段を上りきると、帯広の空は青一色に染まっていた。如何にも軽そうな過ぎ行く夏の白い雲が数筋か浮かんでいる。
「ああ、いい気持ち。私、入院して長くなるけどここに来るの初めて。屋上に上がったら叱られると思ってた」
「ここは、風通しがいいから涼しいな」
眼下に見える遠くの駅舎に着いたSLが白煙を吐きながら、その巨体を休ませていた。
開放感に浸りながらも、何時に無く修二郎は沈んでいた。
「順、実はさ、正二の送別会で白雲山にのぼったろ。あの時、正二は人を蹴落としても金持ちになるっていった時、俺も同調したよな」
「えぇ、そんなこと気にしてたの」
「ああ、ずっと気にしてた」
「馬鹿だね。修が正ちゃんに同調したのは、今の世の中は拝金主義だということだけで、自分の生き方は違うと言いたかったんでしょ。私ね、修が正ちゃんに同調した時、正直驚いたし、軽蔑したわ。でも修の性格は正ちゃんとは違うから絶対に金儲け主義にはならないって信じてたよ」
「そうか、そうなんだよ。あの時の順の軽蔑の無眼差しは胸にザクリと突き刺さってさ」
修二郎は誤解が解けて、ようやく心が晴れた。
「俺達、大人になったな。人の心が読めるようになったもんな」
「何言ってるの。心を読めるようになったのは私だけ」
二人は声を上げて笑った。でも、直ぐに会話が途絶えた。順子の病が二人の心に重く圧し掛かっている。元気であればどれ程楽しいだろう。
「又皆で旅行に行きたいね」
ポツリと順子が呟いた。
「ああ、夜行列車でな」
「ウン、床に新聞紙を敷いてね」
「朝起きると皆の顔は真っ黒けでさ」
順子と修二郎は顔を見合わせて笑った。
「順、約束しよう。病気が治ったら二人できっと旅行をしよう」
殆ど思いつきで出た言葉だったが、修二郎は本気だった。順子は暫く考え込んでいたが、やがてコクリと頷き、小指を差し出した。今にも泣き出しそうに、それでも必死に笑顔で応えようとしている。二度と旅行する事は許されない病だという事は、順子が一番知っている。修二郎も又、旅行が出来る可能性は薄いと思っている。けれどもどんなに重い病でも、夢を見ること位は許される。
順子の病状は明らかに進行していた。頬はやつれ皮膚から精気が失われている。そんな順子のやつれた姿を見ると、修二郎は身を切らまれる思いだった。
修二郎は、病院の屋上を流れる緩やかな風を顔面に受けながら、ふと緊張が緩んでいくのを感じていた。穏やかに順子を見つめる事が出来るようになった。順子に対する感情が、ただ単に順子の肉体を求めているものなのか、順子好きなのか、修二郎にはずっと分からなかった。時々、順子を抱きしめたい、そして順子の肉体を蹂躙したいとの妄想に駆られる。又、そういう行為が愛情表現の一つだと、自分を正当化もしてみた。けれども、今ようやく人を愛する気持ちと、欲望とは全く異質のものだという事が分かったような気がした。自分が本当に順子が好きならば、順子の人権を無視するような行為が出来る筈はないのだ。
今は心の底から順子の回復を願っている。
収穫期を迎え、俄かに忙しくなった。今年は、刈り取った大豆や小豆のニオの重さから豊作の予感がする。夜明け前の午前四時頃から脱穀機が回り始める。霜柱が陽に解ける前にニオを脱穀場まで運ばなければ長靴が泥濘に埋まり、ひどく歩きにくくなる。だから自然、晩秋の労働は早朝になるのだ。
修二郎は晴れた日は学校を休んで農作業を手伝わなければならなかった。忙しさに振り回されながらも、順子の病気の事は片時も脳裏から消える事はなかった。
(順子がやりたい事って何だろう)
時々ふと思い出したように考える事がある。順子の事なら何でも知っていると自負していたが、この件に関しては全く見当がつかなかった。
今や重要な働き手となった修二郎は、農作業に追われる両親を尻目に順子の見舞いに行くには気が引けた。だが、春江は修二郎の献身的な姿を温かく見守ってくれていた。春江は人の愛に触れることもなく生きてきた。だから、修二郎が順子に献身的に尽す姿を見るにつけ、むしろ応援したい気持になっているのかも知れなかった。
何時も通り日曜日に順子を見舞い、他愛のない話をして病院を後にした。深い靄が病院を包み、木々は露でシットリと濡れていた。ふと病院を振り返って、順子の病室を捜した。総ての窓は曇っている。ただ順子が寝ているだろう三階の332号室の窓の一部は手で拭われていて、そこから順子の顔の一部が覗いていた。振り向いた修二郎に順子は微笑みかけ、軽く手を振った。曇りガラスに「スキ」と文字が浮かび上がった。それを見て修二郎は両手で大きく丸を作り、手を振った。(俺も大好きだ)という意思表示のつもりだった。でも悲しかった。順子が健康で(好き)と告白されたなら、どんなか嬉しい事だったろう。でも、順子に回復の兆しは全く見えないのである。大好きだからこそ修二郎の気持ちは沈みきっている。順子の容態は来る度に確実に悪化していた。何とか順子を勇気付け、本来の明るさを取り戻させたいと願う気持ちが、今日は修二郎をピエロにさせた。だが気持ちは空回りするばかりだった。順子の顔から笑顔が消え、何を言っても涙を浮かべるばかりだったのだ。でも、窓越しに見せた順子の笑顔が修二郎の心を和ませた。
修二郎は音更の駒場でバスを降りた。風の便りで、イモンコが音更の居留地に移されたと聞いていたからだった。イモンコが鹿追から突然姿を消してから二年以上経っている。果たしてその風の便りが正しいかどうかは分からなかった。順子がこの先どうなるのかと思うと不安でならない修二郎は、今は誰かに癒されたかった。イモンコの笑顔を見ればきっと気が晴れるに違いない。そんな思いが修二郎の足を音更に向けさせたのだった。
音更も深い霧に包まれていた。ここはかって小学生の頃、善治に連れられて雑穀を売りに来た街だった。あの時は大変な賑いだったが、収穫前の今は閑散としている。バス停から一直線に伸びる砂利道を当てずっぽうに進んで、最初の一軒目のチセ(住居)で訪いを告げると、中から老婆が出てきた。老婆の口元に船形の刺青が施されていた。
「あのー、こちらに鹿追からイモンコさんが越して来たと聞いたのですが」
修二郎は、その老婆に聞いてみた。老婆は静かに首を横に振った。そのような人は知らない。というより、言葉が分からないようだった。再び砂利道を進むと、中年の男とすれ違った。遠方から歩いて来たのであろう、全身が露でシットリと濡れていた。酔っているのか足元が覚束ない。この男にイモンコの所在を尋ねるのは気が引けた。何かトラブルが起きそうな予感がする。でも、辺りにイモンコの所在を尋ねる人影はなかった。
「あのー、ちよっと済みません。こちらにイモンコさんが越して来たと聞いて来たのですが」
 修二郎は恐る恐る訊ねた。そして何んて拙い聞き方なんだろうと後悔した。
「イモンコ?ああ、あの鹿追から越して来た爺さんか?あの爺はここに来て間もなく死んだよ。可哀そうによ、何でもお上が無理やりイモンコ爺さんをここに引っ張ってきて、その上、鹿を獲っちゃ駄目、秋味を獲っちゃ駄目、豆を作れって言うんだが、見てみろ、土地は谷地坊主か火山灰の荒地、耕せば大きな石がゴロゴロでプラウも入らねえ。つまりお上は俺たちに、ここで早く死ねと言ってるんだよ」
髭面の中年男は一気に捲し立てた。日ごろの不満が一気に噴出したようだった。男が指差した畑をよく見ると、成る程、畑とは名ばかりで、繁茂した雑草の隙間に僅かばかりの大豆が顔を覗かせていた。
「まあな、若けえあんたに愚痴ってみても仕方ないが、俺たちアイヌウタレ(同胞)は惨めなもんだよ。お上は土地を無償で与えたなんて胸を張ってるが、ここは誰も見向きもしねえ荒地だ。カッコいい事ばかり言ってるが、和人と一緒に暮らしてたら邪魔になるんで、ここに俺たちを強制的に寄せ集めてよ、自分達で勝手に作った訳の分からん法律でもって、俺達が長年住み慣れた土地をぶんどってよ。こんな草も生えねえ荒地を呉れてやるだと。もともとこの北海道はアイヌの土地じゃねえか。土地を勝手に巻き上げておいて、和人が手に余した土地をただでやったって威張ってる。全く呆れ返って言葉もねえや。同和政策だなんていって俺たちを無理やり和人にさせてよ、俺達にしてみりゃ全く都合の悪い法律で縛り付けるんだ。タチが悪いぜよ全く」
余程不満が鬱積しているのか、男は能弁だった。
「おっと、又愚痴ってしまった。ご免よ。そのイモンコ爺さんの家はあそこだ。可哀そうによ、アイヌは家主が死ぬと家ごと燃やしてあの世に送るんだが、お上がそうしちゃなんねえってんでそのままだ。イモンコ爺さんはあの世では家無しだ。これも大日本国の優れた法律なんだとよ」
男の指差した方を見ると、柏林を背に今にも崩れそうなチセ(住居)が幽かに見えた。
修二郎は髭面の男に礼をいい、イモンコのチセ(住居)へ向かった。
チセ(住居)は朽ち果ていた。今にも崩れ落ちそうである。部屋の中は黴の臭いが流れている。廃墟の中は勿論、家財道具もなく、生活の臭いは全くなかった。ただ、炉辺に火の神を祭るイナウ(祭棒)がまるで生きているかのように真っ直ぐ突っ立っていた。
修二郎は先ほどの男が、つまりお上はここで俺たちに、死ねと言ってるんだよ、と言った言葉を思い出していた。生きたいと願い忍び寄る死の恐怖と必死に戦っている順子、戦争の恐怖から逃れられなくて、首を括って死んだ叔父の信二。絶望の果てに死んだイモンコ。今、修二郎は人間が生きる難しさを実感していた。結局イモンコは異文化の中では生きられなかったのである。無理なのだ。アイヌ文化の中では尊敬を集めた酋長イモンコも、身に付けた技術を生かすべき場所も機会も総て、日本の法律が禁止してしまっては、あの髭面の男が言うように、早く死ねと言われているに等しいのだ。
順子は全く理不尽な病と闘っている。誰も何も悪い事をしている訳でもないのに、何故悲しい事ばかりが起こるのだろう。叔父の信二は自らの命を絶った。大義なき戦争の犠牲者だった。確かに社会は豊かになりつつある。けれども、その裏には何か一番大事なものを失いつつあるような気がしてならなかった。
修二郎は悄然と佇んでいた。同じ人間として生まれながら、何故こうも人の一生に違いがあるのだろう。どんなに努力をしても、報われなければ生きる意味はないとイナウ(祭棒)は告げているようである。社会科で日本は自由主義国家だと学んだ。だが国民は本当に自由なのだろうか。法律が次々と出来て、その法律の範囲でしか許されない自由が本当の自由と言えるのだろうか。言論の自由が保障されている国になったと先生は言っていた。でも、その自由が許されない雰囲気が社会に蔓延っている。それは母の春江を見ていると分かるのだ。
霧がやがて小糠雨に変わった。心も冷える一日だった。