大地に立つ(14)

順子の母は、変わり果てた娘の姿に取りすがって号泣した。病の重さから、何時か別れの日が来るだろうとの予感はあった。でもこのような衝撃的な別れになろうとは予想もしてなかったのだった。
遺体は直ちに町立病院へ搬送され検視が行われた。直接的な死因は凍死だった。
そして、第一発見者の修二郎への尋問があった。取調べる警察官は、叔父信二が自殺した時に取調べに来たあの警察官だった。
「おお、あの時の坊主か」
それが警察署の一室で修二郎と対峙した時の第一声だった。その警察官は修二郎の事を覚えていたのだ。修二郎には余り良い印象はなかった。
「何故ご遺体があそこにあったと分かったのかね」
修二郎はありのまま答えた。級友の送別会で白雲山に登山をした折、順子がひどく感激していた事、不治の病で厭世観があった事、病で家族に迷惑を掛けると病んでいた事など、修二郎は淡々と答えた。
「君は何故そんなに詳しいんだ?」
「僕と順子さんは同級生です」
「成る程な。でも何故、仏さんがあそこに居ることが分かったのかね」
「僕を疑っているんですか」
「否、一応調書を取らんとな。これは決まりだから」
「先ほど言った通りです」
警察官は冷徹だった。同じ質問を繰り返し、些細な違いを突いてくるのだ。先ず何事においても疑ってかかる。そんな性癖が身に染み付いているのだ。
警察官の疑いを解いたのは消防団副団長の証言だった。順子の捜索が始まった後に、修二郎がバスから降りたと証言をしてくれたのだった。
遺体は順子の実家で一日安置され、翌日は常念寺で通夜が執り行われた。遺影の順子は豊かな毛髪が肩口まで流れ、その表情は優しく穏やかで且つ自信に満ち溢れていた。それはかっての順子そのままの姿を写し出していた。通夜の席には校長を始め、担任の古川はもとより、全校の生徒が出席した。読経が始まるとあちこちですすり泣きが漏れた。
(病気に負けるなんて、順は馬鹿だ。病気なんて気力で治るんだ)
読経が流れている間、修二郎は、何度も繰り返し呟いていた。頭の中は混乱し何も考える事が出来なかった。 
翌日の十時には告別式、そして十一時には出棺と、予定通り式は執り行われた。順子の十四年の人生の終焉の舞台にしては、余りにも時間の流れは早すぎた。
棺は親類の男達の手によって共同墓地にまで運ばれた。外は北風が吹き荒れ、枯葉は上空に舞い、戯れているかのように大鷹が滑空している。
そこには既に、腕程の太さの丸太が井桁に組み上げられていた。直ちに棺は井桁の上に載せられ火が放たれた。紅蓮の炎は北風に煽られ、勢い良く燃え上がる。手伝いの男達は酒を飲みながら、燃え盛る炎をジッと見つめていた。誰もが無言だった。空耳か、修二郎の耳の奥では賛美歌の一小節が、繰り返し激しく響いていた。頭の中は虚ろで、まるで真っ白なキャンバスに向かって、最初の一筆が振り下ろせず懊悩する画家のようだった。
遺骨は丁寧に拾い集められ骨壷に納められた。総ては終わった。修二郎にとって一番大切なものを失った。それにしても人間の一生はこんなにも呆気なく手仕舞いされるものなのだろうか。そう思うと空しくて涙も出なかった。でも心の奥底では幼児のように、感情を剥き出しにして大声で泣き叫んでいた。
修二郎は物心付いてから四つの死を見てきた。四つの死にはそれぞれに理由があった。
その四つの死の一つは綿羊の死である。
(自由を奪う者は、自由を奪った者の命を守る義務がある)
父の善治に激しく叱責され、容赦のない拳骨が頭に飛んできた。手加減のない拳骨には他意のない怒りが込められていた。その痛みは今でも忘れない。骨身に染みた経験だった。その時、善治は教育上、修二郎に鉄拳を振るった訳ではなかった。だからといって、修二郎が憎くて足蹴にしたわけでもなかった。善治は心底怒っていたのだ。家畜や作物を家畜を粗末に扱った行為が許せなかったのだった。
二つ目は叔父信二の自殺だった。春江はその死を戦死だと言った。国に殺されたとも言った。春江の言葉の裏には国家に対する憎しみが込められていた。日本には身分差はないという。だが、貧乏人と金持ちの間には明らかに差別があり、貧乏人を蔑視する風潮はある。貧乏人は戦争に狩り出されても、消耗品のように扱われている。権力者は学歴の無い者や貧乏人は奴隷と同じように考えているのだ。だから信二は無理やり危険な任務に付かされ、結果、精神に病を得て、自らの命を絶った。春江は信二の自殺は貧乏百姓の出だから過酷な任務を負わされたからだと信じている。
修二郎に対しては、優しい叔父だった。その叔父が酒に溺れ、微かな物音にも怯えた表情を見せる時があった。常に誰かに狙われている、そんな脅迫観念に苛まれる毎日に耐え切れなくなったのだ。だから意識が無くなるほど酒を飲んだ。それでも、戦争で負った恐怖から逃れることが出来なかった。そして自らの命を絶った。それはまさしく春江の言う通り戦死だった。戦争に携わった人間は、死なない限り戦争の恐怖から逃れられないという事なのだろうか。
三つ目はイモンコの死である。伝統や文化、風習の違う世界でプライドを捨ててまで、必死に生きようとしたイモンコ。その死は哀れである。国に弱者に対する思いやりと優しさが少しでもあったなら、イモンコの死はなかった筈だ。法の下で物事を決め付け、法に外れる事は冷徹に切り捨てて行く。だが、その法を作るのは一体誰だ。所詮、一部の権力者ではないか。一人の人間の平和と安寧を守れない日本。でも口先では人の命は重いと言ってのける権力者。そんな国を国民は命を賭してまで守ろうとする気は起きまい。第一、そんな国に愛国心を抱く者なんている筈はないと思う。イモンコは優しかった。温もりがあった。けれども和人社会で生き抜く業を知らなかった。日本はこのような人間を弱者といって軽蔑する。人格がどんなに劣っていても富者は尊敬される世界。所詮貧しく、異人種でプライドの高いイモンコが生きられる世界ではなかったのだ。
四つ目は順子の死である。その死は明らかに順子が悪い。多分順子はこの世において自分の存在なんて大したことはないと考えたに違いない。どうせ助からない命ならば、これから先、迷惑を掛けながら生きて苦しむより、早く死んだ方が良いと考えたのだろう。しかしそれは大きな誤りだ。順子の死は両親を始め、修二郎や級友、その他多くの人々に計り知れない衝撃と悲しみを与えた。それだけでも順子の罪は重いと言える。人は一人では決して生きてはいけない。お互いが支え合いながら生きて行くものだ。それなのに順子は病になったこと自体が罪と考え、悩みや苦しみを一人で背負って旅立った。一体、順子に何の罪があるのだ。順子は大馬鹿野郎だ。そう胸の奥で叫べば又、涙が込み上げてくる。       
修二郎が経験した四つの死は、各々事情は異なっている。しかし唯一共通して言える事は、自分も含めて回りの人々にもう少し思いやりと優しさがあったなら、四つの死は防げたのではないかと思えてならなかった。
晩秋の風に一筋二筋の乾いた雪が混り、やがて刈り取りを終えた畝に薄っすらと初雪が積もった。防風林として植樹された落葉樹から黄金の針が降り注ぎ、葦の穂が凍土にしがみ付いて震えている。
部落の農民は顔を合せると、
「どうだい今年の作は?」
「ああ、まずまずってとこかな」
「今年は獲れるには取れたがこうも値段が安くちゃな」
「全くだ、でもよ、取れねえよりゃましだがな」
と、決まって同じ会話を交すのだった。どんなに価格は安くても、豊作に越したことはない。言葉こそ投げやりだが、心は満たされているのだ。
広大な十勝平野は開墾され、度々の冷害にも打ち勝ち、今や鹿追の地も豊穣の大地となった。開拓地も既に二代目となり、北海道で一旗揚げるという野心は既に失せ、耕地を広げ機械化は進み、大地にしっかりと根を張り、より安定した生活を大地に託せる時代となった。
雪が降る前に総ての農作業は終わった。今年は豊作だったので、善治も最近は機嫌がいい。毎日のように算盤を弾いては、雑穀の相場を確かめていた。
町中にジングルベルが流れ、ショーウインドーはお決まりのサンタクロース、クリスマスツリー、カモシカに綿帽子を被ったモミの木が飾られている。このクリスマスが終わると、年末の商戦に入る。 電気店にはテレビや洗濯器、煌びやかな照明器具が輝き、店員の呼び込みも姦しい。
例年のように音更で雑穀を売り、正月用品を整え年越しの現金を神棚に上げ、大晦日だけ掃除をする神棚に一年振りに灯明が灯された。
静かな歳の暮だった。ささやかな食卓を前に、善治も春江も寡黙だった。やがて紅白歌合戦が始まった。煌びやかで華やかなステージが画面に映し出されている。善治は久しぶりの酒に酔い、静かな寝息をたてている。流し台では食器を洗う音が聞こえて来る。修二郎が物心ついた頃から続いている、何時もと変わらない大晦日の風景だった。
その夜、修二郎は中々眠れなかった。夜半にそっと布団を抜け出して秋葉神社へ向かった。乾いて冷たい雪が深深と降っていた。時折、カーン、カーンと音が聞こえる。雪の重みで木の枝が折れる音だった。
秋葉神社は小学校の前の小高い丘の上にある。四十段程の石段は、深い雪に埋もれていた。人影は疎らで、小さな祠は降りしきる雪の中に霞んでいた。石塔の仄かな明かりが走馬灯のように揺らめいている。賽銭箱に十円玉を投げ入れ、修二郎は手を合わせた。
もう身近な人の死という悲しみから解放して欲しい。善治の病気を治して欲しい。春江をもっと楽にして欲しい。そして、最後に出来れば高校へ進学をさせて欲しい。修二郎の切実な願いが天に届くかどうかは分からない。どれ一つをとってみても、修二郎一人で解決出来るものは何一つとしてなかった。だから今は神に縋りたい。神に祈りながらも脳裏には順子の元気な頃の姿が彷彿と浮かび上がってくる。祭壇の向うに順子がいる。
(順、俺は順の事、絶対に忘れない。これから俺が死ぬまで一緒に居よう)
修二郎が参拝に来た理由の一つは、順子のことは終生忘れないと誓う為だった。
順子が生きていたなら、二人で参拝に来たに違いない。そして、二人の友情が永遠に続く事を願ったに違いない。だが今は心の内に順子を抱いて、永遠の愛を誓わなければならない自分が悲しかった。
ハラハラと乾いた雪が、修二郎の肩に降り積もる。広大な宇宙の中で、神と一対一で対峙しているような不思議な感覚だった。参拝を終えると、高揚していた気持ちが幾分落ち着いた。
二人、三人と石段を登ってくる人影が見える。お互いが立ち止まって、新年の挨拶を交わしている。その人影に上に、楓や柳の巨木に積もった雪がバサッと降りかかる。この社に参詣に来る人たちは、一体どのような願いを掛けに来ているのだろう。苦しい時の神頼みで来たのだろうか、それとも、私心のない、深い信仰心がここに足を運ばせるのだろうか。   
そんな事を考えながら階段を折りかけた時、ニコニコと微笑みながら、春江が階段を登って来た。
「母ちゃんも来たのか」
「ああ、修は何を願かけに来たのさ」
「秘密だ」
「母ちゃんは分かってるぞ。多分願いは母ちゃんと同じだと思うけど」
「家内安全、本年も豊作でありますように、って祈ったのさ」
「嘘、嘘、もっと他に祈った事があるんだろ」
「いいからさ、早く神様に祈って来いよ。何でもいいからさ」
修二郎はテレながら春江の背を押した。春江は長い間手を合わせ、なにやら願いを掛けていた。やがて二人は肩を並べて帰路についた。
春江はニコニコと嬉しげだった。
「母ちゃん,何ンか嬉しそうだね。いい事でもあったのかい?」
「ウン、母ちゃんね、今年から考え方を変えたんだ。今までは後ろばかり向いて自分の人生を悲しんで来たけど、これからは楽しい事ばかりを考えるようにしようと決めたのさ。辛い事は全部忘れてね」
「そうだね。その方が絶対にいいよ。俺もそうする」
「母ちゃんね、今までの人生辛かったけど、修という、とんでもない宝物を神様がくれていたんだと気が付いたのさ」
「俺が宝物?」
「そうだよ、修はオレの宝物さ」
深雪を踏みながら、春江の足取りは軽かった。
雪はなお激しく降り続き、行くべき道を忽ち塞いでしまう。修二郎は肩を並べて歩いて初めて、背丈が母を抜いた事に気が付いた。  春江も又、修二郎の成長の早さに驚き、又、その事が頼もしく嬉しかった。修二郎の足は大地をしっかりと踏みしめて揺るぎがない。
凍土を突き破り、春一番に咲く福寿草のように、逞しく、けれども絢爛豪華な黄金の花に似て、修二郎の笑顔は輝いている。修二郎は今、多くの悲しみを乗りこえて、大地の芽となって大空に向かって伸びようとしている。
「修、お彼岸になったら、順ちゃんのお墓にお参りに行こうね」
春江は覚束ない足取りで、荒い息遣いでいった。春江にとって順子は単なる修二郎の級友に過ぎない。それが彼岸に順子の墓参りをするという。修二郎はそんな春江の真意を量りかねた。でも、素直に嬉しかった。
「人生は一期一会、出会いがあって別れがある。嬉しい事もあるし悲しい事もある。悲しい事ばかりの人生でも、誠実に一生懸命に生きれば、現世が辛くても天国に行ける。ウソをついたり人に迷惑をかけたり、いい加減な人生を送った人はあの世では天国に行けないんだって。偉いお坊さんが言ってたよ。母ちゃんもそう思っているんだ」
春江も沢山の悲しみや悩み苦しみを抱えている。でもどんな苦しみにも耐え、家族に愛情を注ぎ、一生懸命に生きている。小さな体でしっかりと大地に立っている。春江の人生はその偉い坊さんの言葉が支えになっているに違いなかった。
翌朝は快晴だった。一面の銀世界に眼もくらむほどである。当に輝かしい新年だった。馬小屋にも注連縄が飾られ、鏡餅まで飾られている。駒沢から購入した鹿毛も含めて、三頭の馬も誇らしげである。
新年の朝の食卓には雑煮にお屠蘇が添えられていた。
「俺にまで酒かよ」
「お祝いだもの。それにお正月の酒はお屠蘇だよ。だから未成年でも飲んでいいんだ」
春江は満足そうである。善治もニコニコと二人の会話を聞いていたが、突然改まり、
「去年は作が良かった。ようやく一息つけそうな按配だ。でもな、俺の腎臓の片一方はこのままじゃ腐っちまうらしい。そこでだ、俺は正月明けに手術をして、そのいかれた腎臓を取る事に決めた」
と、意を決して言った。善治が手術をすると宣言した背景には、今年は経済的に余裕が出来たからだった。今までは経済的な余裕が無くて手術が出来なかったのだ。善治は手術よりも家族の生活を優先していたのかも知れなかった。身体を犠牲にしてまでも家族の生活を優先する、それは善治の本質的な優しさだった。
「ついては修、お前、俺がもし手術に失敗して死んじまったら母ちゃんを助けて百姓を継いでくれ。そしてもし、俺が百姓を出来るまでに元気になったら高校へ行っていい。そしてもう一つある。おれが半人前で戻って来たら、定時制の高校にしてくれんか。これからは母ちゃんや古川先生のいう通り、高校くれえ出てなきゃ人に馬鹿にされる。そう思ってな。どう思う母ちゃん」
無論、春江に異存のあろう筈はなかった。
「仮にアンタが手術に失敗して死んじまっても、オレ一人でも修を高校へ上れるぜ。良かったな、修」
「テヤンデイ、馬の一頭も引けねえ癖してよ」
善治は酒を煽り、大仰に拗ねて見せた。春江も満面に笑顔を作っている。
久し振りに笑いが起こった。暗いトンネルの中をさ迷っていた修二郎に希望の灯が一つ点った瞬間だった。でも喜びは半分だった。順子が生きていてくれたならどんなに喜んでくれただろう。高校への進学に何の支障も無い順子は死に、高校への進学は叶わないと諦めていた自分が高校へ行く、そんな運命の悪戯に、修二郎は戸惑っていた。
「順ちゃんが生きていたならどんなによかったかね。本当に可哀想な事だったね」
春江は修二郎の気持ちを察して言った。
「ああ、本当に可哀想な娘だったな。未だこれからが人生だってのによ。出来る事なら俺が変わってやりてえくれえだよ。でもな修、それもこれも人生ってもんだ。何時までもクヨクヨしていられねえぞ。時の流れは早ぇ、ぼやぼやしてれねえんだ。きついようだがなるべく早く忘れる事だ、それもこれも供養というもんだ」
善治は言った。これまでは善治の言う言葉の一つ一つに反発を覚えたが、今は心の奥にスッと入っていく。けれども修二郎は善治が言うようにそう簡単に気持ちの切り替えは出来そうにもなかった。後、数年もすれば、修二郎は確実に大人の仲間入りをする。大人になれば順子を思う気持が薄らぐとでもいうのか。そんなことはない。絶対にそんなことはない。何故なら、順子はどこにも行かず、誰のものでもなく、永遠に修二郎の胸に住み続けるからだ。
お屠蘇を舐めて、雑煮を食べて外に出た。昨夜の大雪が嘘のような快晴である。もう軒先の新雪が解けて、雨だれが雫となって降り注いでいた。新雪を漕ぎ、家の裏に回って見ると、雄大な大雪山の稜線が中空に浮かんでいた。中央には東ヌプカウシヌプリと、西ヌプカウシヌプリ(夫婦山)が白の衣をまとい、仲良く、デンと身構えている。
(東ヌプカウシヌプリは修二郎。西ヌプカウシヌプリは私)
と、順子は言った。今、順子は西ヌプカウシヌプリで眠っている。病から解放された順子が、満面に笑顔を作り、大きく手を振っているように思えた。 

(完)