冥界へ行った男(6)
自由を得た私は、早速、私の終焉の地、樹海に向かった。二年前と少しも変らない風景である。相も変わらず暗くて寒く、ジメジメと湿度の高い陰湿な場所だった。高級なスーツはボロボロに朽ち果て、白骨はバラバラに散乱して、醜く風化が始まっていた。ただ飲み残したウイスキーだけはしっかりと原型をとどめていた。
私は、散乱している骨とボロボロに朽ちかけたスーツを寄せ集め、東信棒で地面を掘って埋めた。一刻も早く亡骸を土に戻して、忌まわしい人間界での記憶を消し去りたかったのだ。
私は私の亡骸の始末を終えると、前世で働いていた会社へと向かった。かって上司だった部長は今、常務へと昇進していた。どうやらこれといった仕事もないらしく、役員室でふんぞり返っている。午前中に社長のご機嫌伺いを済ますと、後は何もすることが無い。
社長へのご機嫌伺いとは言え、内実は、他の役員や社員の、会社に対して批判的な言動や、些細なミスを逐一報告する程度である。社長は孤独である。役員や社員の動向が気になって仕方がないものだから、この常務を重宝しているのである。
午後になると、常務は車に乗ってとあるマンションに向かった。マンションの一室に入ると、上着を脱ぎ捨て、若い女を抱き寄せた。
私はその若い女を見て愕然とした。その女は紛れも無く曽田一郎の恋人、聖子だったのだ。
二人は縺れ合ってベットへ倒れ込んだ。終始無言である。静まった部屋に伝わって来るのは微かな衣擦れの音ばかりである。掛け布団はベットからズリ落ち、聖子の身体から次々と衣服ははぎ取られ、下着も脱がされ、あられもない姿を白日のもとに晒している。
昼中の情事が終わると、常務はベットに胡座をかいて煙草を燻らした。
「聖子、忘れてはいないだろうな。死んだ曽田一郎は会社の金を二百万も横領した。その金でアンタ達二人は楽しい思いをしたんだ。俺が黙って二百万を会社の金庫に戻しておかなければ、曽田一郎は罪人となるところだった。勿論、聖子お前も同罪だ。曽田一郎は死んでしまった以上、お前に二百万を返して貰わなければならん。何時までも放って置くわけにはいかんからな。それとも刑務所に行くか?」
常務は嘯いた。だが、それは真っ赤な嘘である。曽田一郎が事故死したあと、日を置かず親族から二百万を巻き上げ、そ知らぬ顔で会社の金庫に戻したのだ。その事実を聖子は知らない。一体聖子にどれ程の罪があるというのか。無知に付け込んで聖子身体を弄ぶとは、絶対に許されるものではなかった。
常務が帰った後、聖子は浴室で肌も焼けるような熱いシャワーを浴びた。曽田一郎が死んだ今、事実を知る術はないのだ。常務が触れた肌の部分を、まるで穢れでも擦り取るように何度も何度も洗った。聖子の肌を爬虫類のように常務の舌は這いまわり、脂ぎった手が聖子の全身を執拗に撫で回し、欲情の限りを顕わに見せて憚らない常務の醜態が甦る。それは聖子にとっては身震いする程の苦痛であり、屈辱だった。
聖子の目から滂沱と涙があふれていた。あふれた涙はシャワーの飛沫に紛れて全身を包んで流れ去った。聖子に出来ることは、恋人の曽田一郎を恨むことしかなかった。今更恨んで見てもどうしょうもないとは思う。けれども、せめて恨まなければ聖子に逃げ場はなかった。
曽田一郎が聖子の今の姿を知ったなら、怨念の炎を燃やす筈だった。だが、曽田一郎は父や母、兄弟や親戚、友人によって、手厚く供養され、遠く安楽国に成仏している。私のような無縁仏とは訳が違うのだ。曽田一郎は恐らく、安らかに成仏し、前世の未練も、怨念も消えたのだろう。
だが、私は違う。私は今、前世で持ち合わせていなかった怒りや怨念を覚えることが出来るし、泰碌山での修行で報復出来る力と知恵を身に付けたのだ。
私はこの常務に会社の金、二千万の横領の罪を着せられ、曽田一郎には、事故で死んだことを幸いに二百万の横領の罪を着せた。挙句の果てに曽田一郎の恋人まで奪った極悪非道の人間を許す訳にはいかなかった。ここで常務に制裁を加えなければ何のための修行だったのかと、世間から笑われる。
私は激しい怒りを覚えた。そして私は決意した。仇を打つべき時がきたと思った。今こそ、曽田一郎と私の恨みを晴らすのだ。
時計は夕刻の五時を告げた。晩秋の日暮れは早く、外は早くも漆黒の帳に包まれていた。聖子は常務が帰った後、ベットに潜り込み、ベットの下から写真立を探り出して手を合わせた。曽田一郎の遺影だった。
「一郎さん、御免なさい。私、一郎さんが私の為に、二百万もの会社のお金を遣っていたなんて知らなかったの。常務から直ぐに返せって言われても、私にはどうすることも出来なかった。サラ金から借りて返せとか、風俗で働いて返せって言われても、私には勇気が無かった。こうするより他無かったの」
聖子はそう呟いて、涙を流すのだった。
聖子の呟きを聞いて、再び激しい怒りが込み上げて来た。常務は二百万の横領の罪を曽田一郎に被せた挙句、それでも飽きたらずに、恋人の聖子の若い身体を弄んでいる。私は実は嬉しかった。かって覚えたことの無い怒りの感情が湧いてきたからだった。そして今は、確実に常務を粛清出来る力が身についている。その力を試す時が来たと思った。
極悪非道の常務をのさばらせておく訳には行かない。
私は常務の帰宅を待った。六時半に常務は自家用車で会社を出た。私は東信棒で常務を山道へと誘い込んだ。常務は何の疑いも持たず、険しい山道を登って行く。右側が深い崖になっていて、道路が左にカーブしている場所に差し掛かった時、私は曽田一郎の化身となってフロント硝子に張り付いた。常務の顔は恐怖に引きつり、後に大きく仰け反り、ハンドルを大きく左に切って、車は深い谷底に落ちて行った。私は仰向けに転がった乗用車に向け、大きく息を吸い込んで、渾身に気を込めて息を吹きかけた。息は火焔となって乗用車を包み込んだ。乗用車は激しく燃え、辺りを真昼のように照らした。だが、私は渾身の力を込めて気を吐き出した後、総身が空ろとなり、へたりこんでしまった。
私は残る力を振り絞り、東辛棒を振って火を消した。そして運転席で気を失っている常務を東信棒で引きずり出して道路へと放り上げた。瀕死の重傷を負った常務をここで殺す訳にはいかない。もっと現世で苦しんでから、死んで貰わなければならないと考えたのだ。常務が負った罪業の深さは、単に命を失うことによって償われるほど軽くはない。死ぬことよりも生きる苦しみを与えなければならないと考えたのだ。
私は再び麓に戻り、倒れている常務を救出させるべく、一台の乗用車を山道へと誘い込んだ。
思惑通り、常務は救出され、一命は取り留めた。だが、両足は切断され、目の片方を失った。私は常務の妻と聖子の元に飛び、ドァを叩いて、事故を知らせた。 常務は即死しても不思議ではない程の事故に遭いながら、今だに生存している。私が死ぬことを許さなかったからだ。常務は何度も三途の川縁にやって来たが、私は執拗に現世へと追い返したのである。仮に怪我が治っても、両足を失い、片目とあっては、二度と社会復帰はかなわないだろう。
私は漸く仇を討つことが出来たのだ。私を責め抜き、人間界から締め出し、果ては横領の罪まで被せた。さらに曽田一郎が不慮の死をとげたのを幸いに横領の罪を被せ、挙句の果てには、恋人の聖子を愛人として囲うなど、その所業は到底許されるものではなかった。
死者は安楽国を目指すものだが、私は敢えて荊の道を選んだ。前世では、私には力が無かったので、怒ったり反撃する感情を極力抑えて来たのだ。その結果、私は人からは脆弱な人間と侮られ、何を言われようと、ただ、迎合する笑みを浮かべ、総ては自分に非があると思うような男に成り下がっていたのである。
怒りの感情を得る為には、先ず反撃しても敵に負けない力を付けることだと信じ、泰碌山で厳しい修行に励んだ。それは害を為す者に対して、戦っても決して負けないという知恵と体力が必要だと確信したからだった。
結果、私は強くなった。そして、常務の所業に怒りを覚え、希望通りに仇を打った。だが、かって覚えたこともない寂寥感に襲われたのである。
私は常務を人間界に引き戻し、寿命が尽きるまで障害者として、苦しめようと考えていた。けれども、たかが小悪党を苛め抜いたとしても何の益もなく、むしろ、障害を負った常務の生存は多くの人々の迷惑になるだけだと気がついた。
私はそう気がつくと、思い切って常務の口と鼻を塞いで息の根を止めた。その刹那、片目をカッと見開き、常務は息絶えた。醜く焼け爛れた片方の目から一滴の涙が流れた。痛み、身動きもままならない身体になっても、なおこの世に未練を残しているのか。私はそんな悶絶の中で息絶えた常務を冷ややかに見下ろしていた。
常務は間違いなく地獄に落ちるであろう。地下一千由旬の下まで落ちて、二度と這い上がることが出来ない奈落の底でもがき苦しみ続けるだろう。
私は聖子の元へ飛んだ。聖子は常務から与えられたマンションを引き払い、古いアパートに住んでいた。近所のスーパーでレジ係りとして働いている。将来は幸せな結婚をすることが夢だった。これといった技術も学歴も持たない女が、生きて行くには難しい世の中である。だが、幸せな結婚を夢見ること位は許される。悲しいほどささやかな夢だと思う。
聖子はスーパーでの売れ残りの食品を袋に詰めて家路を急いでいた。私は一陣の風となって、聖子に常務の臨終を知らせた。聖子は突然起こった風に戸惑い、不思議そうに上空を見上げた。その目線の先には満天の星空が広がっていた。暫くの間聖子は星空を見上げていた。スッと一筋の流れ星が東の方に落ちていった。
流れ星に願いをかけると、願いが叶うという。聖子は小首を傾げ、深くため息をついて再び歩み始めた。流れ星の落ちる速度が速すぎて、願を掛ける暇がなかったのだ。もとより聖子に大望などはない。貧しくても、子供が二人程と、優しい夫がいる生活がしたい。そんなささやかな願いさえも、流れ星は聞いてくれないのか。
私は絶大な力を身に付け、ようやく怒りの感情を覚えることが出来るようなった。だが今は虚無感に襲われている。小悪人の一人を粛清する為に支払った代償は余りに大きかった。狡猾で貪欲な常務にさえ巡り合わなかったなら、そして母の教えがなかったなら、私の人生は全く異なったものになっていただろう。知性の欠片もない常務に翻弄され、そんな小悪党に私の人生はズタズタに切り裂かれてしまったのだ。
しかし、極悪非道の常務を粛清した今、私に酷い虚無感が襲ってきたのだった。
私が仇を討った男は余りにも器が小さく、虫けらのような人間だったと知ったからだった。
「仇を討つほどの人間ではなかった」
私は呟いた。
(器が小さく、虫けらのような男に人生を翻弄されたお前はどうなんだ)
皮肉な言葉が脳裏を過ぎった。私には返す言葉はなかった。
無性に東辛坊に会いたくなった。私は泰碌山に向かった。東辛坊は怒り、拒絶、慈悲等など、あらゆる感情を剥き出しにして憚ることはなかったが、弱者に対しては深い度量で悩める魂を包み込んでくれる。その懐に抱かれると安らぎを覚える。私はそんな東辛坊の懐で癒されたかった。
先客がいた。東辛坊の破れ庵には数柱の魂が群れていた。
私は先客が帰るまで待つことにした。庭先には大岩が海岸に迫り出している。東辛坊を初めて訪ねた時、あの時と同じように大岩に腰を降ろした。眼下には茫洋と広がる海が見渡せる。天空と海の色が同じく澄み通った青である。絹雲の一片もない快晴であった。枯れることのない欅の大木が涼やかな陰を大地に落している。馥郁とした空気が五体を掠めていく。ここは何の悩みも苦痛もない世界だった。そして、その穏やかな世界は、私が初めてここを訪れた時と寸分の変わりはなかった。ここは悠久の時が流れている。時間に追われることもなく、生きる為の戦いもなければ生活に窮する心配もない。人との関係に気を使うこともなかった。安楽国は螺鈿の甍に金銀に飾られた煌びやかな世界だと聞いている。それに比し、ここは破れ庵に欅の大木しかない世界である。でも、平和で長閑である。
睡魔が襲ってきた。ウトウトと頭を下げて至福の時間に身を委ねた。微かに声が聞こえる。夢か現か。声の主が東辛坊だという認識はあった。眠気はあるが、頭の芯は冴えている。私は欅に背を預け、ぼんやりと庵を眺めた。
「さて、そなたは苦労ではあるが従前通り、苦しみ、悩みもがいている子羊を勇気づけ、未来に希望を与えるのじゃ。自ら命を絶とうとしている者を救え」
命じられた金剛居士は私にチラと視線を投げかけ、ニコッと笑みを残して消えた。
「秋霜居士よ。そなたは法を曲解して庶民の血税を貪り、法の網を潜り私腹を肥やし、惰眠して憚らぬ小役人を粛清せよ。人間界での法では罰することの出来ぬ悪行を糾せよ」
秋霜居士は東辛坊に命を受けた途端に消えた。
金剛居士に見覚えがあった。金剛居士は、紛れも無く街角で私に声を掛けてきた易者だったし、私が命を断った樹海で、泰碌山の東辛坊を訪ねよと教示してくれた老人は、金剛居士だったのだ。
「オイ、そこの落ちこぼれ。こっちに来い」
東辛坊が満面の笑顔で、上り框に仁王立ちしていた。私は招かれるまま、部屋に入った。
「一仕事を終えたようじゃな」
東辛坊は満足気だった。
「総てお見通しだったのですか」
私の問に東辛坊は微笑んだ。
「私は仇討ちをしました。東辛坊様から授けられた強力でもって、人を殺めてしまいました」
「お前が殺めた常務とやらは、当然の報いを受けたまでじゃよ」
「ただ、私は寂寥感に苛まれております。それに、閻魔様の約束を破りました」
「約束?」
「はい、現世に行ったらならぬと」
「ははは、奴はそういう奴だ。だから、未だかってかたぐるしい、閻魔庁の役人をやっておるのだ。実に下らん。気にするな。これからじゃよ。これからは寂寥感に苛まれている程の暇はないぞ。さて、そう言えば、そなたには未だ名がなかったの」
東辛坊は腕を組み、暫くの間考えていたが、やおら、
「そうじゃ、そなたの名を、救善居士としよう」
と、私に名前を付けてくれたのだった。
「わしが今まで付けた名のうちでは一番好い名じゃ」
東辛坊は満足気であった。
「さて、そなたはこれより、時には風となり、又、雨となり、善意を装いながら人の弱みに付け入り、財産はおろか命まで奪う邪悪な人間を粛清せよ。善意の人々を救うのだ。なあに、人間界では人を殺せば殺人じゃが、冥界では寿命という事になる。悪を正すのに何の憚りもいらぬ」
東辛坊は私に命を下すと、ゴロリと横になって寝てしまった。
(完)