青色の硝子玉【脚本】
彼「明日、あの人と一緒にここを出ようと思うんだ」
ボク「ある夜、君が突然そう告げた」
彼「彼女、初めは戸惑っていたけれど、僕が真摯に話をしたら、漸く頷いてくれたよ」
ボク「彼女と言うのは、ボク達の母親の事だった。正確に言えば、義理の母親だ。父が、数年前に連れてきた女性で、ボクらの本当のお母さんに似ているのだそうだけれど、小さい頃に何度かしか逢った事のない母の顔等、当時のボク達は少しも覚えていなかった」
彼「明日の朝、日が昇る前に彼女と出て行く。君にだけは、伝えなくてはならないと思って」
ボク「ボクと彼は、兄弟だった。同じ日に生まれ、同じ時をこの家で過ごしてきた。だから、これまでお互いに対して隠し事は一つもなかった。彼が、彼女に想いを寄せていた事も、知っていた」
彼「君は、何も知らなかったと言ってくれていい。きっとお父さんはすごく怒るだろうね。でも、僕はもうあの人の哀しい顔は見たくないのだもの」
ボク「彼女はとても美しい人だった。彼女が初めて家にやって来た時、ボク達はまだほんの子どもだった。車から降りてきた彼女は、黒檀の髪を風に躍らせながら、これから暮らす場所を繁々と見つめていた。庭で遊んでいたボク達に気付いた彼女は、歩み寄ってきて」
彼女「こんにちは。初めまして」
ボク「と、美しく微笑んだ。花が綻んだ様な笑顔に、ボクは目を奪われた。それと同じに、彼の頬がポォッと、紅く染まるのを見た。恐らく、一目惚れだったのだろう。だからボクは、その時感じたモヤモヤとした薄暗い何かを、彼が持ったのと同じ、恋なのだと思った」
彼女「急にお母さんなんて、呼びにくいでしょう。どうぞ好きなように呼んでください。私は貴方達のお父様と結婚したけれど、だからといってすぐに貴方達のお母さんになれるとは思っていないし、第一お父様よりも、貴方達との方が、齢が近いのだもの」
ボク「あどけない少女の笑顔で、彼女はそう言った。事実、ボク達はもうすぐあの頃の彼女の齢に追いついてしまう」
彼「場所はまだ、決めていないんだ。でも、海が見える所がいいと、彼女が言うから、僕達は海を目指す事にするよ」
ボク「嬉しそうに語る君の言葉を、ボクは静かに聞いていた。頷く事も、止める事もせず、ただ聞いていた」
彼「あぁ、そうだ」
ボク「彼はふと、ポケットに手を入れて、ボクに向かって差し出してきた。それは、青くて大きなビー玉だった」
彼「これは、君が持っていて欲しい。お守りだと思って。僕だと思って、持っていて欲しい」
ボク「ボクは、それを受け取れないからと首をふった。けれども彼は、手を引こうとはせず、もう一度言った」
彼「君に持っていて欲しいんだ。僕にはもう、必要ない物だから」
ボク「それは何故かと、聞かなかった。ボクは、その意味を知っていたのだ。彼は明日、こんな偽物の硝子玉ではない本物の綺麗な青を、手に入れるからだ。空と海を映した様な二つの青を持つ少女を、手に入れるからだ」
彼女「貴方達のお父様はね」
ボク「彼女はとても優しくて、哀しい声で言っていた」
彼女「私を愛している訳ではないの。私を憐れんでくれているだけなの。こんな目をした私を、奥様に似ていたからというだけで、可哀相がってくれただけなのですよ」
ボク「青い瞳の少女は、それでもやはり花が綻んだように笑っていた」
彼「落ち着いたら、きっと手紙を寄越すから。きっときっと、そうするから」
ボク「ボクの手を握って、ビー玉を握らせる彼の手は、とても熱くて、大きかった。昔はずっと、同じくらいだったのに、いつの頃からか追いつけなくなって、一つ前の春には掌を合わせると一回りも違う様になっていた」
彼「どうか元気で。僕はどこへ行っても、君を愛しているから。たった一人の、兄弟なのだもの」
ボク「キラキラと、まるでビー玉のような瞳で、君は言う。ボクは何も言えなくなって、そのビー玉を握りしめると、それが答えと思った彼が嬉しそうに笑う。目の高さもいつからか追い抜かれてしまって、ボクはもう彼に勝てる所が一つもなくなってしまった。その事を彼女に言ったら」
彼女「仕方のない事なのよ。それが、大人になると言う事なの」
ボク「そう、頭を撫でてくれた」
彼「もう眠らないと。そろそろ、見回りが来る」
ボク「洋灯を消しに行く彼の背中は、やはり昔に比べてとても大きく感じた。この所、父の様に低くなってきた彼の声が、ボクを呼ぶのが好きだった」
彼「この家で過ごす、最後の夜だ。君と過ごすのも、これが最後かもしれない」
ボク「ボクは、ベッドに入る君を見る。ボク達は、ずっとこの屋敷で生きてきた。学校というのにも行かず、彼女や家庭教師達に勉強を教えてもらっていた。それが何故かと彼女に聞いたら、彼女は青い瞳を曇らせて言った」
彼女「それを知ったら、貴方はきっと悲しい気持ちになるわ」
ボク「ボクはそれでも知りたくて、後々一人で本を調べた。そこには、ボク達のように二人で一緒に生まれてくる事は、畜生腹と嫌われていて、特に双生児と言うのは、前世で愛し合って死んだ、心中者なのだと書かれていた」
彼「ねぇ」
ボク「ボクは、それを知っても少しも悲しくはならなかった。それどころか、とても嬉しいと感じた」
彼「またきっと、会おう。きっと、会おうね」
ボク「君は知らない。ボクが、春には別の家にやられる事を。君は知らない。ボクが君と同じ様に声が低くならないのを、気にしている事を。君は知らない。ボクの胸が最近、彼女の様に膨らんできた事を。君は知らない。ボクが」
彼「おやすみ」
ボク「目を瞑る君を、焼き付ける様に見つめる。明日の朝には、君はもう此処ではない何処か遠くに行くのだ。ボクが覚えた隠し事を何一つ知らないまま。そのビー玉の様な瞳に彼女を映して、笑うのだ」