2011年3月11日
東日本大震災のあった2011年3月11日、その日私は1月20日に出産し里帰りしていた妻と産まれたばかりの長男を迎えに行くため妻の実家のある岩手県宮古市に向かっていた。午前10時頃東京駅発の新幹線に乗り宮古までの中継地点となる盛岡駅に到着したのはお昼少し過ぎた頃だったと記憶している。
当時のバスの時刻表を調べると、盛岡駅発宮古行きのバスが12時40分で運行していた。新幹線が着いたのは12時半前だったので、このバスに乗って車内で軽食をとるという選択肢も出来たのだが、食い意地が張っている私はその日どうしても盛岡で名物の冷麺が食べたくなり、駅近くの盛楼閣という有名店で冷麺を食べた後、一本遅らせた13時40分発のバスで宮古へ向かった。そしてこの選択が運命の分かれ道となった。
地震発生時、バスの車内でうとうとしていたため正直揺れの強さは良くわからなかったが、今考えるとバスがなぜかバス停でもない所で一時停車して待機していた時があったので、恐らくその時が地震が起きた時だったのであろう。それからしばらくしてバスの乗客達が携帯やスマホを取り出してそわそわしていたように記憶している。恐らく地震の一報を家族からメールなどで受け取っていたのであろう。その時地震の大きさを把握していなかった私は事態の深刻さに全く気付いていなかったが、トイレ休憩のある「やまびこ産直館」という道の駅の電気が消えていて真っ暗であったり、道路と並んで流れている川にものすごく大きな岩が落ちているのを見て、どうやらかなり大きな地震があったのだと理解し始めた。
盛岡〜宮古間はかなり深い山間部を通るので、通常時でさえ携帯の電波状況はかなり悪い。更に地震があったためかネットニュースを見たりメールのやりとりも出来なかったと記憶している(ただ、地震発生前、盛岡を出てしばらく経った14時頃実母に「今、バスで宮古に向かっている」というメールを送っていた。このメールは届いていて家族はこのメールから推測し私が乗っていたバスの時間を知ったようである)。
正確な記憶ではないが、宮古に到着したのは午後3時50分前後だったと思う。通常バスは駅前のロータリー近くで止まり下車するのだが、この日はもっと手前で停車した。降りるとバス会社の人が「とにかく高い所に行って下さい」と大声で叫んでいたので、とりあえず近くに見えた陸橋に避難した。しかしその後何度も来る余震の度に陸橋が激しく揺れだし、下に降りる階段と陸橋のつなぎ目が剥がれ始めたので恐怖を感じ、その場を離れ、ひとまず家族のいる妻の実家方面に向かおうとしたが、そちらは規制線が貼られていて警察官に行くのを止められた。その後少し離れた所にある低い山の中腹に人がいるのが見えたのでそこに避難した。途中、近くの川は黒く濁り逆流していた。
山で同じく避難していた地元の方と少し話をし、家族と会える可能性もあるので避難所に行く事にした。地元の方に近くの学校の場所を教えて貰い、山を下りてすぐの場所にある宮古市立山口小学校へ向かった。結局家族はそこにいなかったが、土地勘も無く暗くなってきたのでその日は小学校の体育館で一晩明かす事になった。
翌朝妻の実家に向かった所、家は一階部分が完全に水に浸かり、妻子もあわや流される所であったが、辛くも難を逃れ幸いにして家族皆無事であった。
あの日私が冷麺をわざわざお店に食べに行かず一本早いバスに乗っていたら、私は地震発生直後(あるいは少し前)の宮古市に到着していた事になり、その後そのまま妻の実家に向かっているとすれば津波に飲まれ命を落としていた可能性も十分にあったし、私が来た事で妻子と家族の避難するタイミングが狂い家族が命を落としていた可能性もあった。たかだか私の昼食の選択が死神の鎌をスレスレでかわすスイッチになっていたという事になっていた、そう考えると未だにゾッとする。
運命の分かれ道というべきものがあまりにも卑近で些細な選択、それも自分で全く意識していない内になされているという何とも言い様の無いこの世の仕組み、ぼんやりと頭では理解していたつもりでいたが身を以て体験した今は、私と家族があの津波で幸いにして「たまたま」生き延び、その後も「たまたま」生きているのだと思うようになった。この、ただ「生きている」という事の有り難さを肝に銘じて毎日を一生懸命生きて行きたいと思う。