生きると言うこと

 ふと気が付くと、肥沃な大地への蒔きつけも終わり、辺りはすっかり緑に包まれ、真夏の太陽を今かと待っている。

 私にとって、春は心踊る季節だった。でも、今は違う。タラの芽、ウド、キトピロ(アイヌ葱)も旬を過ぎてもう食べられない。蕗、蕨ももう食せない。硬くなりすぎなのだ。

 私は脳梗塞で倒れ、救急車で運ばれた。その前後の記憶は全くない。気が付いた時は、病院のベットに寝ていた。この時、娘と古女房が総てを仕切っていたらしい。矢張り最後は家族だな、自分では何一つ出来ないと、内心忸怩たるものがあった。だが、家族には弱音は見せたくない。本当は心で拝んでいるくせに、相変わらずの仏頂面を決め込んでいる。全く可愛げの無い爺である。そんな事、百も承知である。でも、愛想を振りまくなんて事は死んでも出来ないのだ。

 それはそうと、溌剌とした自分はもういない。親友も死に、兄弟も死んだ。皆、雲居の彼方で笑っている。そこが幸せな場所かどうかは分らない。戻って来ないということは、良いところなのだろう。

 少年の頃、家は道道(北海道が管理する道)から百メートルほど引っ込んだ場所にあった。なぜ道道のすぐ傍に家を建てなかったのかと不思議だったが、先祖が川沿いに開拓小屋を建てた後、大蔵省が土地を買収し、真っすぐな道を造った為だと分かった。その真っすぐに伸びた道道の所有者は、今でも大蔵省である。

 通学するには家から随分と遠く感じて嫌になる時もあったが、道沿いに植栽された落葉樹の放つ強烈な油の臭いが私は好きだった。学生帽の内側を流れる汗と、新緑。我が宰相は「留学生は宝だ」という。全く意味が分らない。とにかく、松脂の臭いに圧倒されたものである。

 さて、私は病を経て、自宅で療養の身となった。快晴の午後、何時ものように庭で遊ぶ雀を眺めていた。野山や畑には緑の葉がしげっているだけで、雀が好みそうな穀類は無かった。そういえば、小魚を獲る術を知らない雀には、夏は一番辛い季節なのかも知れない。

 私が座る椅子の傍に、季節外れの一輪の小さなタンポポが、頭に綿帽子を被って咲いていた。それを眺めていたら、一羽の雀が器用に一本の綿帽子を抜き取り、不要な部分の茎をへし折って、種の部分を食べた。雀の、この厳しい季節を生き抜く術を知って、私は少なからず衝撃を受けた。年金も無く、財産も無い、小さい身一つで生きていくということは、こういうことなのだ。

 この雀に生命と財産を守ってくれる国家があり、信頼の置けるリーダーがいれば、こんな惨めな生き方をしなくてもいいのに、と思う。だが、そんな貧しい世界が、我々日本人の身の上を暗示しているような気がしてならない。

 私が理想としている生活は、囲炉裏を囲んだ母娘が拾ってきた栗を煮ている、その風景である。恐らく、父親は出征中なのであろう。だが、それは言えない。出征中の父親を除けば、これほど幸せな絵はない。私が最も理想とする、日本の田舎の原風景である。

 原風景と言えば、小学生の頃の夏休帳と冬休帳がある。中の絵を見るのが好きだった。十勝には田圃が無い。だから、捕虫網を掲げて赤とんぼを追いかけている絵を見ると、本当に羨ましかった。冬休帳のトナカイの絵も、なぜか皆楽しそうだった。これらが、田舎に住む私の原風景である。無論、十勝にトナカイはいなかったが。

 私達は今、きちっと区画された田圃で機械に乗り、ゲンゴロウも、タニシも、ドジョウもナマズもいない畑や田を耕している。そう言えば、秋の赤とんぼも姿を消した。その代わり、黒い肌や彫の深い人種を見かけるようになった。

 一人の為政者の為に日本の国体が壊れていくようで、不安でならぬ。