都会から来たすぐれもの

 私は仕事柄、一ヶ月の約半分は北海道に点在する特約店を回っていた。別にどうってことはないが、これが私の仕事なのである。毎日ろくな仕事をしていない私だが、人並み以上の給料と休みがあったので、ここまでやってこれたのだと思う。

 私が入社して何年目だったか、フロアにいた全員が社長室に集まっていた。丁度トイレから出できた社長に「君、一体何してるんだ。アメリカの宇宙船が月に着陸する歴史的瞬間を見逃すではない!」と言われ、その日は一日、米国の凄さなどを社長室で談笑した。当時はそれだけ余裕があったというか、呑気だったのである。それが今はどうであろう。兎に角、前後左右から視線を浴び、休み時間ですらゆっくりテレビなんか見ていられない。

 考えてみると、これらの余裕は総て初代の創業社長から生まれていた。今は違う。生え抜きと言えば格好は良いが、一人では決められず、何事においても自信なさげである。太っ腹なところが無く、先代が決めた規則だけを重んじ、それを錦の御旗のように振りかざしている。これだもの、会社は大きくなるはずがない。

 空知の中堅スーパーの専務(当時。今は社長)と二人で虻田郡を移動中、疲れたのでそこにある宿に入った。二人では無聊だというので、地元のS氏を呼ぶ事にした。それでも野郎ばかりで十分無聊だが、二人よりかはいい。S氏は、当日電話したばかりなのに直ぐ飛んできてくれた。これで三人にはなったが、もう面倒なので、宿の和室で各々手柄杓で呑むことに。コップ酒である。

 S氏は地元出身で、立正大学を卒業後、さらに中央大学に進学。そこを卒業してシャープ電気の営業部に就職、という変わり種である。実家に帰ったのも、父親が三千万の借金を作ったためだった。その借金も直ぐに解決。解決したはいいが、田舎故仕事が無い。公職に付かない限り、学歴なぞ無きに等しい。取り合えず豚でも飼うか。その時が私との出会いだった。あ、そうそう、彼が立正大学卒業後に中央大学に進んだのは理由があって、主に立正大学時代に立ち上げた人足稼業が軌道に乗ったからである。まあ、そんな人生だった。

 S氏は、やはり非凡だった。彼の実家は、支笏湖から、洞爺湖、ニセコに通じる国道276号線にあり、千歳空港で降りた観光客が必ず通る道である。喜茂別はジャガイモの産地である。ところが最近はもう、連作障害が祟り、土壌汚染が酷く、収穫は往年の三割程度まで落ち込んでいた。土壌害虫ネマトーダの害である。 

 この現状を知ると、彼は直ぐ愛別町まで飛んで、そこでひっそりと栽培されていたキタアカリを入手。それを播種した芋の畝間に、マリーゴルドを蒔いたのである。マリーゴールドの根は、芋にしがみ付くネマトーダの大好物。ネマトーダは、マリーゴールドの根に嚙みついたところで死んでしまうので、農薬を使わなくて済む。つまり、無農薬栽培の走りとなったわけである。

 そして同時に、観光道路の脇にマリーゴールドの花畑、である。総てといっていい程の観光バスが止まり、それにつられるように、メディア各社が取材にやって来た。しかし、S氏はこれで満足するような男ではなかった。北海道の著名なコピ―ライターI氏に依頼し、煌びやかなポスターを作って、全国の目ぼしい市場に送ったのである。ちなみに、このI氏は「網走の砕氷船ガリンコ号、洞爺湖のなんてたって宇宙一」のコピーで有名な人物だ。こうして、何時廃れるかも知れないキタアカリという馬鈴薯は、一躍全国区になった。S氏が都会で身に付けたセンスが、田舎でも輝きを増したのである。

 さて、中堅スーパーの専務とは、豚牛の脛肉を売る方法について議論した。ご存知の方も多いだろうが、脛肉は肉の中で最も安く、足を引っ張る部位である。三人で議論した結果、十種類ほど味の違うジャーキーを作る事にした。素人の発想は悲しいもので、私はおずおずと「一番旨いものを二種類くらいでいいのでは?」と意見を出したら、一笑に付された。

「君、二種類でどうやって目立たせるのかね。売れるのは一種類でいいのだよ」

 二人に爆笑されてしまった。商売の素人は恥じ入るばかりである。でも、風呂は良かったし、酒も旨かった。私の知らない世界を色々聞けて楽しい一夜だった。ちなみに、キタアカリを世に出したS氏は、長らくK町の町長を務めた人物である。