大地に立つ(1)

一陣の驟雨が慌しく通り過ぎて行った。上空に漂っていた塵は綺麗に洗われ、清澄で清々しい空気が肺胞の奥まで染み込んでくるようである。真夏の太陽に焙られ、水気を奪われた生物が、ほっと一息つく午後だった。近くでキリギリスが再び鳴き始めた。
修二郎は落ち着かなかった。
「今日は絶対に釣れる」
そう思うと、授業にちっとも身が入らない。雨の後の夕方は豊かな水量に誘われ、ヤマベが川底の岩の裂け目から出てくる。雨が上がると様々な昆虫が飛び交い、誤って川面に落ちる虫をヤマベは狙うのだ。
終業の鐘が鳴ると同時に修二郎は学校を飛び出した。家に戻るとランドセルを放り投げ、竹の一本竿に一号のテグスを括り、鉛、針を半ズボンのポケットに捻じ込み、馬小屋の馬糞を漁り、ミミズを小箱に取り込むと一目散に然別川に向って走った。
ヤマベは人影を見ると、岩陰に隠れ数時間も出て来なくなる。誰かに先を越されると、釣果はゼロになる。
修二郎の家から然別川まで直線で一キロメートルほどの距離である。農道を行くと回り道となる。修二郎は躊躇わずに麦畑の畝の間を走った。
麦は針のような棘を上空に垂直に付きたて、外敵から身を守っている。けれども青々とした若い麦は未だ柔らかく、微風に弱弱しく畦っているだけだった。
午後に降った雨は麦の葉の上に玉を結んで、陽にキラキラと輝いている。麦畑の隣はジャガイモ畑で、ピンクの花が満開に咲き誇っていた。
何時もの釣り場に着いた時には全身ズブ濡れだった。でも午後の強い日差しが直ぐに乾してくれるので、ちっとも気にならなかった。
何時ものポイントで釣り針にミミズをつけ、何気なく辺りを見回した時、修二郎はひどく落胆した。岸辺の夏草は倒伏していて露が払われていたからだった。人が歩いた跡がある。
「チエッ、先を越されちゃったよ」
修二郎は舌打ちをした。でも気を取り直してポイントに釣り糸を投げた。案の定、釣れるのはカジカばかりだった。吊り上げたカジカを再び川に戻すこと数回にして釣りは諦めた。場所を変えても結果は同じだった。 
麦畑を走っている時、ヤマベを父の善治と母の春江、そして自分の分として最低でも二匹づつ合計六匹は釣る予定だった。その希望が脆くも崩れたのである。
浅瀬の澱みではアカハラ(ウグイ)が群れていた。そこに釣り糸を投げ込んでみても、未だ日差しが強いせいか、見向きもされなかった。
(何をやってもついてない時は駄目だ)
修二郎はそう呟くと、早々に諦めて足を上流に向けた。
500メートルほど上流に、上空高く紫紺の煙が立ち昇っているのが見える。そこにアイヌの元酋長イモンコのチセ(住居)がある。
「おお、おお、修、よう来た。ささ、こっちに座れ。どうじゃ、ヤマベはつれたかな?」
「全然駄目だったよ」
イモンコはニコニコと、何時も通りに暖かく修二郎を迎えてくれた。
歳は60を少し越した位か。
イモンコ自身にも正確な年齢は分からない。赤ら顔で見事な白鬚が胸の辺りまで伸びている。             
イモンコのチセ(住居)は屋根も壁も総て葦で出来ていた。部屋の中央には大き目の炉が切られていて、流木がチロチロと燃えていた。
床は乾いた真砂の上に薄く葦を敷き詰め、更にその上に綺麗なキナ莚が敷かれていた。東には窓が開けられ、涼やかな風が緩やかに流れ込んでいた。
修二郎は何時も通り南の炉辺に腰を降ろして目を剥いた。炉の灰に幾本ものヤマベを串に刺して焼いていたからだった。それは明らかに釣り上げたばかりのヤマベだった。
修二郎は思わず、
「あっ」
と、声を上げイモンコの顔を見た。この仕草を見てイモンコは腹を抱えて笑った。イモンコは修二郎が雨上がりには必ずヤマベを釣りに来ることを知っていた。だから先回りをしてヤマベを釣り上げていたのである。
イモンコは程よく焼きあがったヤマベを修二郎に勧めた。けれども修二郎はヤマベを食べることが出来なかった。この所、夕飯といえば麦飯と漬物、菜っ葉の味噌汁ばかりの毎日だった。だから、せめて両親にはヤマベの天婦羅か塩焼きを食べさせてやりたいと願っていたのだ。そう思うと、修二郎一人が新鮮なヤマベを食べる訳にはいかなかったのである。
イモンコはご馳走を前にして逡巡している修二郎に、部屋の隅に保存していたヤマベを見せて、これを全部持っていけと言った。イモンコは修二郎の気持ちは分かっていた。だから予め修二郎が来る事を予想していて、お土産まで用意してあったのだった。
お土産は確保できたし、それに空腹だった。修二郎は躊躇わずに串焼きのヤマベに齧りついた。
「どうじゃ、修。旨いか?」
「ウン、旨い。ところでさ、小父さんはここで生まれたの?」
「ああ、ここで生まれた。ここはな、昔はアイヌ語でクテクウシと言うてな。鹿の追い込み場があったんだぞ」
「へェー鹿が一杯いたんだ」
「ああ、いたとも。秋になるとワシの仲間が大勢寄ってきてな。山奥から鹿の群れをその鹿追い場に追い込むのじゃ」
「それでここを鹿追と言うんだ」
「そうだ、クテクウシが何時の間にか和人語の鹿追となってしまったんじゃよ」
「クテクウシでも良かったのにね」
「仕方がないさね。今じゃアイヌ民族より和人の方が多いからな」
「でも、ここで鹿は見たことないよ」
「昔、大雪が降った年があってな。鹿は足が細いから、大雪が降ると歩けなくなる。それで餌を食えずに皆死んでしまったのじゃよ。春になって雪が溶け出すと、川を堰き止めるほど死骸が流れていた」
「小父さんは鹿の死骸を見たの?」
「ああ、見たとも。それ以来、鹿追い場はなくなり、アイヌのウタレ(同胞)もいなくなった」
イモンコは遠い昔を懐かしむように窓の外に視線を泳がせた。
イモンコの住む世界は修二郎の住む世界とは全くといって良い程違っていた。生活に必要な物資の殆どを自然の中から手に入れていたし、必要なものは何でも自分で作ってしまう。物を買う習慣のない生活は、修二郎にとっては不思議な世界だった。
イモンコは色々な話をしてくれた。野うさぎの捕り方、熊狩の事、イヨマンテの事、秋味の保存の仕方や鹿の捕り方などである。修二郎にとってはイモンコの話はまるで小説の世界のように感じられるのだった。
いつの間にか陽は沈んでいた。十勝平野の夕暮れは突然やって来る。日高の山並みに陽が沈むとたちまち帳に包まれる。西の上空だけは赤々と燃えているのに、地上は暗い。  
修二郎は気が急いた。先ず風呂を沸かしておかなければならない。二頭の馬と二頭の綿羊親子の世話、薪運び、居間の掃除もしなければならないし、農作業で疲れている母の春江を少しでも助けるためには何でもやらなければならないのだ。
修二郎が一通りの仕事をようやく終えた頃、両親は汗と埃に塗れて家に戻って来た。
「修が手伝ってくれるので、本当に助かる」
春江は疲れた表情の中にも、笑顔を見せて言ってくれた。その言葉が修二郎にはひどく嬉しいし、何よりの励みだった。自分が役に立っていることが、家族の一員としての存在を実感させるのだった。
でも、今日、実は修二郎には一つ気になる事があった。綿羊を小屋に入れる仕事を忘れていたのである。綿羊は朝、牧草地に杭を打ち、二メートルほどの鎖で係留する。夕刻には綿羊小屋に入れ干草と水を与える。綿羊に濡れた青草を与えると、胃の中で発酵しガスで胃破裂が起きる場合がある。だから雨の日は係留しないし、青草が露に濡れる夜間は必ず小屋に入れなければならないのだ。だが、修二郎は、
(雨は降りそうもないし、今晩位はいいだろう)
そう決めた。疲れてもいたし、何しろ面倒だった。それに善治も春江も修二郎がイモンコから貰って来たヤマベを見て喜んでくれている。丸い卓袱台の上にはヤマベの天ぷらと、塩焼きが大皿に盛り付けられている。笑顔に包まれた明るい雰囲気は居心地がいい。ついその日は綿羊を放置したまま一夜は明けてしまったのである。
けれども、昨夜は中々寝付かれなかった。綿羊親子を小屋に入れなかった事が気になって仕方がなかったからだった。
翌朝、修二郎は夜明けを待たずに牧草地に向かって走った。こんなことなら遅くなっても小屋に入れておくべきだつたと後悔した。
ゴムの短靴は朝露で濡れ、走りにくいし気持ちが悪い。でも今は気にする余裕はなかった。
やがて遠くに綿羊親子の姿が見えた。ノンビリと修二郎の方を眺めているようである。
(無事だったか。よかった)
そう思った瞬間、体から力が抜けた。
親綿羊のいる場所は、鎖の長さを半径として、円形に草が食い尽くされている。
(草の一杯ある所に繋ぎ代えてやろう)
そう思い、親羊を繋いでいる鎖の杭に手を伸ばした時、子羊が修二郎の足元に擦り寄って来た。普段その子羊は警戒心が強く、絶対に人間に近付く事はなかった。だが、その日は違った。腰が定まらず歩みが異常だったのだ。泣き声も弱弱しく、目が充血している。
修二郎は思わず子羊を抱き上げた。全身が露にぬれていた。身体に力はなく、腹部はゴム鞠のように膨れ上がっている。そして程なく子羊は修二郎の腕の中で目を閉じた。
修二郎の心臓は早鐘のように高鳴っていた。
(ウソだ。ウソだ。そんな。おい、起きろよ、起きてくれよ)
心の内で必死に叫んだ。しかし子羊は二度と目を開ける事はなかった。親綿羊はなす術なく呆然と修二郎を見上げている。
修二郎は子羊を抱き、泣きながら家に戻った。足取りは重く、胸の内は悔恨の念で一杯だった。
善治は烈火の如く怒った。当然だった。怒声の前に平手打ちが頬に飛んできた。大地に転がった修二郎を更に足蹴にした。
「いいか修、よく聞け。綿羊はな、鎖で繋がれていて自由がないのだぞ。俺はな、綿羊が気ままにその辺に居て勝手に死んだのなら何もいわねえ。だがな、綿羊はな、鎖に繋がれていて自由がないのだぞ。綿羊の自由を奪った者が面倒を見なくてどうするんだ。総て責任はお前にあるんだ。忘れるな」
修二郎は土の上に正座して、善治の怒声を頭上に浴びていた。怖かった。悔恨の涙が滂沱と流れた。善治はきっと自分の事が嫌いなのだとさえ思った。母の春江は善治の怒りが収まるのを待って、修二郎の震える肩をそっと抱いた。母は共に叱られてくれている、そんな気がした。
「さあ、もういい。可哀想だけど死んでしまったものはもうどうしょうもない。土に埋めてやろう」
修二郎と春江は裏庭に穴を掘って子羊を埋めた。土盛りの墓が出来ると、春江はそっと野花を供えた。