大地に立つ(2)

夏休みになった。通信簿は音楽と体育を除いて総てが五の評点だった。修二郎はどうも体育と音楽が苦手である。体育と音楽は勉強の仕様がないのだ。
「こればっかりは才能の問題だからな。修にはその能がないってこった。才能がないもんがいっくら頑張ったって芽がでるもんじゃねえ。はなから捨てるこった」
善治は通信簿を眺めながらカラカラと笑った。才能が無いと言われれば、逆に落ち込んでしまうものだ。春江は又違った意見を持っていた。何故全部の教科が五になるように頑張れないのだ、たった二教科なのに勿体無い、と言うのである。普段は優しい母の春江だが、芯に秘めた感情は激しいものがあった。ただ幼い頃より、徹底的に矯正された結果、激しい感情は内に隠すという術を身に付けたのである。だから人前では決して荒振る感情を表に出す事はなかった。それが平和に生きる術だと信じているのだった。 
修二郎は夏休帳が好きだった。問題を解くのも好きだったが、同学年と思われる少年が、田圃の畦道でトンボを追いかけている姿や、浴衣姿の少女達が描かれた挿絵を見るのが好きなのだ。ここ鹿追に田圃は無い。
夏休帳を見ながら、畦道でトンボを追い、ヤゴや鯰を捕まえてみたいと思う。そこに描かれた絵は修二郎の知らない世界だったからだった。       
八月十三日、春江は庭に咲いているグラジオラスや彼岸花、キンレンカを摘み、部落の共同墓地に向かった。修二郎もバケツに鎌、線香に蝋燭、若干の供物を持たされ、春江に従った。太陽はカッと大地を焦がし、静寂が辺りを包んでいる。真っ直ぐ進むと、瀬戸雑貨店があり、国道はその店を包み込むように右にカーブしている。その行き着く先が鹿追の市街地だった。カーブしている砂利道から左に延びる小道は緩やかな上りとなっており、二キロ程進むと共同墓地に行き着く。二、三十基の木製の卒塔婆が草むらの中から頭を覗かせている。石造りで、新しくて立派な墓は数基しかなかった。その墓標には石塚伍長とか山口上等兵等、誇らしげに軍隊当時の階級が刻まれていた。
春江は墓の回りの雑草を鎌で刈り取り、線香に火を点けた。修二郎は小川に降りて水を汲んだ。小川の水は冷たく、川底にはザリガニが大きな鋏を持て余してでもいるように憩っていた。思わずザリガニを捕まえようとした。けれども今はそんな暇はない。未練は残ったもののザリガニ捕りは諦めざるを得なかった。
春江は修二郎が汲んできた水を墓標に掛けると、長い間手を合わせ、何事かを呟いていた。やがて、立ち上がると、修二郎に手を合わせて拝むように促した。目を瞑り、墓標に向かって手を合わせると、盆踊りへ誘う太鼓の音が遠くに聞こえた。線香の紫煙はゆるゆると立ち昇る。そこは悠久の時間が流れていた。春江は刈り取った雑草の山に腰を降ろし、遠くに聳える東ヌプカウシヌプリをぼんやりと眺めていた。修二郎が拝み終えると、
「お前の爺さんと婆さんと、姉さんが眠る墓だよ」
春江は修二郎に言った。修二郎には澪と言う姉がいて、二歳の時ジフテリアで死んだということは、何度も聞かされていた。
「もう少し早く病院へ連れて行けば、死ぬ事は無かった。母ちゃんは庭に残った澪の足跡が雨で消えるのが寂しくてね、何日も傘を差して置いたんだよ。可愛かった」
春江は呟くように言った。目は涙でうるんでいた。今にも降り出しそうな雨に追われ、農作業を終えて家に戻った時には、澪は息絶えていたのだった。
「オレが澪を殺したんだ」
春江はそういうとボロボロと大粒の涙を流した。澪が死んでから十年にもなるというのに、春江はまだ罪の意識に苛まれているのだった。
家に戻ると、春江は修二郎に白地に紺の浴衣を着せてくれた。陽が日高の山並みに沈んでも、西の空は燃えているかのように明るい。一刷毛の絹雲は朱色に染まっていた。空気が冷えて来ると、盆踊りに誘う大太鼓の音が大きく聞こえた。
盆踊りの会場は小学校のグランドだった。春江と修二郎は連れ立って盆踊りの会場に向かった。路傍には月見草が闇の中に鮮やかな黄の花を咲かせ、小川にはホタルが飛び交い、水面に写る星屑がキラキラと忙しなく輝いていた。
小学校のグラウンドでは中央に組まれた櫓を中心に、幾重もの踊りの輪が出来ていた。仮装した者、既に酔いが回っているのか、浴衣の前をだらしなくはだけ、それでも踊りに夢中になっている若者、野卑た冗談に嬌声を上げて笑い転げる娘達が、一夜の宴に酔っている。
忍耐力ばかりを要求される農作業から、ようやく開放された若者のストレスが一気に放出されるお盆の日だった。
櫓の上では浴衣の裾を端折り、豆絞りの鉢巻姿の善治が、大太鼓に向かってバチを振るっていた。レコードから流れる北海盆歌が、繰り返し夜空の果てに吸い込まれて行く。
春江は知り合いに挨拶を交わしながら、踊りの輪の中に溶け込んでいった。賑やかで華やいだ雰囲気が、日頃の憂さや悩み、肉体の疲労まで忘れさせてくれる。善治が打つ大太鼓の音が、天に轟き、低く台地を這って流れて行く。踊りの輪が善治の打つ大太鼓の音に導かれ、一つになって揺れ動く様は壮観だった。修二郎はそんな普段とは違う善治が誇らしかった。
辛い事ばかりの毎日だ。だからこの一日、いやこの一瞬だけでも総てを忘れて踊ろう。明日から始まる過酷な労働の事は忘れよう。そんなやるせなくて、しかしながら華やいだお盆の日だった。
夏休みも終る頃、突然天が裂けたかと思われる程の驟雨が部落を襲った。斜に稲光が走り、雷鳴は天地を揺るがせた。善治も春江も息を潜め、外に金属の光り物で仕舞い忘れた物がないかと、声を潜めて囁きあっていた。
家中の総ての電気を消して、出窓の外を縦横に走る稲光に怯えた視線を向けていた。
修二郎は、生まれて始めて見る自然の猛威、荒々しさに怯えきっていた。何しろどう考えても逃げ場がないのである。何処に隠れても直撃されるに違いない。そう思うと、ただ身を固め、じっとしているより他に手立てはなかった。
時間がたつにつれ、豪雨はいよいよ激しく窓を叩き、消された蛍光管はバチバチと放電し、雷鳴は轟き一閃の雷光は辺りを真昼のように照らした。
その時、眼前にまるで丸太のような雷光が走り、直後に地が裂けたような轟音が鳴り響いた。
数秒も経っただろうか、闇夜の中に突然炎が吹き上がった。
「ああっ、あっ、落ちた、雷が落ちたぞ」
善治は呻くように叫んで立ち上がった。 
「小林だ。雷が、小林の家に落ちたんだ。畜生目」
善治は吐き捨てるように叫ぶと、もう雨合羽に身を包み、豪雨の中に飛び出して行った。
この小林の家屋を直撃した稲妻を最後に、雨は峠を越したようだった。しかしその稲妻は小林の家屋を瞬く間に炎で包み、悉く焼き尽くしたのだった。やがてそこは何もなかったように闇に包まれた。それは一瞬の悪夢だった。
薄っすらと夜が白み始めた。小林の家は完全に焼け落ち、瓦礫からゆらゆらと白煙が立ち上っていた。
昼近くになって、善治は戻って来た。雨合羽を脱ぎながら
「やあ、酷いもんだぞ、小林の家は一瞬で丸焼けよ。可哀想にな。これからどうするつもりなのか」
善治は熱い茶を啜りながら呟いた。既に雨は上がっている。外は何事もなかったような普段の風景に戻っていた。
「もう寝ようかってな、親父が寝間の戸を開けた途端、部屋の真ん中に雷が落っこちてよ、火の玉が天井から落っこちて来て床まで突き破ったってんだ。危なかったサ、もちっと早く寝てりゃお前、直撃にあってお陀仏よ。全く運がいいのか悪いのか。まっ、死ななかっただけめっけもんだ。命があっての物種だもの」
春江は昨夜の恐怖を振り払うかのように言った。自然の力は余りにも大きくて、それに比べて人間の力は余りにも弱いと思い知らされた。日々の暮らしに追われ、些細なことに苛立ち、悩み、他人の成功を羨み、おのれの人生を不幸だと嘆いている自分。そんな自分は大自然の前では如何にも小さく思えるのだった。
貧しい昼食の後、
「修、川を見に行かんか」
春江は、修二郎を誘った。
家から一キロメートルほど東に、然別川が流れている。修二郎がよく釣りをする、大好きな川だった。昨夜の豪雨で濡れた雑草を踏み分け、二人は然別川に向かった。然別川の流れは堤を超え、畑をも川底としていた。本流域の流れは怒涛と化し、泡を吹き、崖を削り、濁流が崩れ落ちた大木を翻弄していた。あの穏やかで清冽な然別川が凶暴な牙を剥き出している。
春江は、脹脛ほどの深みに立って、濁流を見つめていた。そこは本来は川岸で、ヤチダモや化粧柳の群生地だった。
「母ちゃん、何見てんだ」
修二郎は不思議そうに聞いた。
「修、あそこはね、母ちゃんの一番大事なとこなんだ。あそこにはね母ちゃんの宝物が一杯あるところだ」
春江は楽しそうに言った。母の嬉しそうな笑顔が、修二郎にはよく理解ができなかった。
「修、あそこは、質のいい蕗が一杯採れるとこでな。今年は洪水が肥料たっぷりの土を運んでくれたんで、蕗も大豊作になるに違いないよ」
春江は楽しそうだった。修二郎にしてみると、蕗が沢山採れたって、売り物になるわけでもないし、それよりも蕗が毎日のように食卓にのぼるのかと思うと気が重かった。
あの大雨の日から一週間ほど経ったある日、修二郎の家に50羽のヒヨコが届いた。母は届いた雛を、大きめのダンボールにオガクズを敷き、大切に育てた。善治は、ぶつぶつ言いながらも、物置の一部を改造して鶏小屋を造作した。
造作した鶏小屋に大釜を据付、雑木を運び込んだ。刻んだ蕗、ジャガイモや屑野菜を煮込み、米ぬかを塗して鶏の餌にするのだ。あの鶏の餌となる、川岸の蕗が春江にとっては宝だったのである。
僅かな晴れ間を縫って、一斉に種蒔きが始まった。大豆、小豆、馬鈴薯、金時、ビート。    
換金作物のほかに、自家用野菜も播かなければならない。修二郎一家は猫の手を借りたいほどの忙しさだった。修二郎も、遊んでいる暇などなかった。学校から戻ると、一日分の薪を運び、別棟になっている五右衛門風呂に水を張り、火をおこし、二頭の馬の飼葉の仕度、さらには、一頭の綿羊の小屋入れ等、陽が沈むまで労働は続いた。
こんな時つくづくと兄弟が欲しいと思ったものである。兄弟が沢山いれば、それだけ仕事の負担が軽くなると思うからだっだ。
秋の収穫期が来ると、フロ釜の火にトウモロコシを炙り、ジャガイモをフロ釜の灰で焼いて、空腹を満たす事が出来た。善治と春江は、火事に対しては異常なほど気をつかった。フロ釜に火を起こした後は、修二郎にそこを離れることを許さなかった。
修二郎はフロの火を見ながら、本を読み耽った。学校の廊下の隅に置かれた小さな本棚には、修二郎の知らない世界があった。怪人二十面相やフランダースの犬、キューリー夫人の伝記等、風呂を焚きながら読む。学校から借りてきた本は、仕事に追われ遊びを奪われた修二郎がホッと一息付ける時でもあったのだ。