大地に立つ(3)

この年の春は、分厚い雲が上空を覆ったままで、殆ど晴れた日はなかった。シブシブと降る雨は冷たく、農民は種を蒔く時期を計りかねていた。
「チッ、一体何時になったら種が蒔けるんじゃ」
善治は恨めしげに空を見上げて、舌打をした。陽は中天にありそうなのだが、分厚い雲に覆われていてその位置すらよく分からない。夜も昼も寒くて、冬着を今だかつて手放せない有様だった。それでも善治と春江は手元が見えなくなるまで働いた。種を蒔く時期は読めないけれども、畑は耕さなければならない。そのうちきっと太陽が中天に輝くに違いない。そんな願望が厳しい労働に立ち向かわせた。畑から戻ると、もうすっかり疲れきっていて、無言のままフロに入り麦飯を掻き込んだ。善治は長い間腎臓を患っており、余程労働が堪えるのであろう、夕食後は必ず寝そべって修二郎に腰を踏ませた。そして、
「ああ、今年はもう駄目だ、ひどい冷害だ、こう寒くては大豆も小豆も芽が出ないぞ。そうイャ今年の春は辛夷の花は北向きだったもな」
そう言いながら善治は寝てしまうのだった。夏は駆け足で過ぎ去り、やがて身に染み入る冷たい北風が吹き、落葉樹の小針のような細い金色の葉が、ハラハラと大地に降り注いだ。裸になった木の梢にカラスの巣がしがみついている。今年のカラスが作った巣は例年よりずっと低い位置にあつた。その事は強風の年である事を示していた。
晩秋の午後四時頃、有線放送が鹿追橋付近でヒグマが出没しているので注意をするようにとの放送があった。追っかけ、東瓜幕の自衛隊演習地付近にヒグマが出没して、農家の家族四人が襲われ、皆殺しにあったとの噂が流れて騒然となった。
一度人間を襲ったヒグマは再び人間を襲う可能性は極めて高い。この為、部落民はヒグマに襲われるかも知れない恐怖に慄き、戸締りを厳重にし、部屋の奥で息を潜めた。
地元の猟友会のハンターは直ちに招集され、更に自衛隊が出動した。人食い熊の捕獲とあって、ピリピリとした緊張に包まれ、まるで現場は戦場のような雰囲気だった。恐怖で氷ついたような一夜が明けた後、然別川上流でヒグマは射殺されたとの知らせが入った。300キロを越すオスのヒグマだったという。口を開けてみると、歯には人間の髪の毛が巻き付いていた。東瓜幕の家族を襲った証しだった。次の犠牲者を出す前にヒグマは射止められ、ほっと安堵したものの、今度はそのヒグマの所有を巡っての諍いがあった。アイヌ民族の青年6人が、この熊は自分達が追い込んで来たものをハンターが勝手に射殺したものだ。夜通し熊を追ってきた我々にその熊の所有権があると主張したのである。 
ヒグマを間に挟んで、ハンターとアイヌの青年は対峙して、激しい言い争いになった。
「俺たちは俺たちのやり方でここまで熊を追い込んで来たんだ」
「馬鹿な事言うな。鉄砲で仕留めたのは俺たちだ」
「俺たちが追い込んで来たから鉄砲で仕留めれたんじゃないか」
アイヌの青年達は譲らなかった。
「何を、生意気なこと言うな。この野郎」
と突然、四十過ぎの体格の良い鬚面のハンターが、いきなりリーダー格のアイヌ青年の胸倉を掴んで殴りかかった。リーダー格の青年は拳で強かに顔面を殴られ、無様に転がった。
だが、アイヌの青年達は無抵抗だった。この場で喧嘩になって仮にアイヌの青年達が勝ったとしても、これから先どのような仕打ちに遭うかを知っていたからだった。雪消の後、農地に芽を出す野山葵を取らせて貰わなければならないし、野兎やマス、小魚をこの人達に買って貰わなければならないのだ。そう思うと、喧嘩は出来ない。引き下がるより他はなかった。
「いいか、お前達に手伝って貰わなくても、熊の一頭や二頭ぐらい、俺たちで何ぼでも始末できるんだ。分ったらとっとと消えな」
興奮醒めやらない鬚面は塵でも払うような仕草で青年達を追い払った。憤懣やるかたない表情を見せて立ち去る青年達の背に向けて、
「全く、盗人猛々しいったらありゃしないぜ」
「人を食った熊を平気で食おうとするんだから、大した度胸だ」
と、散々に罵声を浴びせるのだった。
この有様をじっと悲しげに見つめる老人がいた。イモンコだった。昨日音更から鹿追まで狩に来たこの青年達をイモンコは一晩泊めていた。熊が瓜幕で家族を襲い、未だ逃亡中だと教えたのはイモンコだったのだ。
イモンコは突然土下座して、
「親方、アイヌにとって熊は天からの授かりもので、お土産を持って訪ねて来る客人なんだ。だから、アイヌは熊を丁重にもてなして、機嫌よく天上に帰って貰う儀式をする仕来りになっている。だから、この熊を何とかあの青年達に分けてくれんか」
と、頭を下げた。更に、
「親方達は毛皮を剥いで、肝を取れば後は捨ててしまうじゃろう。アイヌは毛皮も肝もいらない。だからせめて残りを下さらんか」
かっては誇り高いアイヌの酋長である。生涯で地にひれ伏して頭を下げた経験はなかった。屈辱で肩が震えている。ここにいるハンター達は趣味で鉄砲を撃っている。だがアイヌは生活の為に熊を取るのだ。ハンター達とアイヌとでは同じ熊でも価値は天と地ほどの差があった。しかも、近年は秋味を取れば密漁だといって逮捕され、山野を歩くにしても地主の許可がいる。窮屈であり、生活も困窮の度を深めていた。アイヌにとって十勝平野は豊穣の大地であり、自由の大地だった。それが何時の間にか開拓者が入植し、勝手に大地に線を引き、貴重な食料までも取るなという。こんな理不尽なことはなかった。だが、今は生きる為には頭を下げざるを得なかった。
「ケッ。泣き落としか。どうする皆」
鬚面男はハンター達に諮った。
「毛皮と肝さえあれば後は用はないしな。人を食った熊の肉はどうせ捨てちまうんだからよ、ゴミを持って帰ってもどうってことないだろ」
猟友会の会長だろうか。小柄で華奢な老人が断を下した。
その場で直ちに熊の解体が始まり、ハンター達は毛皮と肝を取って散会した。
イモンコは残された肉を切り分け、天秤棒に括り付けた。頬は涙で濡れていた。
収穫の時が来た。どの農家の畑でも、畑の中央に据えられた脱穀機が勢いよく回っていた。
今年の収穫高は例年の三分の一もあるかどうか。このところ、平年作と凶作が交互にやって来る。今年は凶作で、肥料代を差し引くと赤字になる。だから冬期間は救済土木工事、そして、炭焼きで家族の露命を繋がなければならない。農民は一生貧乏から逃れるこが出来ずにいながらも来年はきっと良い年になると希望を抱き畑に立つのだ。自分たちが育てた農産物なのに自分で価格を付けることも出来ず、自分達が育てた農産物の値段が消費者の口に入る時には数倍にもなっている現実を分かっていても、無力な百姓にはどうする事も出来ないんだと嘯き、人のよさそうな笑いを浮かべ、耐えているのである。
晩秋になり、借金の返済が出来ない事がはっきりすると、夜逃げをする農民もいた。
「どうせ転がり込んできた土地だ。百姓なんてなんぼ働いたって知れたもんだ。馬鹿臭くてやってられねぇ」
「そだ、やってられねぇぞな、他所で働いて給料を貰ったほうが、なんぼ堅いかよ」
そう言いながら煙草を吸い、愚痴ってみても自分に出来る事は百姓しかないと思っている。     
いい所でも収穫を終え肥料代を払い、滞っていたツケを払うと手元に残る金はなかった。その日から借金の一年が始まるのだった。
畑の始末が総て終り、厳しい冬に備えての薪割り、葦での風囲いを終える頃には凍てついた大地に雪が降る。
十勝平野を睥睨するかのように聳える東ヌプカウシヌプリと西ヌプカウシヌプリの頂は、早くも雪を被っていた。東ヌプカウシヌプリと西ヌプカウシヌプリは並んで聳えている。この二山は夫婦山と呼ばれていた。
善治は、薪小屋と母屋の間を葦で塞ぎ、風囲いを作っていた。風囲いがなければ、強烈な吹雪が母屋の玄関先に一夜にして膨大な雪の山を築くのだ。
善治は器用に葦を縄で編みながら、
「修、畑の小豆を拾え。一升百円で買ってやるけど、どうだ、やるか?」
と、修二郎にいった。勿論修二郎に異存はなかった。
脱穀機は畑の中央に設置される。刈り取られ、畑に列をなすニオの底に棒棹を二本突き刺し、その棒棹の前後を二人で持上げて脱穀機の所まで運ぶのだが、その脱穀場の周辺に豆が零れ落る。善治はその零れ落ちた小豆を拾えと言うのだ。
大地には霜柱が立ち、それが日中の陽の光に解けて畑は泥濘と化す。日が暮れる頃に吹く北風には粉雪が混じっている。だから北風が吹く前の限られた時間に零れ落ちた豆を拾わなければならないのだ。この作業は想像以上に困難だった。小豆は素手でないと拾えない。手が痺れる程に冷たい。時々ポケットで手を温めないと凍傷にもなりかねないのだ。一日目は半升にも満たなかった。
修二郎が差し出した一升枡をみて、
「一升なけりゃ買わねぇぞ。明日は大雪かも知れねぇな」
善治は天を仰ぐ仕草をして、ケタケタと笑った。
二日目も昨日と同じ寒さだった。それでも修二郎は鼻水を垂らしながら、必死に拾った。働いて金を得るという快感が、修二郎の五体を動かした。陽が日高の山並み沈むと、十勝平野は一気に暮色に包まれる。土と豆の区別がつかなくなる頃、かろうじて一升枡は一杯になった。こうして、善治から百円を得た時、修二郎は充実感に包まれた。働いて金を得た生まれて初めての経験だった。
一年の労働の総てが終った精か、この所春江も善治も機嫌がいい。春江は、目論見通り卵が高値で売れるので、殊更機嫌がいいのだ。現金の魅力は、これ程心を豊かにするものなのか。他の農民達は来年に蒔く種もない状態だったが、修二郎の家は卵に救われ、何とか凶作を乗り切れそうである。
冬支度が終るのを待ちかねたように、ハラハラと雪が降った。乾いて軽い雪だった。一晩に三0センチも降った。雪は冷害で沈んだ年を、忘れさせようとでもしているかのように、大地を白一色に塗り潰した。そして翌日は猛吹雪だった。
暮も押し詰まった二七日、まだ明けきらない早朝に、善治と修二郎は馬橇に小豆五俵と大豆七俵を積んで音更を目指した。
薄明りの中、鹿毛のメス馬の吐く息は白く、鬣に霜が降っていた。雑穀俵の隙間に毛布を敷き、湯たんぽで暖をとった。馬橇はギシギシと軋み冬の国道をゆっくりと進んだ。
昼近くに音更に着いた。音更は十勝で収穫された雑穀の集積地で、例年この時期は大変な賑いとなる。
ハンチングにニッカポッカの粋な出立の仲買は威勢がいい。仲買の威勢の良さに、年中畑に居る農民達は大体が寡黙で、遂気後れがする。商店街は活気に溢れ、酔声や演歌が綯い交ぜとなって街路にまで流れていた。街角で二人の白衣の傷痍軍人が、一人は蹲り、一人はアコーデオンを奏でていた。蹲り、頭を下げている軍人の右手は義手だった。低く呻くような声で、
「ここはお国の何百里、離れて遠く満州の・・・・・」
と、軍歌を歌っている。もう終戦から十数年も経っているのに、まだ戦争を引きずっている人がいるのだ。
蹲って恵みを請うている軍人は、低く頭を垂れているので、その表情と年齢を読み取る事は出来ない。二人とも体格は人並み以上である。そんな青年が日がな一日、街角で哀れみを請う姿は決してよい印象を与えるものではなかった。誰だってあの忌まわしい戦争は早く忘れたいと思っているのに、軍歌を歌う青年達は無理やり戦争を思い出させようとしているかのようである。
修二郎は戦争を知らない。修二郎にとっての戦争は雑誌の中で知り得たもので、勇ましい軍艦や戦闘機の絵を見た程度の知識しかない。
善治はその傷痍軍人の前で鹿毛を止めると、幾ばくかの小銭を缶に投げ込んだ。善治にとって戦争は、つい先程の出来事なのかも知れない。
再び鹿毛が歩み始めた時、一升瓶を片手に持った、白媚の老人が声を掛けてきた。
「親父、ありゃにせの軍人だ。構うこたぁねんだ。ほっときナ」
その白眉の老人は強かに酔っていた。ふらふらと覚束ない足取りで飄々と去っていった。修二郎はあの老人は、もう善治に声を掛けた事も忘れてるに違いないと思った。そんな老人を善治はにっこりと微笑んで見送っていた。
やがて善治の馬橇は、大きな看板を掲げた店舗の前で止まった。その看板には道東拓殖倉庫合資会社と書かれていた。善治はその店舗の中に入っていって、何やら話をしていたが、やがて店舗の社長だろうか、恰幅のいいチョビ髭の男と店から出てきた。チョビ髭の男は右手に持った銀色に輝く砂嘴をいきなり雑穀に突き刺し、小豆の出来を調べた。そして。総ての雑穀を調べた後、このチョビ髭の男は軽く首を振りながら、
「善さん、まっ、今年はこんなもんだ。これでもまだ、出来のいい方だ。だがな、買うとしてもこんなもんだぜ。それでよけりゃ置いてきな」
男は、指を二本たてて見せた。
「ああ、それでいいとも。今年はもう諦めたんでな」
善治は卑屈な笑みを浮かべて同意した。
男が店舗の内に声を掛けると、屈強な男が二人出てきて、たちまち雑穀を店舗の内に運び込んだ。
いつの間にか善治の手には幾ばくかの札が握られていた。
「さてと、商売は終わった。飯でも食うか。どうだ修、ラーメンがいいかそれとも蕎麦がいいか」 
善治は上機嫌だった。だが修二郎は、楽しい気分にはなれなかった。半年もかけて収穫した雑穀が、ものの数分で売られてしまった 事実を知って、何か釈然としないものを感じていたのだ。      
花柄のビニールクロスが敷かれたテーブルに善治と修二郎は向き合って座り、無言のまま蕎麦を啜った。冷えた体に熱い蕎麦は本当に美味かった。食堂を出て、春江から言われた通りの正月用品を買い求め、最後に木の小箱の有田みかんを三箱買った。修二郎のポケットには、木枯らしの中拾い集めた小豆の代金の百円札があった。雑貨店の店頭には欲しい商品が溢れている。奴凧、独楽、伊呂波カルタ、パッチ、ビー球、双六等々。でも、修二郎にはもっと欲しいものがあった。
(お正月が来たら帯広で本を買うんだ。字が一杯詰まった厚い本を買おう)
と、心のうちで決めていたのだ。だから今は我慢をしよう。あと数日もすれば正月だ。質は決して良くはないけれども、けばけばしい色彩の商品が店頭に溢れている。あれも欲しい、これも欲しいと思ったけれども、修二郎は我慢した。ポケットに突っ込んだ手には、百円札がしっかりと握られていた。
そんな修二郎の姿をいじらしく思ったのか善治は、
「修、何か欲しいもんあるか?」
と、修二郎に訊いた。
修二郎は反射的に首を横に振った。冷害で家計が苦しいという事を、両親の会話の中から感じとっていた。自分が欲しい物を手に入れる事は、即ち食費を切り詰めるか、誰かが欲しい物を我慢する事になると思ったからだ。
「遠慮するな、年に一回の贅沢だ。父ちゃんが買ってやる」
任せておけと言わんばかりに、善治は胸を拳で叩いて微笑んでみせた。
「ほら、これとこれが欲しいんだろ。いいだろ、おい姉ちゃんこれをくれ、幾らだ」
弁慶の絵柄の奴凧と双六を手にとって、善治は店員に金を払った。
善治は、先ほどから修二郎の目線を追っていたのだった。商品をじっと見つめていて、そっと手で触れては、もとの位置に戻す。何度か同じ動作を繰返す修二郎の姿を見て、善治はいじらしくなったのだった。正月には親友の正二と思い切り凧揚げができるし、吹雪の日は双六ができる。
奴凧に双六。この二品ほど正月を実感させるものはなかった。正月に遊ぶものとして、喉から手が出るほど欲しかった物だった。 修二郎は嬉しかった。今日、善治に連れられて音更まで来て本当によかったと思った。
あっという間だった。冬の日暮れは早い。四時を少し回った程度の時間なのに、辺りは暮色に包まれていた。善治は二合壜の酒と柿の種を買い、酒屋の女将に湯たんぽの湯を貰って、帰路についた。
雑穀を売り終えた農民達は、酒屋の前に馬を止め、コップ酒を呷って気勢を上げている。馬はハラハラと振り注ぐ小雪を背に受け、大人しく主人を待っていた。