大地に立つ(4)
市街地を抜けると、上空は満天の星空だった。今にも星がパラパラと落ちてきそうである。そんな星空に包まれて、雪の国道を馬橇はギシギシと音を立てながら、鹿毛はゆっくりと歩を刻む。辺りは銀の粉を振掛けたようにキラキラと輝いている。大地に月光が作る防風林の影が長く伸びていた。
善治は早速二合瓶の酒を飲み始めた。柿の種の袋を歯で破り、二.三粒を口の中に放り込むと、残りを修二郎に呉れた。善治は好きな浪曲を唸り、やがて寝てしまった。
鹿毛はまるで孤独を楽しんでいるかのように、同じリズムで橇を曳いていた。やがて鹿毛は馬小屋の前で歩を止めた。鹿毛の口の周りと睫毛は吐く息でまっ白に凍てついていた。馬には帰巣本能があり、手綱を引かなくても正確に塒に帰る事が出来るのである。善治はその事を知っていた。だから総ての用事が終わると、安心して眠り込んだのだった。
大晦日の日、善治は神棚を掃除を終えた後、玄関に細い注連縄を張り、柱にはイチイの枝とみかんを打ちつけた。春江は仏壇の掃除に取り掛っている。経机の引き出しの中には、様々な思い出の品が詰まっているらしく、その一つ一つを眺めていて中々仕事が先にすすまないのであった。それでも、畳を上げて埃を払い、障子の張替えも襖の張替えも終り、夕暮れ近くにようやく夕食の支度に取り掛かった。何時もとは異なる匂いが台所から流れて来る。それは大晦日の匂いだった。
「修、これを駒沢の叔父さんのとこえ持って行け。お歳暮だってナ。それと、これは保叔父さんの所えな」
駒沢の叔父は春江のたった一人の弟である。そして、保叔父さんとは、父の弟だった。駒沢の叔父は春江にとってたった一人の身内だった。春江が七歳の時、父清次郎に連れられ大津港から開拓地に入った。七分の筒袖に草鞋履き、熊避け用に腰に小石を入れた空き缶を括り付け、柏の群生地を歩いて入植した。母は既になく、新潟で食いつぶした父清次郎が逃げ込んだ先がこの入植地だったのである。その父清次郎も既になく、唯一の身寄りは駒沢の弟だったのだ。
春江は父が音更で買ってきた木箱の有田みかんと一升の酒を修二郎に託し、
「これは駒沢の叔父さんへ、そして、これは保叔父さんのとこへな。転んで一升瓶を割るなや」
と、修二郎の背に声を掛けて、再び台所に立った。父の弟の所はみかんの小箱、母の弟にはみかんの小箱に一升瓶の酒を添えた母の身びいきが可笑しかった。
やがて神棚に灯明が灯り、早めの風呂に入り、家族は卓袱台を囲んだ。春に採取して保存していた、蕨、蕗、薇の煮付け、沢庵に、かしわ蕎麦だった。かしわは、もう卵を産まなくなった鶏を善治がつぶしたものだった。肉があるだけで随分と食事が豪華になるものだった。それに正月とお盆にだけ許される米の飯が旨かった。
「ああ、一年も終ったな。来年はきっといい年になるに違いない」
善治はそれこそ天に祈るように言った。
正月が終ると直ちに、炭焼きや冷害救済事業の土木工事で働かなければならなかった。その他にも雑木林での薪の切り出し、客土に堆肥撒きなど等、休む暇もなく仕事が続く。一度冷害に遭うと、確実に借金が残る。それより生産した農産物の価格を自分で決める事も出来ない。そんなリスキーで矛盾だらけの農業に農民は何故しがみついているのだろうか。この所、ほぼ一年置きに冷害に見舞われている。善治は、今年は冷害だった労働量からみて、全く割に合わないのが農業だったので、来年は豊作に違いないと自らの心を鼓舞させている。そう思わなけやっていられないのだ。
「雷にやられた小林の一家はとうとう離農した」
「家が燃えてしまった上に、この冷害だもの、百姓をやってける筈はないさ」
「可哀そうだか運が悪かったって諦めるよりしょうがあるまい」
静かに暮れていく晦日の夜の父と母の会話は湿ったものだった。
翌日は快晴だった。一片の雲もなく、上空に浮かんだ東ヌプカウシヌプリと西ヌプカウシヌプリが伸びやかに裾を広げ、穏やかな表情で十勝の盆地を眺めていた。広大な平野のあちこちに奴凧が揚がっている。凧揚げに飽きると、双六、パッチ、かるた、と遊びには事欠かない正月だった。青年は年頃の娘のいる家に集って百人一首に興じ、花札に興じた。どこの家に行ってもザルに盛った有田みかんと、昼食には黍と白米の餅が用意されていた。
正月はあっという間に過ぎ去った。この頃から善治の腎臓は一段と悪化した。仕事を終えて家に戻ると、うつ伏せに寝て、修二郎に腰の辺りを踏ませた。痛みに耐えかね、夜中に起きだして蹲り、腰の辺りを押さえては呻いていた。そんな善治の腰を春江は夜半まで擦り続けた。善治は雨が降って農作業が出来ない日には、新興宗教に顔を出したり、占い師に見てもらったり、およそ非科学的な療法に縋っていた。
春江は冷ややかで、
「あんなインチキ占い師に見て貰わんでも、病院に行けばいいんだ」
と、眉間に皺を寄せては呟くのだった。
戦後既に十数年経った。度々の冷害に舞われながらも、暮し向きは少しずつ良くなっているように思える。けれども、反面離農者は増え、力のあるものは離農跡地を買い、近代的な農機具を購入した結果、借金も又膨れ上がっていた。近代的な農機具を購入したといっても肉体的に楽になる事はなかった。機械が遊んでいる時間が多いから土地を増やす、土地が増えたから機械を大きくすると言う訳で、借金は膨らむばかりである。何時までたっても将来に対する不安が消える事はなかった。
薪にする雑木の切り出しは結構重労働だ。そして危険を伴った。重労働の後は、善治は必ずと言ってもいいほど腰の痛みを訴えた。善治の腰を、母と交代で擦っていた時、
「父ちゃんはナ、戦争には行ったんだけど腎臓を患っていたんで直ぐに帰ってきたんだ、それが良かったのか悪かったのか、分んないけどな、随分と肩身の狭い思いをしたんよ」
善治が眠ったのを確認して春江は言った。
修二郎は春江の話しを聞いて、音更に雑穀を売りに行った折に、善治が傷痍軍人に幾ばくかの小銭を空き缶に投げ入れた意味が分かったような気がした。
ストーブの上では屑小豆が煮えている。外は吹雪で、窓枠が風でカタカタ震えていた。
春江は編みかけの手袋を再び編み始めた。
「母ちゃんは戦争があった方が良かった?それともなかった方がいいと思う?」
「戦争かい?戦争なんてない方がいいに決ってる。罪のない人が罪のない人と殺しあう。まるで地獄だ。政府はね、本当は戦いに負けているのに勝った勝ったって嘘をついて国民を騙してさ。何百万もの国民を殺しておいて尚、この戦争は聖戦だったなんていってた。本当に許せないよね。鬼畜米英が攻めて来る。奴らが来たら皆殺しに遭うっていってたんだよ。国はオレ達から食いもんを取り上げたのにさ、その鬼畜米英は沢山食いもんをくれた。一体どっちが国民の為になると思う?」
「母ちゃんはその鬼畜米英の方が好きなんだ」
「別に好きって訳じゃないけどさ」
春江は国民に多大な犠牲を強いながら、責任逃れをする国の指導者を許す事はどうしても出来ないのであった。
でも、このような怒りを無学な春江にぶっける所はなかった。無学故に自分には国政を論じる資格はないと思っている。議論をする言葉も知らない春江が国政を論じたりしようものなら、世間に嘲笑される。だから黙っている。それが悔しいのである。持って行き場のない怒りを聞いてくれるのは修二郎しかいなかった。
売り物にならない小豆は粒アンにして饅頭を作り、売り物にならない大豆で納豆を作る。綿羊の毛を紡ぎセーターや手袋、靴下を編む。居間の片隅では五十羽ほどの雛が木箱の中で飼育されている。北海道の農家は雪が消えるまでが休息の期間である。およそ半年間の雪に閉ざされた休息期間があるから、夏の過酷な労働にも耐えれるのであった。
吹雪の後は快晴になった。地平線の彼方まで白一色に塗り潰されていて、大地は午後の陽射しにキラキラと輝いている。東ヌプカウシヌプリと西ヌプカウシヌプリは上空にデンと鎮座していた。この山は並び聳えていて、二山を合せて夫婦山と呼ばれていた。
雪は止んだものの、肌を刺す冷たい風が吹いていた。
「修、小遣稼ぎがあるぞ。どうだ、手伝うか?」
善治は鋸の目立ての手を休めて言った。
「ウン、する。で、何をするの?」
「そうか、するか。防風林の間引きをして、間伐材を薪にするんだ。お前の仕事は枝払いだ」
十勝の平野に吹く風は強い。特に蒔き付け時の五、六月は風が強く、蒔き終えた種を表土ごと吹き飛ばしてしまう。十勝では馬糞風と呼ばれている厄介な風である。強風を防ぐ目的で植樹されたのが防風林である。樹種は成長が早い落葉樹と決まっていた。
馬橇を括り付け、鹿毛の尻に一鞭入れた。
「修、ここまでが家の土地で、こっちからが隣の家の土地だ。防風林が植わってるとこが丁度境界って訳だ。覚えておくんだぞ」
善治はそう言って、込み合っている場所の木の伐採を始めた。
直径が三十センチもある落葉樹を惜しげもなく切り倒した。野葡萄の蔓が絡み付いている巨木の枝払いは厄介である。先ず葡萄蔓を切り、絡んだ蔓を外してから枝を切り落とさなければならない。
修二郎は集中して鉈を振った。身体を休めると、耐えられない程の寒気が襲って来る。絶えず動いていた方が身体は温まるのだ。
善治は次々と木を切り倒し、防風林の先に到達すると戻って来た。寒風の中、修二郎は枝を払い、善治は枝を払った落葉樹を、運びやすい長さに切り揃えた。
切り揃えた丸太を馬橇に積み込もうとした時だった。
「善さん、言い難いんだが、この防風林が植わってる土地は家のもんだ。何なら、役場の地籍図で確認して貰ってもいいんだが」
突然、隣地を所有する中島がやって来て善治に言った。
「そんな馬鹿な。家の親父がアンタに土地を売る時、この防風林が境界だって確認した筈だぞ。それにこの落葉木だって、家の親父が植えたもんだ」
「確かにそうだが、地籍図ではそうはなってないんだ。防風林を含めて、つまり防風林からこっちが家が買った土地ってことになってるんだ」
「じゃ、一体どうしろって言うんだ」
善治は気が短い。忍び寄る寒さ先を急がせる。
「地代といって、現金のやり取りをするのもナンだから、そうだな、この切り倒した丸太を呉れればいいよ。そうすりゃアンタの懐も痛む訳じゃなし。一番いい方法だと思うが、どうだい」
「フン、勝手にしろ」
善治は余程腹が立ったのだろう。いいとも悪いとも言わずに家に戻ってしまった。
春江は善治から話を聞いて激怒した。地代を払う払わないの問題ではなく、木を切り、丸太にした段階で地代を請求して来た中島の狡猾さに腹を立てたのだ。
「で、アンタは納得したのかい?」
「イャ、そんなモン払うとも払わないとも言うもんか。突然遣って来て、お前、何の証拠もなく請求されたって、ウンって言えるかよ」
「そりゃそうだ。一応役場で調べた方がいいな」
「一体どうやって調べりゃいいんだ。中島の奴、中学を出てるのを鼻にかけてな、小難しい専門用語を使いやがるんだ」
「なら、信二がいい。信二に頼んで調べて貰おうよ。信二も中学を出てるし軍隊にも行ってるから、そんくれぇの事は知ってるよ、父ちゃん」
「そうだな、そうするか。信は中学出だし、確か中島より、うんと頭がよかった筈だしな」
信二は春江の実の弟である。信二を中学に上げる為に春江は犠牲となって働いた。信二は必ず納得できる解決をしてくれるに違いないと信じている。
信二は善治から地籍についての相談を受けて村役場に向かった。土地の登記簿謄本、地籍図、ついでに所有権、抵当権にいたるまで調べて善治に報告した。
「残念ながら中島の言う通りだった」
信二はメモを見ながら登記簿謄本に記載されている通り善治に報告した。
「例の防風林は雑種地になっているもんだから、中島のやつ登記する時、ドサクサに紛れて自分の所有にしてしまったんだ。地籍図も調べたんだが、確かに中島の所有になっていたよ。地番から見て確かに中島に所有権がある。客観的に見て、防風林は北風を防ぐ目的で植えたんだから、向きから見てその雑種地は中島には必要のないものだ。死んだ爺さんは人が良かったからしてやられたんだよ」
「そうだよな、あの防風林は中島にとって何の役にもたたないもな」
「汚い奴だ中島は。油断もスキもありゃしない。義兄さん、これから先、あんな薄汚い奴と隣合せで生きて行くとなると、何かと骨だな」
「全くよな。何時も緊張してなきゃなんねえとはな」
中島が分家をする時、中島の本家から土地を譲って欲しいと懇願され、善治の父は快く希望する面積を譲渡した。中学を出た中島が農業で独立するというので、餞の積りで売却してやったのだった。だが、中島にとっては必要がなく、善治の父にしても売る積りもない防風林を、善治の父の無知に付け込んで、こっそりと所有権を移転していたのだった。
「結局、落葉の木はどうなるのさ。中島の物になるんか?」
「登記上はあの防風林は中島の物だ。つまり義兄さんは人ン家の木を切ったことになるんだよ、姉さん」
「そんな馬鹿な。オレは死んだ爺さんが落葉木の苗を植えたのを知っている。爺さんが死ぬ時もあの防風林は売ったなんて聞いてないぞ。それに今までだって、あそこで薪を拾い、下草だって刈って手入れをしてたんだぞ。それを今更、俺の土地だから切った木を寄越せだと。オレは納得できねぇ」
「姉さん、仕方ないよ。法律がそうなってるんだから」
「お前がそう言うんならそうだろうけど、それにしても、木を切り倒し、枝まで払って丸太に仕上がったのを見てから、横取りするんだから、オレはその根性が許せん。切り倒す前に言いに来ればいいのに」
法律でそうなっていると言われれば返す言葉はなかった。まんまとしてやられたと知って、悔しさは募るもののどうすることもできなかった。
「学問がないばっかりに、馬鹿にされて、騙される。このまんまじゃ一生貧乏から抜け出せないな」
そう言って、春江は深い溜息をついた。
結局、防風林の間引き作業はただ働きになった。修二郎は両親と叔父の信二の会話から、アルバイト代がフィになったと覚悟はしていた。けれども、春江は(父ちゃんからだよ)といって500円呉れた。