大地に立つ(5)
雪解け時期になると、再び忙しい毎日が始まった。種子用の豆選り作業である。卓袱台に布を敷き、一粒一粒丹念に豆を選り分ける根気のいる仕事だった。種用に残しておいた大豆や小豆などは、去年が冷害だった精で質は悪く、選り分けると種として使える豆は一俵のうち半分にも満たなかった。
崖の南斜面では、福寿草が凍土を突き破り、どうみても無骨な茎とは釣り合いのとれないほど豪華な、黄金色に輝く花を咲かせた。 雪消は急速に進み、猫柳はしなやかな枝に銀の蕾を載せている。
この年、修二郎は中学校に進学した。真新しい教科書が届いた。算数が数学となり、新たに英語が加わった。詰襟の学生服や白筋の入った学帽子、運動靴等々、総てが真新しかった。革製の手提げ鞄が嬉しかった。詰襟の学生服に身を包み、皮の鞄を下げると、急に大人になったような気がした。新しい学用品を前に春江は、
「修、お前一人っ子で良かったな」
と笑いながら言った。兄弟が多い家庭では、総ての学用品を新品で揃える事は出来ない。大抵は兄や姉のお下がりだった。
入学式の日、春江は着物を着て、薄く化粧をし、唇に紅を引いた。入学式に出席する事よりも、化粧をする事が嬉しいようだった。
中学に上がって、始めて学ぶ事になった英語が、修二郎には全くといっていいほど理解が出来なかった。小学校で学んだローマ字が仇となったのか、単語がどうしてもローマ字風の読み方になってしまうのである。中間テストや期末テストは、三十点以上とれないのだ。担任の古川も修二郎の英語の出来の悪さに首を捻った。善治だけは修二郎の英語の出来の悪さを全く意に介していなかった。
「百姓に英語なんて関係ねぇ。百姓が生半可な学問を身に付けると碌な事はねぇからな」
と、カラカラ笑っている。だが春江は、
「勉強はな、全部が平均に出来なけりゃ駄目だ」
と、不満顔である。
ある日、修二郎が通う中学校にピアノが届いた。新しいオルガンでさえ贅沢だと思っていたのに、ピアノがこの片田舎の学校にまで配置されるとは、日本の経済は物凄い勢いでのびていると実感させられたものだった。新品のピアノは取り敢えず体育館の一角に置かれた。
ピアノが届いて一番喜んだのは担任の古川だった。その日から放課後には毎日のように、古川の奏でるピアノの音が体育館に流れるようになった。
放課後は、古川の弾くピアノに誘われ、一人二人と集まって来る。級友達は、折り畳んだ運動マットに座って合唱した。
「秋の夕日に照る山紅葉・・・・・・」
「埴生の宿は我が宿・・・」
そして最後には決まって、
「仰げば尊し我が師の恩、教えの庭にも早幾年・・・・」
と、女性徒などは涙を流しながら歌うのだった。
「本当は先生が、我が師の恩なんて、恩着せがましく歌わせるのはどうかと思うんだがね」
古川は少し照れたように笑みを浮かべて言った。
「そんな事ないよ、先生が尊いかどうかより、ただ単にいい歌だから歌うんだよね、皆」
「コイつめ!よく言ってくれるよ」
高田順子の言葉に、古川は片手を上げて殴る振りをした。古川の癖だった。
ドッと笑いが起きる。既に西日が日高の山並みに隠れようとしている。運動部の部活も終わり、山間の学校は静寂に包まれた。
「修、一緒に帰ろ」
高田順子は修二郎を誘った。一緒に帰るといっても、二00メートルも行くと右左に別れなければならない程の距離である。でも修二郎は順子に誘われたことが嬉しかった。
順子が修二郎に誘いの声を掛けたと殆んど同時に、
「修、ちょっと話がある。職員室に来てくれ」
と、古川も同時に修二郎に声を掛けた。古川と順子はお互いに顔を見合わせた。順子は軽く頷いて、
「修、じゃ私は一人で帰る。バイバイ」
軽く手を振って帰って行った。修二郎はたとえ一緒に歩ける距離が二00メートルとはいえ二人で歩きたかった。
「修、引き止めて悪かったな」
古川は修二郎の胸中を察したのか、詫びて、
「実は、これは俺が中学から大学まで使っていたものなんだが、これ、修にやるよ」
と、古びた辞書を差し出した。それは英和辞典だった。
「でも、こんな大事なものを」
「良いんだ。もう俺は新しい辞書を買ったから。捲って見ろよ、どのページにも必ず一本は赤線が引いてある筈だ」
修二郎は言われるままにページを捲ってみると,確かにどのページにも単語の下に赤線が引いてあるようだった。
「英語はな、単語を暗記するのが第一、文法なんて二の次だ。その辞典の赤線の引いてある単語を暗記しろ。そしたら英語の教師になれるぞ」
古川はニッコリと微笑んで言った。古川は修二郎が英語の出来が悪いのは、単語を覚えようとせず、理解しようとしているのではないかと思ったのである。頭のいい修二郎は理解力がある。だから小学校までは暗記なんかしなくても理解力と興味だけで乗り切って来れた。しかし中学では、暗記をし、覚えこまなくては試験でよい点はとれないのだ。
「兎に角、単語を暗記してみな」
足飛びに秋が来た。今年の夏は好天が続き、作柄もよく、豊作の兆しが見てとれる。
修二郎は久しぶりに鹿追の市街地に行った。どうしても欲しい本があったからだった。それと順子が持っている英語の単語カードも欲しかったのだが、修二郎の期待を裏切って、鹿追では欲しかった本も単語カードも手に入れる事は出来なかった。でも、気落ちはしたものの、久しぶりに賑やかな町並みを歩いて気が晴れた。街中を歩いてみても、冷害に打ちのめされた昨年とは大違いで、どこか活気に満ちていた。それにしても、つい数年前までは農協の前や、拓殖鉄道の駅舎の前などは、馬車が行き来していたものだが、今は三輪トラックや小型トラックの数の方が増えているようである。確実に経済は上向いている。街行く人の表情にも、将来に対する自信と余裕に満ちているようである。
修二郎は好奇心に駆られ普段は足を踏み入れた事のない繁華街に向かった。
本当は五時丁度の拓殖バスに乗る積もりだった。だが、修二郎は何処となく浮かれ、高揚した感情の高まりをおさえ難くて、もうひとバスあとに帰る事にしたのだった。鹿追の街から修二郎の家までバスで十五分ほどだが、次の帯広行きのバスの発車時間は二時間もあとになる。それでも、二時間位はあっと言う間に流れてしまうような気がした。
繁華街は、天婦羅蕎麦の臭いや、ラーメンの臭い、様々な臭いが綯い交ぜとって路地に漂って来る。それは夕刻のすきっ腹に染み入る魅惑的な臭いだった。修二郎はラーメンを食べたいと思ったが、一人で、しかも始めての店に入る勇気はなかった。
わざとらしく、胴の部分を半分裂いた提灯をぶら下げた三好食堂は、大勢の酔客で賑わっていた。大声で自分をアピールする声と、空々しい女の甲高い笑い声が空しく響いている。この繁華街一帯は平和だった。この平和のさんざめきは、既に開拓時代の野心は薄れ、この十勝の大地にしっかりと根をおろした住民の安住の地が奏でる音だった。ラーメンが食べたい、そう思って修二郎は三好食堂の前に立った。が、中々戸を開けて中に入る勇気はなかった。暫く躊躇していた時、突然酔客のダミ声が途絶え、目の前の戸が開いて中から大きな塊が転げ出て来た。
「テメエなんぞの来るとこじゃねえんだよ」
白い前掛けの男が、その黒い塊に思い切り蹴りを入れた。そして白い前掛けの男は黒い固まり目掛けてザルを投げつけた。そこから ぱっと小魚が散らばった。