大地に立つ(6)
(イモンコだ)
修二郎はその黒い塊が誰なのか直ぐに分かった。
イモンコは、修二郎の家の近くを流れる然別川のほとりに古くから住んでいるアイヌの酋長である。そのイモンコが街まで小魚を売りに来たのだ。修二郎の家にも度々小魚を売りに来た。それも最近は地元ではドンコと呼ばれるカジカだったが、それをザルに入れ売りに来たものだった。
修二郎はかってはよくイモンコのチセ(家屋)を訪ね、野うさぎの捕り方や川魚の捕り方を教えてもらっていた。無口だが温厚な老人だった。修二郎は咄嗟に料理人であろう白い前掛けの男を突き飛ばし、イモンコを抱き起こした。その修二郎の背中を料理人は思い切り蹴飛ばした。修二郎はつんのめるように前に転がり、路面に強かに顔面を打ちつけた。
「このガキが、不良みてえにこんなとこをうろつきやがって」
「そだそだ、全く最近のガキは親の手伝いもせずこったらとこうろついて、まったく碌なもんじゃねえ」
「その爺の隠し子じゃねえのか」
どっと笑い声が起った。いつの間にか大勢の酔客が修二郎とイモンコの回りを取り囲んでいた。恥ずかしさはなかった。ただ無性に腹がたってならなかった。
修二郎は地面に散らばった小魚をザルに拾い集めて、イモンコを促しバス停に向かった。イモンコは修二郎からザルを受け取ると、
「ワシはバスには乗らん」
そう言って歩きはじめた。修二郎にはイモンコの気持ちが痛いほど分かっていた。イモンコがバス賃を持っていない事は百も承知だった。だから修二郎はイモンコのバス代を出す積もりだったのだ。けれどもイモンコがバスに乗りたくないと思う気持ちは他にあったのである。乗客の好奇な目に晒される事が嫌だったし、バスに乗っている間の緊張感が耐えられないのだ。
修二郎はイモンコと連れだって歩いて帰ることにした。
二人は暫く無言で歩いた。もう満天の星空である。ゾクリとする寒気が足元から這い上がって来る。清澄な空気の冷たさは確実に晩秋の気配だった。
時折イモンコは目頭を拭っていた。惨めな自分が情けなかったのか、時代の流れに取り残された哀れさなのか、それとも誇り高いアイヌの酋長としてのプライドは、和人の社会では嘲笑されズタズタに切り裂かれるという現実を、どのように受け止めればよいのかわからなかったのだ。
イモンコは寡黙だった。イモンコは今、過去に居た。過去の思い出の中に身を置くことが、もっとも安らぎを覚えるのだ。
篝火が目蓋の奥で燃え盛っている。仕立て下ろしのアッシ(厚司)に蝦夷後藤の太刀を佩き、ウタレ(同胞)の前に立つかつての姿を思い浮かべていた。華やかな過去の栄光の思い出に浸っている時が、イモンコの至福のときだった。
「昔は良かった。何一つの悩みはなかった。そして豊かだった。欲しいものは山や川で何でも手に入った。皆助け合ってナ、苦しさも何もなかった」
イモンコはポツリと呟いた。恐らくイモンコの頭の中は、昔の平和な生活の思い出が、走馬灯のように駆け巡っているのだろう。
平和で平等で幸せな生活を奪ったのは一体誰だ。アイヌに一体何の罪があったのだ。自由の大地を奪ったのは誰だ。修二郎は思った。少年の純粋な正義感だった。正直なところ世の中の仕組みは良く分からない。家庭に電気が敷かれ、それに伴い電化製品が次々と店頭に飾られるようになった。働いて幾ばくかの現金を得たと思ったら、何時の間にか、その現金は電化製品に変わっている。一見文化的な生活を享受しているように見えて、実はお金中心の世界に嵌め込まれてしまっているのではないだろうか。結果、人々の希望は金持ちになることであり、清貧でも崇高な人間は、変人で馬鹿な生き方をしていると嘲笑される。今はそんな世の中なのだ。でも、そんな日本はきっと国際社会に取り残され、軽蔑されるに違いない。修二郎は前を歩くイモンコの背を見ながらそう思った。
数日の後、修二郎は久しぶりにイモンコのチセ(家屋)を訪ねた。しかしそこには既にイモンコの姿はなく、生活の臭いもなかった。部屋の中には家財道具は一切なく、家の裏手には、不用品を燃やした跡があった。家財道具が運び出され、しかも不用品を燃やしたとなると、人知れずどこかに旅立ったのであろう。とうとう鹿追の街にアイヌ民族はいなくなってしまったのだ。
修二郎はそのほうが賢明だと思った。どのように考えても、この鹿追にイモンコの身の置き所はなくなっていた。あの誇り高いイモンコが、蔑みを受け、笑いものにされてまでここに留まらなければならない理由は何一つないだ。アイヌの誇りは決して和人の誇りと同じではないのだから。
収穫を目前に控え、どこの農家も刈り取り用の鎌を研いだり、新しい地下足袋を揃えたりと、それなりに忙しい毎日だった。それにしても、こうも好天気が続くと、早霜の心配があった。放射冷却というやつで、地表の暖気が夜間、上空に抜けてしまい、急激に大地が冷えるのだ。霜が降りると、作物は一気にやられてしまう。そんな心配を抱えながらも、一方では、少しでも作物に太陽の光を浴びさせ、未熟な実を完熟させて収量を増やしたいと願い、刈り入れ時期を計りかねていた。
修二郎は、暇な時は殆ど毎日のように、古川から貰った英語の辞書を括った。古川が言ったように、どのページにも必ず、単語の下に赤い線が引いてあった。修二郎はその赤い線の引かれた単語を覚えれば、英語の実力は古川と同じになるのだと信じていた。登校や下校の時、単語を繰り返し呟き、頭に叩き込んだ。今まで、暗記という勉強をしたことの無い修二郎にとっては、暗記は苦痛以外なにものでもなかった。励みと言えば、古川の期待に応えたいという一念だった。
期末テストが終り、翌日から答案用紙が返却された。英和辞典をくれた古川の期待に応えることができたかどうか不安だった。各自名前を呼ばれると、教壇の前まで答案用紙を取りに行く。修二郎の名前が呼ばれた。
「ハイ。」
と、応えて席を立った時、古川と眼が合った。古川はニッコリと微笑んで、
「修二郎頑張ったな」
そう言って、答案用紙を返してくれた。
修二郎の胸は早鐘のように高鳴った。直ぐに答案用紙を開いて見た。赤字で九八点という信じられない数字が目に飛び込んできた。回答の中で唯一、三角の記しが付いてる箇所以外、すべてにマルが付いている。三角は古川のサービスに違いなかった。五点の配点の所を古川は三点つけてくれたのである。
修二郎は、天にも昇る気持ちだった。答案用紙を高々と差し上げ、ワーっと叫びたい衝動に駆られていたそっと古川を見ると、ニコニコ笑っていた。修二郎の取った得点は、即ち古川の得点でもあった。古川にとっては、教育者として、教育方針がピタリと一致したことが満足だった。
走るように自席に戻って、再び答案用を開いて見た。間違いなく九八点だった。未だ心臓が高鳴っている。
「エーと、英語のテスト結果を発表します。平均点は五八点、中間テストより五点下がった。そろそろ受験勉強に取り掛からなければならないのに五点も下がっては話にならんぞ。もっと頑張らないとな。そして今回のトップは、修二郎、九八点」
古川がメモを見ながら成績発表を終えた時、どっと喚声が上がった。修二郎は英語が出来ない、という事はクラスの全員が知っていた。それが突然トップに踊り出たのだから驚くのも無理はなかった。
「修、ウソでしょ、ねえ見せて、見せて」
順子が満面に笑みを浮かべて近寄って来た。心から祝福し、喜んで呉れている笑みだった。
順子の行動に釣られ、クラスの全員が修二郎の席に集まって来て、ワイワイと大騒ぎになった。そんな様を、古川は満足そうにニコニコと眺めているのだった。