大地に立つ(8)
駒沢の農地は人手に渡り、敏江は幼い二人の子供を連れて帯広へ去った。善治は、二~三台の農機具と二歳のメス馬を買い取っただけで、駒沢の農地は引き受けようとはしなかった。春江が修二郎に跡継ぎをさせるのなら、駒沢の農地を買うべきだと主張したが聞き入れなかったのだ。春江は七歳の時から父や弟信二と切り開いた、汗と血の染み込んだ実家の土地が他人に渡る事を嘆いた。善治は、
「農地を広げ、トラクターを買って、農機具を買って、そったら事してたら借金まみれで浮かばれないぞ」
との理由で、春江の希望を叶えようとはしなかったのだ。善治は農地が広がるに連れ、借金も又、天文学的に膨らむ事を恐れたのだった。体格も良く、健康であれば考え方も変わっていたのかも知れない。それに善治は身体に自信がなかった。もし、自分に何かあった時、春江と修二郎が生活に困まらないだけの財産は残してやりたい。だから大きな借金だけはしたくなかったのだ。
「俺だって明日どうなるかも知れねぇんだ。危ねえ橋を渡るわけにゃいかねぇ」
「学問を積んでも積まなくても、死んでしまえばお終いだ」
葬式の後、善治は何度も呟いた。信二は旧制の中学を卒業していた。善治は尋常小学校しか出ていない。善治は中学出の義弟、信二が自慢だった。それなのにこの世に何かを残すこともなく、あっけなく死んでしまった。信二の一生は何だったのだろうと思う。そして人の一生とは何だろうとも思う。馬車馬のように働いて、必死に子供を育てて、そして死んで行く。それが人生と言うものなのだろうか。
この頃、修二郎の心は鬱勃として晴れなかった。同級生のうち六割は高校への進学を目指している。もう既に受験勉強を始めていた。就職する生徒はボツボツ就職先が決まり始めている。就職先の殆どが東京や川崎だった。
「俺は東京の印刷屋に決まった」
「私は東芝の工場。テレビの組み立てなの」
等々。もう現金を懐に銀座を颯爽と闊歩する自分の姿を思い描いていているのだった。何しろ経済は右肩上がりで、中卒でも、所得は下手をすれば農家の一家族が総出で働いて得る所得並みの賃金なのだ。社会が求める人材は小難しい理屈を並べ、高賃金を要求する高学歴の人間よりも、比較的低賃金でも額に汗して働く人材を求めていた。そして世中の風潮は他人よりも多くの所得を得る人間が尊敬され、そして妬まれるのである。
一方、進学組は家計に余裕がある家庭で、主には農家の次男、三男だった。それは裕福とは言え、次男三男に分け与える財産(農地)はないので、せめて学歴を財産として身に付けさせたいとの考えからだった。何れにしろ、親が学歴を重要視するか、手に職を持つ事を重要視するかによって、各々の進路が決まって行ったのだ。
修二郎は進学したかった。より多くの知識を得たかったし、自分の能力がどの程度のものなのかを試したかった。学歴が無いばかりに、飛躍のチャンスの芽を自ら摘まざるを得なかった善治や、春江の姿を見ているだけに、せめて、社会の中で堂々と論陣を張れるだけの知識と教養を身に付けたいと思っているのである。だが、修二郎の進学は無理だった。善治の持病は悪化の一途を辿っていたし、経済的に余裕もなかった。一刻も早く両親を助けなければ、早晩家計は破綻しかねないのだ。
ほとんどの生徒は帰宅し、何人かが体育館で雑談に興じているほかは、校舎に人影はなかった。教室の中で順子は一人テキストを開いていた。
「順、志望校は決まったか?」
「未だ。修は?」
「俺、進学はしないよ」
「え、どうして」
「親父が病気だし、第一、高校へ行く金もないからさ」
修二郎は別に何でもないという風に、努めて明るく、そして軽く言った。重苦しい沈黙が流れた。順子は、修二郎は当然進学するものだと信じていた。学年でもトップの成績だったし、進学組の補習授業も受けている。そして何よりも順子は修二郎と同じ高校へ進学したいと願っていた。
「修のように出来る人がどうして進学を諦めちゃうの」
「俺なんて出来ないよ。英語だってまだまだだしね。高校へ行ったってついていけなよ」
「たった三年の高校生活なのに何とかならないの」
順子は(俺なんて出来ないよ)と言った修二郎の言葉を聞き流して言った。学年トップの修二郎がいう言葉ではないし、その言葉の裏には、進学できない悔しさが潜んでいると見抜いていたのだ。
「修、受験までまだ時間はあるわ。きっと何とかなる。だから諦めないで一緒に勉強しよう。修が進学しないんだったら、私は就職する」
修二郎は、順子が、修が進学しないなら私は就職する、と言ってくれた事が嬉しかった。
「馬鹿な事言うなよ、勿体ない」
「私古川先生にお願いしてみる。絶対に何か方法がある筈よ」
「止めてくれよ、古川先生に言ったってどうしょうも無い事だし、仮に奨学金を貰ったとしても、病気の親父を抱えて母ちゃんだけでは農業は出来ないんだ。もうどうしょうも無いんだ」
修二郎はどうにもならない現実を、徒に捏ね回すような不毛の議論は避けたかった。胸の奥底に淀んでいる苦しさを暴き出してみても、解決できる問題ではないのだ。
「でも絶対に諦めないで。絶対に」
順子は叱るように言った。
先ほどまで西日がグランドに大樹の影を落としていたが、大地を焦がした強い陽射しが日高の山並みに遮られると急速に暮色が辺りを包み込んだ。
時間が止まって欲しいと思った。このままずっと中学生でいたいと願った。でも時間は容赦なく進んでいく。修二郎は暗闇に閉ざされた未来に向け、止めようのない時間に押し流されているような不安を覚えながら、世の中の総てのもの、それは政治体制であり、建物であれ総てを滅茶苦茶に破壊したいという衝動に駆られていた。
修二郎には受験に向けての補習授業を受ける意味はなかった。受講中も空しさだけが残り、少しも身が入らないのだ。ただ、一時でも順子と一緒にいたい。順子と同じ空気を吸っていたい。そんな切ない思いが、補習授業を受ける理由だった。
古川は最近何事においても投げやりな態度を見せる修二郎が気になっていた。成績も下降気味である。
「修、最近集中力が無くなっているようだが、何かあったのか」
「別に普段と変わりませんけど」
「成績も下降気味だし、こんな事では高校に行けんぞ、もっと気合を入れんと」
「俺、進学しません」
「何?だってお前、補修授業に出てるじゃないか」
古川は修二郎が放課後の補修授業には必ず出席しているので、当然高校へ進学するものだと思っていた。経済的に酷く困窮している風にも見えないし、難関高にも充分に進める学力を持っている。古川には修二郎が進学しないという理由が分からなかった。
「充分に合格出来る力を持っているのに、何故進学しないんだ?」
「俺、勉強はしたくないし、それに中学を卒業したら農業の跡を継げって父ちゃんに言われてる。父ちゃんは百姓に学問はいらないって言うんです」
「そんな馬鹿な。学問は身に付けて邪魔になるもんじゃないぞ。それに農家の跡取りだって、これからは学問がなければやって行けない時代になる。だから進学しろ。悪いことは言わん」
修二郎だって泣きたい程進学したいのだ。けれども、進学出来ない理由があるのだ。ふと、古川に縋りたいと思った。でも例え古川に縋っても、頑なに修二郎の進学を拒む善治の説得は難しいと思った。
翌日、古川は順子を職員室へ呼んだ。修二郎は中学を卒業したあと農業を継ぐと言っている。でも修二郎の本心が見えないのだ。仲のいい順子なら何かを知っていると思ったからだった。
「先生、修は絶対進学したい筈です。私には親父は身体が弱いし、お金もないから進学は出来ないって言ってたけど、お父さんの病気は手術をすれば治るし、お金だって、余裕のある家なんてそんなにないんだから、絶対に何とかなる筈です。修のお父さんが百姓に学問はいらないって意地を張ってるだけなんです。先生、お願いです。修のお父さんを説得して下さい」
順子は懇願した。修二郎と一緒の高校へ進学したい。それが順子の願いだった。その為に一生懸命に勉強していたのだ。
「気持ちは分かるが、家庭の事情だってある訳だから、先生だって修のお父さんにこうしろとは言えないぞ。兎に角先生が家庭訪問して、修のお父さんの話を聞いて見るよ」
「お願いします」
順子は深々と頭を下げて戻って行った。
順子の後ろ姿を見送りながら、古川は矢張りそうだったのかと得心した。修二郎は高校へ行きたいのだ。親に負担を掛けたくないので、自分の本心を隠していたんだ。
数日の後、クラス全員にプリントが配られた。家庭訪問の知らせだった。修二郎の家は日曜日の午後三時、正一の家は午後四時となっていた。善治は修二郎が持ってきたプリントを見て、
「日曜日の午後三時っていやー一番忙しい時だ。何て又この糞忙しい時に家庭訪問なんだ」
なんて悪態をついていたが、当日になると二時半には畑から上がってきて、春江に
「ちゃんと駄菓子位は用意してるんだろうな。本当はよ、仕事が終わった後だとよかったんだがな。酒でも飲んでゆっくり話したかったもんだ。何しろ何時も修の奴が世話になってるんだから、それくれぇのこたぁしてやらんと義理がたたねぇ」
なんて、何時になく饒舌だった。
「何言ってんだよ。心にも無いこと言って」
春江も何時になく落ち着きがなかった。善治も春江もこの時期に担任の古川が来る目的は、卒業後の進路についての相談ということ位は分かっている。今日で修二郎の進路が決まるのだ。