大地に立つ(9)

プリントで予告されていた通りの時間に古川は来た。外は降る蝉時雨である。古川は庭の隅に自転車を止め、汗を拭い、一つ大きく深呼吸をしてから訪いを告げた。
簡単な挨拶を済ませ、気乗りのしない四方山話しの後、古川は切り出した。
「実はそろそろ三年生の進路を決めなければならない時期となりましてですね、一応、修二郎君は家業の後継ぎが希望となっておりますが、ご両親としてはどうお考えでしょうか」
「いや、そうですか。修は後継ぎをするっていってるんですか。オレも全くその通りでして、今から修の卒業を楽しみにしてるんですよ」
「しかし、私はですね、進学を勧めたいのですよ。というのも修二郎君は学年はもとより、町内の全中学校でもトップクラスの成績なんですよ。だから中学で終らせるのは如何にも勿体無いと思うんですが」
「何ね、修の奴、成績がトップクラスって言っても世間は広い。高校に行けば修くれえの学力なんて並ですよ、先生」
善治は修二郎が全町内の中学校の中でもトップクラスの学力だと知らされ、流石に嬉しいらしく満面に笑顔を作っていた。
「お父さん、これからの農業は学問が必要です。そう思いませんか」
「先生、農業なんてモンに学問は必要ありませんよ。農業ってモンはお天とう様次第なんだ。学問があったっていい作にはなりませんよ」
善治はあくまでも頑なだった。春江は流し台で洗い物をしながら、古川と善治の会話に耳を欹ていた。
(このままでは修二郎の進学の道は閉ざされる)
そう思った瞬間、古川の前で手をついていた。
「先生、ウチの修二郎を上の学校へ入れてください。何とかお願いします」
善治は突然、春江が二人の会話の中に割り込んで来たので面食らった。
「先生、学費ならオラが何とかする。どんだけ骨身を削って稼いでも、たった三年辛抱すればいいんだ。オラ死ぬ気で働く。だから、な、父ちゃんも修を高校へ上げてけれ。金ならホラこんなにあるんだ。無けりゃトリをもっと増やして卵を売ればいいんだ」
春江の手には数枚の千円札が握られていた。
「馬鹿たれが。ここぁお前の出て来るとこじゃねぇ。引っ込んでろ」
「いや、引っ込まねえ。こったら事で修の一生を潰す訳にはいかねぇんだ。オラ学校に行ってないばかりに敬語の使い方も知らねえ。物事の道理も分からん。修にはそんな惨めな思いをさせたくねぇんだ」
善治が何を言おうと春江は怯まなかった。隣の部屋で修二郎は身を固くして聞いていた。
居たたまれなかった。そっと部屋を抜け出し、馬小屋へ行った。三頭の馬がジッと修二郎を見ている。修二郎は燕麦を柄杓で掬って、三頭の馬の飼葉桶に等しく分け与えた。飼料庫の前に腰を降ろして古川の帰りを待った。古川の前で言い争う善治と春江が恥ずかしかった。
(仕方ないさ、親父は病気だし、金もなければ進学なんてとても無理なんだ。でも、受験だけはしよう。トップクラスの高校に受かれば、俺のプライドの少しは癒される。その誇りを支えに百姓をしょう)
修二郎は春江が進学に拘る理由が分かっていた。七歳の時父清次郎に手を引かれ、柏林の原生林に入植した。新潟から北海道の大津の港に上陸し、汽車と徒歩でこの地に入植したのだ。爾来、常に清次郎の罵声を背に受けながら、働き詰の青春だった。当然学校にも行かせて貰えず、巨木の陰に身を潜めて、楽しそうに登校する級友を見ていたという。どんなにか学校へ行きたかった事だろう。春江はそんな惨めで悲しい思いを修二郎には絶対にさせたくないのだ。
玄関の戸が開く音がした。
「先生、どうも済みません」
「おおっ、修、いたのか」
「ハイ、少し話しは聞いてました」
「別に謝る事はないさ」
古川は自転車を押しながら言った。
「中々難しいな。でも修、絶対に進学を諦めちゃいかんぞ」
「先生、俺もういいんです。最初から働く積もりだったから」
「でも、進学はしたいんだろ。順子から聞いたぞ、それにな、母さんが君を進学させようと必死だった。希望を持つんだ」
古川の励ましの言葉に涙が溢れた。
「諦めちゃいかん。きっと時が解決してくれる」
古川は修二郎の肩をポンと叩いて、これから正二の家へ家庭訪問に行くと告げて自転車に乗った。
放課後、親友の正二が修二郎を校舎裏へ誘った。そこは足元からほぼ垂直に削られた崖になっていて、東ヌプカウシヌプリ(夫婦山)が真正面に見える絶景の場所だった。
「修、お別れだ。俺ン家の家族全部で東京に行く事になった。だから皆とお別れなんだ」
正二はじっと夫婦山を見ながら、搾り出すように言った。声は掠れ,微かに震えているようだった。
「何故だよ。で、何時なんだよ」
「直ぐだ。今度の夏休みだと思う。親父は随分前から考えていたようなんだけどな」
「東京って、お前」
修二郎は余りに突然の事で言葉も出なかった。
「親父の弟が東京で八百屋をやってんだ。それでその店を手伝うことになったんだ」
「だってお前、お前が卒業してからでも遅くないだろ」
「莫迦言え。俺ン家は六人も兄弟がいるんだぜ。一々兄弟の卒業を待っていたら、何時までたっても東京には行けんだろ」
「そうか。それにしても思い切ったもんな」
「ああ、親父は百姓に見切りをつけたんだ」
話している間、正二は修二郎の目を見ようとはしなかった。東京に行く事が不安でならないのだ。
正二の家は戦後に鹿追に入植した開拓農家だった。もともとは東京の出身で、戦争から戻り、ここ鹿追に入植したのだった。入植したものの、豊穣の土地は既に開拓されつくされており、残された土地は谷地坊主だらけの湿地で、雑木も繁らない荒地だったのだ。しかも、正二の父に農業の経験はなかった。悲惨な状況の中、夢を追っての生活には限界があったのだ。
「正二とは家も近いし、死ぬまで一緒だと思ってたのにな」
「俺もそう思ってた。けど親父が決めた事だから、仕方ないんだ」
正二は足元の小石を思い切り蹴飛ばした。小石は放物線を描いて、崖を転げ落ちて、やがて笹薮に消えた。やるせない気持ちに踏ん切りをつける正二らしいやり方だった。
「で、お前、その事古川先生に言ったか?」
「いや、まだだ。親父はそれとなく先生に言ったのかも知れないけど、俺はお前には一番先に言いたかったんだ」
「そうか。引越しまでには余り時間がないんだろ?」
「ああ」
「早目に言った方がいいよ」
「ウン、そうする」
修二郎には、正二に掛ける言葉が見つからなかった。修二郎と正二は長男だし、家族を背負って行くという責任感があった。一生家業から逃れる事は出来ないと思っていた。だから二人は死ぬまで農業を続けるものだと思っていた。修二郎は、正二が居るから農業を継いでも、協力しながら何とかやっていけるものと、漠然と考えていた。それだけに、正二の転居はショックだった。
修二郎は教室に戻ると、直ぐに順子に正二の転校を伝えた。
「送別会をしなくちゃね」
順子は暫く黙っていたが、寂しそうにポツリと言った。引き止めたくもどうしょうもない事なのだ。順子も正二の家庭の事情を知っているだけに、何を言っても気休めにしかならないと思っているのだ。
「ああ、盛大にな」
「ところで、正ちゃんが東京へ転居するって、古川先生は知ってるの?」
「正二が今日にでも報告するって言ってた」
「そう。それじゃホームルームの時間には発表するね」
「多分ね。先生の発表があってから送別会の相談しょうか」
「そうだね。それがいいね」
すべての授業が終わったあと
「正二が家庭の事情で、東京に転居する事になった。残念だけど、家庭の事情だから仕方ない。正二には、東京に行っても元気で、そして皆の事を忘れないで立派に生きていって欲しいと思う」
古川は、しっかりと勉強をして欲しいとは言わなかった。しっかり勉強しろと言うよりも、立派に生きろと言うほうがはるかに言葉に重みがあった。古川らしい餞の言葉だった。
放課後、順子は、正二の送別会は皆で然別湖までサイクリングして、白雲山に登山しようと提案した。鹿追から然別湖までは二十キロもある。そこから白雲山の登山となるとかなりの強行軍である。順子の提案にクラスは沈黙した。
「順、自転車で然別湖までサイクリングしてから、白雲山の登山となると、一日じゃ無理だよ」
修二郎はクラスの雰囲気を読み取って発言した。
「私は正ちゃんには死んでも忘れない思い出を作って貰いたいの」
「でも、そこまで無理しなくてもいいんじゃないか」
修二郎は逆らいたくはなかったが、順子の提案は余りにも無理があった。
「順、有難う。俺は、皆とサイクリングがしたい。無茶苦茶苦しいほうが絶対に楽しいし絶対に忘れないと思うんだ。お茶やジュース飲んで、冗談言って別れるより、汗かいて綺麗な十勝の風景を、そんな綺麗な風景を皆と一緒に見て、胸に焼き付けたい。だって、この鹿追は俺の故郷だからな」