大地に立つ(10)
正二は立ち上がり、何か言いたげな修二郎を目線で制して言った。この一言で決まった。
日時は来週の日曜日午前七時集合。集合場所は拓殖鉄道、鹿追駅前と決まった。それは、夏休み初日でもあった。
当日、古川クラスの十七名全員が時間通り集まった。
「修、今日のサイクリングのリーダーをやって」
「俺が?」
「そうよ、修は正ちゃんと仲がいいし、冷静沈着なところがあるから。ね、皆、異存はないでしょ」
「異議なーし」
「よし、分かったよ。その代わり絶対俺の命令には従うんだぞ」
「あら、急に威張りだしたわ」
順子のおどけた言い方にどっと笑いが起きた。
その日は快晴だった。朝の七時とはいえ、もう汗ばむ程の気温である。
「ヨシ、行くぞ。瓜幕の市街で一服だ」
クラス十七名全員が揃ったのを確認すると、修二郎は先頭に立って力強くぺダルを漕ぎだした。
農協倉庫と拓殖鉄道駅舎の間を抜け、一キロ程北に進むと、東西に延びる幅の広い国道ぶつかる。東西に一直線に延びる国道の先が然別湖である。スタート時点では元気よく冗談を飛ばしていたが、五k程進むと、急に口数が少なくなった。何しろ、然別湖までは緩やかながら上り道である。次第に吐く息も荒くなった。時折トラックが砂埃を巻上げながら走り抜けて行く。その度に全身に砂埃を浴びた。
「皆、車に気を付けろよ。一列に並べ」
修二郎は時々後ろを振り返って声を掛けた。少しでも気を抜くと、横に広がって道路を塞いでしまうのだ。
一行は湖畔の登山口に自転車を乗り捨てて一気に白雲山の頂上を目指した。登山道は比較的緩やかで、ピクニック気分で登る事が出来た。
「ワー膝がガクガクって笑ってる」
「膝が笑う程長い脚かよ」
「本当にな。美知の脚は尻にくっいてるみてえだぞ」
「何よ、失礼ね。アンタなんて脚の間から富士山が見えるくらい隙間だらけじゃない」
「ああ、苛めだ。美知が俺を苛めた」
等々と冗談を飛ばし、笑ったり奇声を上げたり、賑やかに頂上を目指した。
白雲山の頂上に立った時、眼下に広がる絶景に全員が息を呑んだ。濃緑色の湖が足下から茫洋と広がり、湖の最深部は微かに靄に包まれている。湖の回りはこれも濃緑の原生林に覆われ、人畜の影もなかった。
「然別湖は七つの湾があるんだぞ。どういう訳か分からないけど、偶数湾、つまり、二の湾、四の湾、六の湾でオショロコマが釣れるんだ。奇数湾は全然釣れないんだぞ」
正二が自慢気にいった。
「お前何でそんな事知ってんだ」
「父ちゃんが釣り好きで、冬は毎年釣りに来てるんだ」
順子は一人同級生の輪から離れ、ジッと北の方を凝視していた。
「順、どうしたんだよ。何か気に食わない事でもあったのかい?」
修二郎はと北の方をみつめて佇んでいる順子に声をかけた。
「修、私、あの雲になりたい」
「何言ってんだよ、子供みたいに。そろそろ飯にしょうや」
修二郎を無視して、順子の目線は大雪山の彼方に注がれていた。青い空には綿毛のような白い雲、眼下には濃緑の湖面が広がっている。さざ波の立つ湖岸付近はキラキラと波頭が陽に輝いている。順子にはそこが現世とは思えなかった。天国はまさにこのような世界に違いないと思った。それにしても、修二郎の夢のない物言いに腹が立つ。
(修の馬鹿。本当に夢も希望も何も無いんだから)
怒りに頬を膨らませて順子は級友の輪の中に戻った。勿論、修二郎には順子の胸の内は分からない。
「俺、東京に行っても高校には行けない。何とか定時制くらいは行かせて貰いたいけど、無理だろうな。兎に角先の事は分からないけど、俺、進学が出来なけりゃ徹底的に金儲けをしてやる。俺、本当に貧乏は嫌だ。貧乏人は世間に馬鹿にされ、立派な事言ったって嘲笑されてさ。だから学歴の無いやつは徹底的金儲けしないと、高学歴のやつと対等にはなれないんだ」
「私はそんなの嫌だな。金、金で一生を終わるのは惨めじない」
「甘いよ。俺は知ってんだ。どんなに陰口を叩かれていたって、金持ちの前で貧乏人は、愛想笑いをして、決して逆らわないって事をさ」
正二と美知は真剣に議論をしていた。
「ネ、修、修はどう思う。正ちゃんと美知の考え、どちらが正しいと思う?」
順子は修二郎がどのように考えているのか興味があった。
「俺か、俺は正二の考えが正しいと思う。美しい事いったって、この世では生きて行けない。そりゃ誰だって清く美しく生きたいとは思うよ。だけど、そんな夢みたいなこといってたら、生きてなんて行けないだろ」
「修、それって本心なの?本当にそう思ってるの」
普段、感情を露わにする事の少ない順子が声を荒げた。絶景に心を奪われていた順子は、修二郎の言葉に落胆した。
修二郎は黙っていた。正直自分にはよく分からないのだ。夢を追い、美しく誠実に正直に生きる事が正しいと頭では分かっている。けれども現実は違うと思うのだ。
「修だって、俺だって美しく生きたいと思っている。そうだよな修。けど世の中を見てみろよ、政府はどんなに国が危なくなっても、絶対に安全だと嘘をつく、国民かパニックになるから本当の事を言えないってね。それに役人は税金を使って飲み食いする。ばれたら金を返す。ばれなければそのまま。庶民が公金をねこばばすれば詐欺罪で即逮捕。同じ罪なのに、どうして罰が違うのよ。おれは絶対におかしいと思う。だから俺はこの世に正義なんてないと思っている。正しいのは金、金なんだよ、金は権力なんだ」
正二は一に気にまくし立てた。正直者は馬鹿を見る、と正二の両親は口癖のように言っていたし、実際、馬鹿正直故に数々の辛酸を舐めさせられた事も知っている。
正二の両親は離農するに当って、毎夜将来について語りあったに違いない。その両親の会話を漏れ聞き、自分なりに世の中の有り様を学んだに違いない。だからだろう、正二の言葉には迫力があった。現実を直視する目が自然に身についていたのだ。
正二の両親は、作物は嘘をつかない、そう信じて北海道の開拓に入った。確かに作物は正直で嘘は付かなかった。しかし、農業ほど天候に左右される職業はなかった。人知の及ばない部分が経営を大きく左右する職業なのだ。更に、収穫された作物を売る段階から欺瞞が始まるのである。半年もかけて収穫した雑穀が、一瞬の間に価格が決まる。つまり一年間の所得が瞬時に決まってしまうのだ。そんな不安定な職業で家族を養うことは不可能だと思っていた。上手く言葉ではいいあらわせないけれども、正二は感覚的に世の中の現実を知っていたのだった。
「世の中は金なんだよ。金が総てで金こそ正義なんだ。だから俺は東京で一旗上げる」
正二は呟くように言った。その言葉の裏には貧乏故に親友と別れなければならない無念さが隠されていた。
「信じられない。つまりはお金の為なら何をしてもいいって事なんでしょ。今の世に正義はないっていうの」
順子は悲しげだった。確かに正二の言葉にも一理はある。誰だって清く美しく生きたい、けれどもそんな少女趣味を嘲笑う。日本という国は何時の間にそのような国になったのだろう。
「何をしてもいいってことはないけど、殺人や傷害事件以外は保釈金を払って直ぐ拘置所から出て来るじゃないか。これって罰はお金で買えるって事だろ。これって金さえあれば罰を受けなくていいって事だろ。正義なんて一文の金にもならないんだぜ」
何時の間にか正二は成長していた。日ごろは無口の方だが今日は饒舌だった。自身の送別会を兼ねた登山であり、数日後には全く未知の世界、東京へ向かうという興奮がそうさせたのかも知れなかった。
「ああ嫌だな。私達のクラス十七人は団結力があって仲もいいのに、卒業するとバラバラになっちゃう。大人になれば考えかたも性格も変わっちゃうんだろうなきっと」
美知は大空に向かって叫ぶように言った。
南の空の一角にどす黒い雲が現れ、徐々にその勢力を拡大して来た。山の天気は変わり易い。あっと思う間もなく、背後に冷たい霧が斜面を競り上がって来た。
「みんな、飯は食ったか?一寸ヤバくなって来たぞ、直ぐ下山だ」
修二郎は各自にゴミを拾わせ、女子を真ん中にして縦列で下山を開始した。冷たい濃霧が忽ち十七名を包み込んだ。
「正二、お前先頭に立ってくれ」
修二郎は自分より正二のほうが野性的で方向感覚に優れている事を知っている。正二は黙って頷くと先頭に立った。頂上から五0メートルほど下ったところで正二は突然立ち止まった。
「ヤバいぞ。道がない」
大声で叫ぶと、直ぐ後の修二郎を見た。眼前の山道は突然消え、丈一メートル程の熊笹が密生している。クラスのほぼ全員が軽装だった。冷たい濃霧が肌の熱を奪っている。時間をかけてはいられない。
「正二、戻ろう。頂上に戻るんだ」
「ええ、又頂上にもどるの?私達はもうずぶ濡れだよ」
女子から不満の声があがった。
「こんな時は絶対無理しちゃいけないよ。もう一度振り出しに戻ろうよ、その方が絶対安全で結果的に早く麓に降りれるよ」
順子は沈着で冷静だった。誰だって一刻も早く寒くて過酷な環境から逃れたいと思っている。でも、山での無理は絶対に避けなければならない。一行は再び元の道を引き返した
再び頂上に戻ると、正二は全員をそこに止め、修二郎を誘い別のルートを降り始めた。濃霧はいよいよ濃く立ち込め、全くといってもいいほど視界は利かない。殆ど正二の野生的な方向感覚に頼らざるを得ない状況だった。
「正二、この道で大丈夫かな?俺は何となく士幌側に向かっているような気がするんだけど」
「多分大丈夫だよ、あの大岩と木の繁り方は確か登りの時に見た気がする」
「そうか、お前の記憶力を信じるよ」
二人は再び下山を開始した。足元は泥濘状態で酷く歩き難い。頂上より百五十メートル程下ったあたりで、
「おお、修、あった。看板があったぞ。白雲山登山道九合目って書いてある」
「本当だ。助かったな。この道で間違いないな。良かった」
二人の顔に安堵の色が広がった。その表情は自分達の事より、クラスの全員を助ける事が出来る喜びに溢れていた。二人は直ちに頂上に引き返した。
「皆、安心してくれ、もう大丈夫だぞ」
全員の疲労は頂点に達していた。冷たい霧に濡れ、急激に体温を奪われたからだった。特に順子の疲労は激しかった。濃霧の中に呆然と視線を泳がせている。華奢な体が寒さで震えていた。
「順、大丈夫か」
修二郎は声を掛けた。順子はコクリと応えると、よろよろと立ち上がった。修二郎は羽織っていた薄手のカーデガンを脱いで、順子に渡した。
「いらない」
「着ないと風邪を引くぞ。俺は歩き回っていたから暖かいんだ」
修二郎はカーデガンを無理やり順子の肩に乗せた。正二を先頭に再び下山を開始した。皆、正二に対して全幅の信頼を寄せている。正二の自信に満ちた言動が、皆の不安を払拭した。気力が蘇ったようである。
下山は順調だったが、修二郎には気になる事があった。世の中は金だと言い放った正二に同調した修二郎に、順子は失望したに違いないと思うのだ。何時もは従順な順子が、修二郎が差し出したカーデガンを頑なに受け取ろうとはしなかった。それが何よりもの証拠ではないのか。
(順、俺は確かに世の中は金次第だと思う。でも、それは一般的にそうだと言うだけで、決して俺の生き方が金至上主義という訳でははないのだよ。だから誤解しないで欲しい)
修二郎は時々順子の様子を探りながら、心の内で呟いた。順子は俯いたまま、黙々と歩を進めている。だが足元は相当に怪しげだった。遅れないよう必死に歩を進めている。と、突然順子は転倒した。皆騒然となって順子を取り囲んだ。順子の疲労は相当に激しく、立ち上がることが出来なかった。
「修、肩をかせ」