大地に立つ(11)

正二は順子を助け起して左側を支え、修二郎は右側を支えた。幸いに湖畔は目前だった。
投げ捨ててあった自転車に飛び乗って、正二と修二郎は湖畔のホテル目差して急いだ。修二郎と正二の知らせを受けて、救急車は程なく湖畔に到着し、順子は直ちに町立病院へと搬送された。幸いに順子の容態は間もなく回復した。寒さと激しい疲労が原因だった。    
それでも順子は三日程の入院を余儀なくされ、一〇日の後、正二の一家は東京へ向けて旅立った。夏休み中だったが、級友の全員が新得駅に見送り来た。順子も元気な姿を見せた。列車の発車を告げるベルが鳴り、汽車が動き始めた時、突然正二の顔は歪み、号泣した。先ほど迄は気丈に振る舞い笑顔を見せていたのだが、汽車が動きだした途端、吹き上がる感情を抑え切れなくなったのだ。
順子も美知も泣いてた。そして級友の誰もが泣いた。半年もすれば卒業でバラバラに散っていく。それなのに何故今別れなければならないのだろう。卒業前の別れと、卒業してからの別れでは全然意味合いが違うのだ。どこの家でも家庭の事情はある。詳しい事情は知る由もないが、何となく分かる。けれどもそんな家庭の事情は敢えて知りたくはないと思っている。正二だけでは無く明日は我が身となり得る事情は皆抱えている。大人で無い限り親の決定を覆す事は出来ないのだ。
D51が白煙を吐きながら遠ざかって行った。
美知が呆然と佇み、見る見るうちに小さくなって行くD51を見送りながら、
「先生、私達が卒業するまで、正ちゃんの机は教室に置いといて」
と古川に懇願した。美知は密かに正二に好意を寄せていた。言いたい放題の喧嘩をしても、嫌いになった事など一度もなかった。正二がいるから学校が楽しかったし、辛い事があっても乗り切れた。でも、今は心の張りも失せて、気力も湧かないのであった。古川は頷いてから、
「美知、これからは未だ未だ辛い別れが一杯あるんだ。クヨクヨするな」
と叱った。
「クヨクヨなんてしてません」
美知はプイと横を向いたが、頬は涙で濡れていた。
「美知も東京で就職するんでしょ。東京で正ちゃんと合えるでしょ」
順子が肩を抱いて美知を慰めた。
とうとう正二の一家は収穫を目前にしながら東京に行ってしまった。秋の収穫量は、大目に踏んでも背負った借金の返済には至らなかった。切り開いた農地や若干の農具を売ったとしても、未だ借金は残る。農業はその年の天候によって豊作か不作かが決まる。仮に豊作であっても、生産物の値段を勝手に付けて売ることも出来ない不安定な職業だった。正二の家族は将来設計の立たない農業という職業に見切りをつけたのは正しい選択だった。
夏休みも残り少なくなった。朝、夕はゾクリと肌を刺す冷たい風が吹く。
早朝の五時頃、
「修、大変だ。母ちゃんが凄い熱で起きられんのだ」
と、善治が血相を変えて部屋に飛び込んで来た。
修二郎は突然たたき起こされたので、善治の言葉の意味が俄かには飲み込めなかった。が、善治のただならない挙動に、母の身に何か異常な事態が起きた事は理解出来た。修二郎は布団を跳ね飛ばして、恐る恐る寝室の戸を開けると、春江は荒い息を吐き、額に脂汗を浮かべて喘いでいた。
「母ちゃん、どうした。苦しいのかい」
修二郎は口を開け、喘ぐ春江の額に手を乗せた。
「大丈夫、ちよっと休めばすぐなおる。風邪を引いたんだ」
「大丈夫じゃないよ。すごい熱だよ。直ぐ病院に行こう」
「病院に行かなくたってすぐ直る。疲れただけだ」
春江は苦しそうに喘ぎながらも、病院へ行く事を頑なに拒んだ。修二郎には春江が病院へ行く事を拒む理由が分かっていた。収穫が終わり、雑穀を売らない限り、入院費用の現金がないからだった。
善治は呆然と春江の枕辺に佇んでいる。
「父ちゃん、母ちゃんを病院へ連れていこ。早く、早くしないと死んじゃうよ」
煮え切らない善治の態度に腹が立ち、けれども、あからさまに怒る訳にも行かず、修二郎は善治に懇願した。
「でも、でもな、こないだ死んだ信の所の馬を買ったばかりで金がないしよ」
「金の問題かよ。母ちゃんの命が危ないってのに」
修二郎は急いで自分の部屋に戻り、机の引き出しから小箱を取り出して善治に預けた。
「一万近くある。これで母ちゃんを病院に連れてって」
その小箱の中には、修二郎がアルバイトで貯めた金が入っていた。そしてその金は高校受験の為に貯めておいたお金だった。それは進学への夢を繋ぐ大切な金だった。その金がなくなれば、高校への進学は水泡と化す。受験する事も出来なくなるのだ。でも、切迫した今は損得の計算をする暇はなかった。
善治は困惑した表情を浮かべ、小箱を見つめて佇んでいた。
「父ちゃん、早く、早く馬車の用意をして」
修二郎は苛立った。春江の病状は一刻の猶予も許さない状況にあった。兎も角、遮二無二春江を馬車に乗せ、鹿追の病院へと急いだ。 善治の顔面は蒼白だった。日頃、持病を持つ善治は春江より先に自分が死ぬものだと決めていた。病気知らずの春江が自分より先に死ぬなんて、考えた事もなかった。春江の苦しむ姿を目の当たりにして始めて、生身の人間の脆さに愕然としたのだった。善治の動揺は病院に着いても収まらなかった。
病院が開くまでには未だ三時間程あったが、院長は快く扉を開けてくれた。叔父の信二が死んだ時、検死にオートバイを飛ばして来てくれた院長だった。三十分ほどの診察を終え、院長は渋い顔をして診察室から出てきた。
「もっと早く患者を連れて来なけりゃいかんよ。肺炎だ。忙しい時期だろうが少しの間入院が必要だ。過労がたたったのだろう。でも心配はない。必ず治してやるからな」
始めは厳しかった院長の表情は緩み、穏やかな笑みを浮かべて、修二郎の肩をポンと叩くと、長い廊下の先へと消えていった。善治は院長の言葉と表情を見て、余程安心したのか、
「偉え先生だ。本当にいい先生で良かったな、修」
そう言って院長の後ろ姿を拝むように、何度も頭を下げるのだった。
善治の膝が微かに震えていた。余程心配だっただろう。そんな善治の真の姿を見た時、長い間抱いていた善治に対する反抗心が薄らいでいた。善治を怖い父だと思っていた。でも、今、実は弱い善治の一面を見た時、そこに対等に対峙している自分がいた。その瞬間、不思議と善治への反抗心と嫌悪感が消えていたのだった。
抗生剤が効いたのか、春江は軽やかな寝息を立てていた。汗も引き、呼吸にも違和感は無かった。春江の寝姿を見て修二郎は安堵した。
病室は四畳半程の広さで、廊下とは障子戸で仕切られている。部屋には同室の入院患者はいなかった。粗末な寝台の鉄パイプは白いペンキも剥げ、いかにも堅そうだった。修二郎は所在無く、丸椅子に腰を降ろすと、緊張感が一気に解け、睡魔が襲ってきた。
ほんの少しの間、ウトウトと眠ったようだった。目が覚めると病室の障子戸が夕日で朱色に染まっていた。春江の安らかな寝顔を見ていると涙が滲んで来た。
(病気になっても病院にすら簡単に行けないなんて、働き詰で身体を休める暇もなくて、そして貧乏で)
修二郎は呟いた。イモンコ爺さんは今頃何をしてるだろう。順子は勉強してるのだろうか、等などボンヤリと考えていた。
程なく、善治が入院用の洗面具や下着類を買い揃えて戻って来た。
「母ちゃんはよく寝てるか?」
「ウン」
「修のお陰で助かったよ。金が無いって事は惨めなものだな」
善治は誰に言う訳でもなく、しみじみと呟いた。
「父ちゃん、この際だ、俺が一生懸命働くから、父ちゃんの病気も治しちゃおうよ」
修二郎の言葉に善治は言葉を失った。何時までも子供だと思っていた修二郎が、もう対等に話をしている。その事が妙に嬉しかった。
「今年はな、このまま行けば、小豆は反当り三俵半位は採れそうだし、豌豆も、大正金時もそこそこだ。今日借りた金は豆を売って利子を付けて返すぞ」
「いいよ、貯めていたお金が役に立っただけでも俺は嬉しいんだから」
「いや、借金は借金だ。必ず返すぞ」
善治は、眠っている春江の額の汗を、時折タオルで拭いながら、ジッと顔を見つめていた。
春江が病気になって初めて妻の存在の大きさに気が付いた。春江がもし仮に死んでしまい、二人が取り残された後を考えた時、もう全くお手上げ状態で、途方に暮れる事は目に見えている。善治は安らかな春江の寝顔に、これからは楽させるからな、と心の内で語りかけていた。
「修、俺は馬の世話やらなにやらと仕事が残っているんで、家に戻る。母ちゃんに付き添っていてくれるか」
善治は後事を修二郎に託して家に戻って行った。
初秋の陽は忽ち落ちる。蛍光灯が灯もされた。修二郎は所在無く廊下に出た。廊下の片隅に小さな本箱があり、表紙の取れた雑誌が数冊、無造作に置かれてあった。「冒険王」「週刊ベースボール」や「平凡」「現代映画」などだが、何れも数ヶ月も前に発行されたものだった。修二郎はその中から「冒険王」を選んで病室に戻った。春江は深い眠りの中にあった。修二郎は再び丸椅子に腰を降ろし冒険王のページを括った。小学生の頃は夢中で読んだ雑誌だったが、今は特段に興味を引く内容のものはなかった。
「修、ここは何処?」
仰向けに天井を見つめたまま、修二郎に聞いた。いつの間にか春江が目を覚していた。
「病院だよ。酷い熱だったけど、下がってよかったね」
「病院?」
「ああ、病院に連れて来られた事を知らなかったの」
「修、起こして。こんな所で寝てる暇なんてないんだから」
春江は無理をして起き上がろうと、寝台の上でもがいた。が、疲労が蓄積しているのか、全身が麻痺していて、身体の自由が利かなかった。
「いいから、寝てろよ。家の事は心配ない。俺が掃除、洗濯、飯の支度。父ちゃんは馬の世話や鶏の世話をするから」
思いがけない修二郎の優しい言葉に、春江の目から涙がこぼれた。
「でも、楽をしてたら怒られる」
「誰に?誰が叱ると言うの。母ちゃんを叱れる人は誰もいないよ」
春江は、昼間に寝る事は贅沢で鈍らのする事だと、小さい時から叩き込まれていた。それがすっかり身につき、もう習性となっていた。春江には幼い頃より昼寝をする贅沢は許されなかった。でも今は身体の自由が利かない。
「疲れてるんだよ。働きすぎだ。ゆっくり休みなよ。病名はね、肺炎だって。もう少し病院に来るのが遅れたら危なかったらしいよ。でもね、ここの先生が必ず治してやるって自信たっぷりだったよ。良かったね」
修二郎は少しでも母を安心させようと、努めて明るく言った。春江に修二郎の優しい言葉が胸に染みた。涙が溢れた。生まれて初めて優しい言葉をかけられた。肉親の情に心が解けていく。それだけで充分幸せだった。生まれてからこの方、緊張の連続だった。常に罵声を背に受け、叱責に怯え、人の影を見ると身構えた。そんな人生だった。それが今、身体の緊張がほぐれ深い海の澪の底まで、静かにゆっくりと沈んで行くような、そんな平安が訪れていた。
だが、春江は気力を振り絞って起き上がった。
「修、家に帰ろう。母ちゃんはすっかり治った。もう大丈夫だ」
「駄目だよ。先生は最低でも二週間の安静が必要だって言ってるんだから」
修二郎は、春江を無理やり寝台に押し付けた。
「母ちゃん、飯の支度や、洗濯、掃除の事を心配してんだろ。心配ないって。俺が何とかするから。それに、父ちゃんもゆっくり休ませなきゃな、って言ってたし」
「でもね」
「金の心配かい?治療代は豆が売れるまで先生が待ってやるって父ちゃんが言ってたよ。だから何も心配ないってさ。畑仕事だって俺が必死に働くし、保叔父さんも手伝ってくれるって。だから何も心配ないよ」
修二郎は必死に説得した。春江を悲しませないよう、善治に一万円を貸した事は敢えて伏せた。兎に角、今は一刻も早く春江に回復して貰いたいのだ。
忙しい毎日が続いた。朝は朝食の支度、鶏の世話をして、直ぐに大豆やトウモロコシの除草作業。少しでも作業が遅れると小麦の刈り取りや亜麻の収穫も適期を逃してしまう。刈り取りが遅れると品質も低下し、商品は買い叩かれるのだ。日も暮れてからようやく病院へ向う。それこそ目の回る忙しさだった。
春江の病状も思いのほか回復が早く、あと数日で退院出来る見込みである。
「夏休みを無駄にさせちやったね」
春江は修二郎の顔を見る度に詫びた。修二郎は自分が家族の役に立っているという実感があって、それだけで充分満足だった。
その日は忙しい中、ポッカリと空いた農閑日だった
修二郎は春江を病院へ見舞った後、鹿追橋でバスを降りた。夏休みも残すところ数日となった。春江の退院の目途がたって、ほっと一息ついた日だった。今頃は高校への進学を目指す同級生が、受験勉をしているはずだった。学校の様子が気になった。修二郎は高校への進学は出来ない。けれども、進学したいという希望は捨ててはいなかった。時が経てば事態は好転するかも知れない。進学への夢は叶うかも知れない。そう思うものの、ちっとも変化の兆しすら見えなかった。このまま時間が止まって欲しいと願わずにはおれなかった。だが時間だけは少しの休みもなく過ぎて行く。古川は最後まで希望を捨てずに勉強を続けろという。だが本当に一パーセントでも進学出来る可能性はあるのだろうか。そんなやるせない思いが修二郎を苦しめるのであった。
(あと半年で卒業か)
修二郎は呟いた。あと半年で高田順子とも離れ離れになる。順子は高校へそして修二郎は学問とは無縁の、土埃に塗れる毎日が待っている。
忙しい中、久しぶりにポッカリと自由な時間が取れた。鹿追橋の停留場で途中下車した。そこは修二郎が通う中学校に一番近い停留場だった。
バスから降りて、然別川に架る鹿追橋から右に別れて伸びる砂利道を、修二郎はゆっくりとした足取りで歩いていた。その砂利道は鬱蒼と繁る原生林を一直線に貫いていた。時折トラックが乾いた砂塵を巻き上げ走り去って行く。太陽は中天に居座り、蝉時雨が全身に降り注ぐ暑い日だった。盛夏も過ぎ、道端に繁る虎杖草の葉は砂塵に塗れている。蝉の鳴き声は騒々しいのに、妙な静寂が辺りを包んでいた。
厚く敷き詰められた砂利道は靴底が滑って歩きにくい。生真面目に被った学生帽子の内側から、滝のように汗が滴り落ち、その汗は首筋を伝ってワイシャツの内に流れ落ちる。道は緩やかな登りとなり、登りきった高台に修二郎が通う中学校がある。木造の小さな校舎は夏の太陽に炙られていた。楓の大木が、涼しげな陰をグランドに落としている。
(多分順子は教室で受験勉強をしているに違いない)
修二郎は歩きながらあの日の事を思い出していた。
あの日、体育館から戻る修二郎と、教室から体育館に向かう順子が偶然すれ違った。体育館と教室を結ぶ廊下はガラスの一枚戸で仕切られており、幅は九0センチほどしかなかった。お互いが急いでいたため、丁度その狭いガラス戸のレール上で向かい合う形ですれ違った。他意はあろうはずはなかった。お互いが自分が通り過ぎるまで待ってくれるものと思っていたのだ。しかし、結果的に体が正面で重なる形になってしまったのである。順子と修二郎の胸と股間が触れ合ったその時、修二郎の全身を快感が貫いた。初めて経験する感触だった。
順子は耳朶まで赤く染めて、  
「何よ、馬鹿」
と、言い捨てて走り去っていった。
今、自分は明らかにあの時の快感を求めている。順子もきっと自分と同じ感覚にとらわれたに違いない。何故なら、たかが身体が触れ合った程度で、顔を赤らめてまで怒る事もないはずだ。
ゆっくりと歩を進めながら、
(それより、自分が学校に行く目的は何なんだろう)
修二郎は呪文のように何度も同じことを呟いていた。それはただ、意味もなく呟いているだけで、身体があの時の快感を求めていた。あの時の突き上げるような快感を求めて、五体は動かされていたのだ。口先では自分は何の為に学校へ向かうのかと自問しながらも、脳裏では順子を押し倒して、衣服を剥ぎ取り、意のままに順子を蹂躙する、そんな妄想に突き動かされていたのである。
(俺の人生は終わったも同然だ。もうどうなったって構わないさ)
修二郎はともすれば自虐的になる自分を強いて肯定しょうとしていた。将来の目標はない。農業を継いだって、自分の将来は知れている。楽しみも希望もない人生で救われる道は快楽しかない。もうどうなったって構わない。好き勝手に生きてやるさ。俺の人生だもの。文句を言われる筋合いなんかあるもんか、と強がりを吐いてみる。だが、生真面目な修二郎に、自分を嫌悪しているもう一人の自分がいた。神聖な順子の身体を汚してはいけない。順子だけは誰にも指一本触れさせる訳には行かない。勿論、自分だって例外ではない。順子は神聖なのだ。そう思うものの、あの、抱き合う格好ですれ違った時の耽美な感覚が脳裏に焼きついていて、どうしても消し去る事が出来ないのだった。
校舎の玄関に入ると、室内はひんやりとした空気が流れていた。修二郎の予想に反して校舎に人の気配はなかった。夏休みも残り少なくなり、同級生は家で受験勉強に追われているか、又は農作業の手伝いに追われているに違いない。今時分のんびりと学校に顔を出す様な余裕はないのだ。順子だって何かと忙しいのだろう。修二郎はそう思いながらも、順子に合う事が出来ずに落胆した。反面、緊張が解けホッとしたところもあった。人気のない廊下は薄暗くかびの臭いが漂っている。修二郎は教室の自席に腰を降ろした。右側の斜め前が順子の席である。修二郎はぼんやりとその順子の席を眺めていた。今にも順子がそこに居て、修二郎の方を振り向いてニッコリと微笑む、そんな姿を想像していた。
教室に沈んでいた冷気に触れて、高ぶっていた感情は次第に収まってきた。冷静になって考えてみると、一歩間違えれば犯罪者になるところだった。本当は逃げ出したい程怖かったのに、修二郎の身体は順子の肉体を求めて動いていた。順子を丸裸にして、思うまま蹂躙したい。その時順子は激しく抵抗するだろうか、それとも自分を受け入れてくれるだろうか。順子の肉体は一体どんな風になっているのだろう。出来れば順子は眠っていてくれた方がいい。そうだ、その方が順子に決定的に嫌われる事も無いだろう。自分の行為が眠っている順子に全く気づかれない事が一番いいのだ。
妄想は次々と広がって行く。けれども、幸いにして順子は教室には居なかった。緊張のせいか、全身に脂汗が滲み出ている。やがて高揚していた感情が静まると、修二郎は激しい自己嫌悪に陥った。
実際、修二郎は順子を愛しているのか、それとも、ただ単に順子の肉体を求めているのか、自分には分からなかった。順子を本当に愛しているのなら、絶対にあらぬ妄想はしない筈だと頭では分かっている。けれども修二郎の身体は勝手に動いていた。
(お前は順子が好きではなかったのか、愛してはいなかったのか。好きだ、好きで好きで堪らない。ならば何故順子を欲望の対象とするのだ。お前は今、順子を汚そうとしているのだぞ。だから順子を愛してるというのは嘘だ。お前はただ単に順子の身体が欲しいだけなんだ)
修二郎は自問自答した。結論は出なかった。やがて修二郎はゆっくりと立ち上がった。将来に対する焦り、不安が胸中に渦巻き、やるせない気持ちが修二郎を自暴自棄にしている事は事実だった。
陽は大きく西に傾き、グランドの縁に立つ楓の巨木が、校舎の近くにまで影を伸ばしている。俺は何て嫌な男なんだろう。順子が本当に好きならば、暴力で自由を奪おうなどとは考え無い筈だ。美しい輝きを放つ宝石を汚そうとする人間はいない。それなのに俺は、宝石のような順子を泥水の中に引き込もうとした。俺は人間じゃないのか。修二郎は自分を責めた。
修二郎には与えられた仕事が待っていた。風呂を沸かし、居間の掃除、三頭の馬の世話、一頭の綿羊の小屋入れ等など。なかでも綿羊の世話だけは、過去に苦い経験があるだけに絶対に手抜きの出来ない仕事だった。
小走りに帰路を急ぎながら何故か順子が気になってしかたがなかった。順子は絶対に教室で勉強をしているはずだった。この予想は違うことはないはずだ。何故なら順子は修二郎が学校に来る事を期待している。だから絶対に教室で勉強をしているはずだ。修二郎はそう信じきっていた。だがその予想が外れた。順子の身に何か良くないことでも起きたのだろうか。そんな不安が胸中を過ぎった。