大地に立つ(13)

その日は修二郎の誕生日だった。順子が出した謎のヒントの日でもある。修二郎は学校を休んで畑仕事を手伝っていた。正午になって昼食で家に戻ると、新聞と手紙が届いていた。順子からの手紙だった。封を切る時、何故か胸が高鳴った。嬉しい筈なのだが、妙に不安なのである。封を開いて見ると、如何にも生真面目な順子らしく、几帳面な文字が並んでいた。
(修、何時も有難う。修のお陰で今まで病気と戦う事が出来ました。でも、私にはもう生きる気力が無くなりました。私の命は長くはないのです。私には未来はありません。短かったけれど修が傍に居てくれて、本当に楽しかった。ところで九月二十九日は修のお誕生日。オメデトウ。私は修のお誕生日に天国に行こうと決めていました。何故なら修に私がこの世に生きていたと言う事をずっと覚えていて欲しいからです。私の病気は治りません。残りの人生は僅かばかりです。治る見込みのない病気の為に、家族や友人達に迷惑を掛ける事は出来ません。修と二人で旅をするって約束したよね。すごく嬉しかったし、楽しみだった。でも、それは夢だったのです。正ちゃんの送別会、然別湖は本当に綺麗だったね)
修二郎は手紙の後半部分を読む勇気はなかった。そこには恐しい事実が記されていると直感したからだった。
「然別湖だ。順は然別湖で死のうとしているんだ」
時計を見ると針は十一時五十分を指していた。然別湖行きのバスは十一時五十五分にバス停を通過する。五分の余裕しかなかった。このバスに乗り遅れると次のバスの発車時間は二時間後になる。
「母ちゃん、金をくれ。急ぐんだ。バス代をくれ」
修二郎は大声で叫んだ。修二郎の手紙を握り締めた手がブルブルと震えていた。
「どうしたの。順ちゃんに何かあったの」
春江は、修二郎の慌てぶりにつられてすぐに千円札を一枚差し出した。
修二郎は千円札をもぎ取って、バス停へ向かって走った。修二郎の家から国道に出るまでに二分は掛かる。そこからバス停までに五分は掛かる。とても間に合いそうになかった。
でも修二郎は全力で走った。砂塵を巻き上げながらバスは近付いてくる。修二郎は走りながら必死に手を振った。両手を広げ大きく円を描くように手を振った。
バスはバス停の遥か手前で止まってくれた。修二郎は運転手に何度も頭を下げ、お礼を言った。バスの運転手は尋常でない修二郎の様子を察したのか、嫌な顔も見せずに再びバスを走らせた。
バスの速度は異常に遅く感じられてならなかった。
(死ぬなよ順。待っててくれ、絶対に死なないでくれ。頼む)
修二郎は必死に祈った。修二郎は勇気を振り絞って、再び手紙を開いた。
(私は美しい唇山が映る湖で眠りにつきます。今まで本当に有難う。弱い順子でゴメンネ。もう修に迷惑をかける事はありません。夫婦山の左の山は私、右の山は修。絶対に、絶対に忘れないで、いつまでも、心のほんの隅に私を置いておいて下さい。私はもう疲れました。修、大好きでした。順子)
手紙の文章の最後は千々に乱れていて、しかも滴った涙で文字が滲んでいた。大好きでした。順子、との文字を読んだ時、修二郎の目から大粒の涙がポロポロと零れた。
既に紅葉の盛りで、錦の衣に身を包み穏やかな表情を見せる東ヌプカウシヌプリは、双子のように同じ形をした西ヌプカウシヌプリと並んで聳えている。その間を縫ってバスはノロノロと進んで行く。 修二郎のイライラは頂点に達していた。
何故だろう。緊迫して焦りながらも、順子と過ごした学校生活が次々と脳裏を過ぎって行く。
晩秋には全校生徒で冬の暖房用に森で薪を集めた。咲き乱れた萩の花が美しかった。マラソン大会、ゴールして倒れ込んだ時に見た大空の青さ、学芸会での気取りと緊張、卒業式で流す先輩の涙、弁論大会でのミスなどなど。それは総て楽しい思い出だった。そして、それぞれの行事には必ず順子が傍に居て、笑いがあった。級友達に二人の仲を冷やかされる事が楽しかった。
扇が原を過ぎ、右手に見える小さな駒止湖を見降ろし、針葉樹に密生するサルオガセの空間を抜けて、うようやくバスは終点の湖畔に着いた。
湖畔では火消し半纏を着た鹿追消防団の青年達が屯していた。湖の中央には遊覧船が浮かび、その近辺に一、二〇艘のボートが遊弋していた。
(ああ、遅かったか、いや、間違いだ。そんな筈はない)
修二郎は沸きあがる不安を必死に打ち消した。修二郎はバスから飛び降りると、湖畔の波打ち際まで走り、消防団員の一人に、
「何かあったのですか?」
と、努めて冷静に訊いた。が、声は明らかに上ずっていた。
「ああ、若い娘が入水自殺をしたらしいんだ。可哀そうによ。冷たかろうにな。何でも沖に漕ぎ出したボートが空で浮かんでたって言うだよ」
「この湖の底は倒木で埋め尽くされている。仏さんは多分その倒木の枝に引っかかっていて、浮かんでこれないと思うな」
「遊覧船の錨で湖底を探っているんだが、中々倒木が邪魔して、捜索は難儀だ」
 団員達は修二郎の存在を無視して、仲間内で囁き合っていた。
(若い娘が入水自殺をしたらしい)
と、消防団員の一人は言った。その若い娘とは九十九パーセント順子のことに違いない。だが、修二郎は残りの一パーセントに望みをかけた。人違いであって欲しいと願った。一時間後には然別湖畔行きの最終バスが到着する。ひょっとすると順子はそのバスから降りて来るかも知れない。もしそうならば何が何でも自殺を思い留らせて見せると、修二郎は悲しい決意をするのだった。
湖畔の日暮れは早い。もう湖を覆う原生林が湖面に黒い影を映していた。湖面を渡る風は既に晩秋の冷たさだった。湖面は細波の一つも無く、鏡のように静まり返っている。
修二郎は湖面での捜索状況を食い入るように見つめていた。
結局、最後の望みを託した最終便のバスの乗客の中に、順子の姿はなかった。捜索隊は主に湖の南端付近を集中的に捜索している。
順子の手紙に、唇山(白雲山)の映る湖で私は眠りにつきます、と書いてあった。とするならば、対岸になるはずだった。だが修二郎はそのことを捜索隊に告げる勇気はなかった。捜索隊が修二郎の指摘通り唇山(白雲山)の映る場所を捜索し、本当にそこから遺体が揚がったなら、それは順子だと言うことになるからだった。
冷たい湖底から早く順子を引き上げて欲しいと願う反面、そうあって欲しくないと願う矛盾を内に抱えて懊悩するばかりだった。
午後四時を少し回った頃、順子の両親がトラックで駆けつけた。担任の古川も一緒だった。修二郎がそこに居ることに驚き、
「修、何故ここに居るんだ」
と、不思議そうに聞いた。学校を休んでこんな所で遊んでいたのか、とでも言いたげだった。修二郎はそんな雰囲気を察して、順子からの手紙を古川に見せた。古川は手紙を読み終えると、
「そうだったのか、二人で病気と戦っていたのにな。残念な結果になってしまったな」
沈痛な面持ちで言った。そんな古川の、順子は自殺したと断定するような言い方に腹が立った。
「先生、自殺者が順と決まった訳じゃ有りません。この手紙だって順の冗談だと、僕はそう思っているんです。いや冗談だと信じているんだ」
修二郎の目には涙が滲んでいた。
「済まん、先生の言い方が悪かった。確かに順と決まった訳ではないな」
古川は詫びた。
「実は今日、高田が病院から居なくなったと、昼頃に順子の家から連絡が入ってな、程なく今度は学校に警察から若い娘が然別湖に身を投げたようだが、心当たりがないか、との問い合わせあったのだよ。それでもしやと思って飛んで来たんだ」
古川は突然思いついたように、湖岸で指揮をとっていた男に近寄って行った。指揮をとっている男の火消し半纏の襟には、鹿追消防団副団長と記されていた。
「ご苦労様です。ところで何故あそこばかりを集中的に捜索しているのですか?」
「この湖は中央部分の流れが速いもんですから、ご遺体は、水の流れ出る河口付近だろうと見当をつけているんです」
消防の副団長は丁寧に答えた。
「そうですか、でも、もし今日、あそこで遺体が揚がらなかった場合は、あの唇山の映っている場所を捜索して頂けませんか」
「何か心当りでもあるのですか?」
「いえ、別に。ただ若い娘が身を投げるとすれば唇山の姿が湖面に映る場所ではないかと思いましてね」
「成る程、有り得ますな。今日ご遺体が揚がらなかった場合には、明日にでもそこに捜索場所を移しましょう」
湖の南端付近の捜索に限界を感じていたのか、消防団の副団長は古川の提案を快諾した。古川は、順子が修二郎に充てた手紙の文面に、唇山が映る湖で私は眠りにつきます、と書かれた文面を思い出したのである。
修二郎は二人の会話を聞いて観念した。状況から判断して、湖に身を投げた若い娘とは順子だと断定せざるを得ない。もういい、もう早くこの冷たい湖底から順子を引き上げて欲しい。今、修二郎は心 底そう思うようになっていた。
湖面に長く樹陰が延びて来た。湖面を渡る風はもう初冬の冷たさである。湖岸では威勢よく篝火が焚かれ、炊き出しのオニギリが振舞われた。順子の両親は捜索隊の誰彼も構わず、ご迷惑を掛けます、と頭を下げ、その気の使い方は傍目にも哀れであり気の毒であった。
五時を過ぎると、もう辺りはすっかり夜の帳に包まれた。捜索隊の隊員には明らかに疲労の色が浮かんでいる。
遂に消防団の副団長は、捜索の中断を宣言し、明日は朝の七時から捜索を再開する旨を隊員に告げた。
湖畔のホテル、福田荘は大広間を開放してくれた。だが、順子の両親は湖畔にテントを張った。娘が冷たい湖底に眠っているのに、親が暖かい部屋で眠る訳には行かないと言うのがその理由だった。
「明日も農作業の手伝いで学校を休むのだろ。先生はひとまず引き上げる。風邪を引かんようにな」
古川は修二郎の肩を二度ほど叩いて捜索隊の車に同乗して帰って行った。
その夜、修二郎は捜索隊から毛布を二枚借り、一人対岸へと向かった。そこは唇山の裾だった。今はもう湖に身を投げた若い娘とは順子に間違いはないと認めている。修二郎は岸辺に枯枝を敷き、毛布に包まった。今宵は順子と二人で夜を過ごす積もりだった。
満天の星空である。手を伸ばせば届きそうな位置に星が輝いている。夜半の冷気が体の芯まで染み込んでくるようである。目を閉じると順子の思い出が走馬燈のように脳裏を過ぎる。そのどの一場面を切り取ってみても楽しいものばかりだった。
(俺だって。俺だって順子が好きだ。だから死なないでくれ)
修二郎は順子からの手紙を握り締め、シャツの袖で涙を拭った。修二郎にとって、順子は特別な存在だった。好きでたまらなかった。順子もそう思っている。順子の本心を知った時が別れの時になろうとは、余りにも残酷だった。
一睡も出来なかった。何時か夜は白々と明けてきた。唇山の頂を濃霧が包み込んでいる。湖面を渡る風が肌を刺すように冷たい朝だった。そこは、原始の静寂が辺りを包み、岸辺を洗う波の音が、唯一生命の息吹を感じさせる神秘的な世界だった。 
捜索は予定通り朝の7時から開始された。
 古川の提案した通り、捜索は唇山を映す湖面周辺を重点的に行われた。午後になって上空を覆った雲の一部が裂け、湖面に一筋の光が差した。光の当った湖面がキラキラと輝き、まるで別世界を見ているような美しさだった。修二郎はその光は順子が昇天する天国への道筋のように思えた。だが、修二郎は激しく頭を振って、そんな妄想を打ち消した。
この時、ふとある事が脳裏を過ぎった。
「そうだ、絶対にそうだ」
順子は白雲山の頂上から眼下の然別湖を見つめ、
「すごい、ここは神様の国みたい。絶対に人間界の世界じゃない。天国はきっとこんな所に違いないわ」
と、何度も呟いていた。修二郎はふと順子の言葉を思い出したのだった。
「順は山だ。白雲山に登ったんだ。ああ、何故、早く気がつかなかったんだ」
修二郎は一気に登山道を駆け上がった。急勾配の山道は霜柱が立っていて滑り易く、気ばかり急いて一向に捗らない。滑り落ちたり、転んだりしながらも、修二郎は必死に頂上を目指した。
登山道の中程まで来たとき、ダケカンバの根元付近を覆った熊笹が倒伏していて、沢に向かって微かに、人が歩いた痕跡が残っていた。
修二郎の胸は早鐘のように高鳴った。
「順、おーい、順」
順子に呼びかける声が次第に大きくなった。
やがてあってはならない修二郎の予感は当った。大きな岩と岩の間に順子はうずくまる様に倒れていたのだ。修二郎は氷のように冷たくなった順子の体を抱き寄せ、何度も頬を叩き、硬直した体を揺すった。
「順、起きてくれ、頼む目を開けてくれ」
修二郎の目から涙が溢れた。
「何故だ。何で死んだんだ。順、お願いだから、頼むから目を開けて俺に話しをしてくれ。寒かったろう、こんな寒いところで何故死んだんだ」
どんなに修二郎が呼びかけても、順子の体はピクリとも動く事はなかった。
「こんなんじゃない。こんな姿を見るのは嫌だ」
もしかすると、体に温もりが戻れば、順子は目を開けるかも知れない。そんな思いで、修二郎は順子を抱きしめた。修二郎の望みは順子の温もりのある柔らかな体を抱きしめる事だった。だが、今の順子の身体は氷のように冷たくて硬かった。
どれ程の時間が過ぎただろう。修二郎の涙も枯れた。どんなに体を温めても、再び順子が目を開ける事はなかった。