エデュカントの星(第7話)
南方へ陣をかまえ10日目。新人たちのテントでベルセリアとガロが言い争っていた。
「誰もが無益な戦いをしているとわかっているのに黙れというのか!」
「いまは耐えろ。反抗すれば除隊か投獄だ」
ベルセリアがテントを飛び出した。気持ちはわかる。迷ったすえ、ガロは後を追った。
陣のはずれで、小柄な少女が膝を抱えて悔しそうに地面を睨みつけていた。その傍ら、力まかせに剣が大地に突き刺さっていた。本来は敵に向かうはずの王の願いと騎士の戦う意志。かける言葉もなく隣りに無言で腰をおろす。夜空を仰ぐ。星が遠い。心が晴れない。
月の光がただ、突き立てられた剣に鈍く反射するばかりであった。
騎士団の館を離れ2週間が過ぎた。全員が無駄に疲労していた。南方の辺境の魔物は強い。しかも、本来倒すべきザビンツ兵が相手ではないため、士気も上がらない。
「怪我人がまた新人たちから出たぞ」
「騎士団長たちは何をしているんだ」
騎士たちの間で不信感が広まっていった。
騎士団長たちは戦いの合間を縫ってジャローモ外務次官へ早く和平交渉を進めるよう催促していた。だが、肝心のジャローモが「連絡待ち」を理由に動かない。
計算に狂いが生じ、彼は焦っていた。
<ザビンツの実権を握る将軍と連絡が取れぬ。将軍とは旧知の仲でカネで交渉できる。調略はたやすいと王にもそれで納得させた。副将軍ではダメだ。パイプがあるのはチップーニ次官だ。いま奴に出てこられては今後の王宮での権力争いに支障が出る。しかも、送った使者が誰ひとり帰らぬとは…>
使者はことごとくザビンツで始末されていた。ザビンツ兵たちは敵前逃亡したとされる人望の薄い将軍よりも、リーザカインド随一と謳われる騎士団長オリビエ・ピエモンテに心酔し、和平交渉には一切応じなかった。
騎士団長たちの憤りも臨界点を迎えていた。
「国境の村が襲撃されたのに出撃命令が出ない。交渉に固執しおって」
「ジャローモに進言すれば返って意固地になって我らを遠ざける」
「『王の認証』さえなければ…」
騎士団に不穏な空気が漂っていた。
レディナイトの館にいるティタンジェも被害の報告は受けていた。しかし甲冑を前に、自室でため息をつくばかりだ。騎士団長たちに言われたのだ。
「我々に何かあればおまえが指揮をとれ。だから投獄されぬよう耐えて機会をうかがってほしい」
ティタンジェは再び深いため息をつく。
<だからおとなしく従ったが、機会が訪れるのは王国最期の刻ではないのか。為政者にとって痛みとは他人事で、自分の財産が脅かされて初めて感じるもの。この静寂の夜のどこかで村を焼かれて悲嘆に暮れる人々を思うと胸が締め付けられる>
窓から夜空を見上げ、英雄の星座を見つける。
<私と違い、エデュカントは投獄された。彼は機会を待ち、3年後に脱獄して陥れた者たちに復讐を果たしたという。私の「機会」とはいつなのだ>
問いかけても星はまたたくばかりで答えてはくれない。
<待つだけなのか。できることはないのか…>
しばらくしてレディナイトの瞳に決意が宿った。直後、激しい目眩が彼女を襲った。しかし、逆にティタンジェの闘争心に火がついた。
<たのむ、力を貸してくれ>
誰にともなく、祈るような気持ちで甲冑に手をかけた。
その二日後の夜、騎士たちは見張りを除いて早々にテントの中で眠りについていた。誰ひとり口をきく元気がなかった。騎士団長たちは密かに反乱を画策していた。
そんな彼らの耳に、はっきりと馬の嘶きが、地を蹴る蹄の音が聞こえた。騎士だけではなく、ジャローモや王宮護衛官たちも何事かとテントの外へ集まってきた。
馬を鎮めてヒラリと着地する甲冑姿のティタンジェをとらえ、次官は怒りを爆発させた。
「なぜいる! 謹慎を命じたはずだ! 護衛官、とりおさえろ! こいつを投獄する!」
護衛官たちが剣を片手にレディナイトへ迫る。ティタンジェは眉根一つ変えず、腰に下げていた袋から何かを取りだした。
「私に、いや騎士団にこれ以上手出しはさせない」
ティタンジェは手にした書状を広げた。次官はじめ護衛官たちは言葉を失い、反対に騎士団長たちは感嘆の声を上げた。わけもわからず見守る騎士たちの中で、ベルセリアは隣りにいたガロだけが息を呑んだのに気づいた。
ジャローモは震える指でそれを指し、声をわななかせる。
「お、王妃の認証…。バカな…」
ティタンジェがうなずく。
「そうだ。『王の認証』を発動したものの、成果が上がらず、しかし取り消すには体面上難しい場合、次に発動されるのが王宮第二の権力『“王妃”の認証』だ」
ジャローモは顔を赤黒くさせて歯がみする。
<うかつであった。あのレディナイト、王妃の気に入りであった>
ティタンジェの要求を王妃はあっさりと引き受けた。
「あなたったらいつも私を頼っていいと言っているのに一人で頑張るのですもの。甘えてもらえて嬉しいわ」と顔をほころばせて。
「進まぬ交渉を王と王妃ともに憂慮されていた。ジャローモ次官、あなたはいまより自宅謹慎してもらう。逆らえば反逆罪とみなし投獄および官位剥奪とする」
「なんだと?! 私の今までの苦労を水の泡にする気か!」
「“今までの苦労”はあなたに振り回された騎士団であろう。護衛官、彼の身柄を拘束し、逃亡せぬよう二十四時間体制で監視せよ」
「はっ!」
ジャローモは最後まで抵抗を試みたが、屈強な護衛官たちに囲まれ、結局乗ってきた官僚用の馬車に乗せられて戦地を退いた。
すでに真夜中を回っていた。騎士団長たちに事情を説明しティタンジェは騎士団を見る。
<疲れた顔だ。怪我人も、我らに疑いの眼を向ける者もいる。しかしそんな全員を奮い立たせ、これからザビンツと戦わねばならない>
不思議と体の不調がおさまった。心も鎮まった。情熱がほとばしる前の静けさのように。
「諸君、待たせてすまなかった。不毛な戦いと私の行動の遅さを詫びる。許してほしい」
頭を下げたあと、一人一人に語りかけるよう話した。
「作戦をオリビエ捕獲とザビンツ撃退に戻す。激戦となり命を落とすかもしれない。しかし、この窮地を救えるのは我々騎士だけだ。ここに来る前、襲われた村をいくつか通り過ぎた。家は焼かれ、人々は惨殺されただけでなく、中には魔物が食い散らかしたあと面白半分に築いた子供の死体の山まであった。すでに国の三分の一に兵が進んでいる。もう為政者の駒でなくなった以上、使命を全うし最後まで戦えるのだ。すぐに出発し迎え撃つ」
ためらいの空気が流れた。疲れの苛立ちや不信感、不安から死線が脳裏をよぎり、誰もが躊躇していた。そこへ、勇ましい声が響いた。
「戦います!」
ガロだった。全員が注目すると彼は胸に拳をあて、騎士の礼で応えていた。いつもの気弱な表情が消え、強い意志でまっすぐにティタンジェを見ていた。
「国を守れるのは王宮の護衛官でも町の警護団でもない。オレたち騎士です。侵略されれば家族は奴隷にされ、滅ぼされた国は歴史も閉ざされます。オレたちは英雄の歴史を持つ国リーザカインドの子。エデュカントの末裔。英雄の血を遺志をここで終わらせません」
「オレも戦います!」
「僕もです。怪我をしていますが充分戦えます!」
水面に投げられた石の一投のごとく波紋が広がる。騎士団全員が拳を胸に騎士の礼を取っていた。
<通じてくれたか。ガロ・ソノマ、礼をいう。君の一投は大きかった>
ティタンジェはうなずき自らも力強く拳を胸に当て、ガロを見る。
全員の顔に生気が戻った。ティタンジェは握りしめた拳を高く掲げる。
「出発だ! ザビンツを撃退する!」
高ぶる叫び声とともに全員の拳が英雄の星座をめざすがごとく夜空へと突き上げられた。
夜どおしドムラを飛ばした。明け方、休憩をとっていると空が暗くなった。ドラゴンの大群が上空を覆ったのだ。誰の顔からも血の気が引いた。だが、先頭の乗り手を見てベルセリアは目を輝かせた。
「先に行ってるぞ!」
駆け出し、指笛を吹く。
大群から緑色のドラゴンが一頭降りてきた。ポチだ。身を低くしたその翼から背に駆けあがると仁王立ちになり、意気揚々と空高く舞い上がった。大群の先頭にいる漆黒のドラゴンは獰猛にして気質の難しいロイヤルロッホナガー種。その背に威風堂々とした口髭の男が仁王立ちで乗っている。前方を睨みつけ腕組みをする彼の背中へ呼びかけた。
「父上!」
男はぎょっとして振り返る。ベルセリアはポチを男のドラゴンのそばにつけると器用に飛び移った。呆気にとられる父親へ娘が風圧にもよろけず輝く笑顔でまっすぐ走ってくる。
「来てくれたのか、父上!」
「ベルデッキオ…」
カン!
「このバカ娘があっ! 勝手にドラゴン学校を退学して行方をくらましおって! どれだけ心配したと思ってるんだ!!! アリランが報告しなければドラゴン部隊を派遣して国を挙げて捜索するところだったわ」
「痛ったー…。あー、やっぱり爺が連絡入れてたかー」
「騎士団でおとなしくしているならと許したが、なんだ、あの請求書の山は。聞けばブリストルを名乗る娘がうちのおごりだからドラゴンについて知っていることを全部話せと食堂にいた者全員に酒までふるまったというではないか!」
「それは、ポチを怖がってみんな口を閉ざすからでな…」
「怒られとるのに笑うなー!」
「いや、家族の顔を見るのが久し振りで嬉しくて」
彼こそはブリストル家の家長ロバート・パーカー・ブリストル。娘のベルセリアとは対照的に大柄で頑健な体つきだ。怒らせると恐ろしく、王すら威圧する風格を持つ。
一瞬早く父親が気配に気づいた。遅れて娘もキリリとした釣り目で前方を睨む。
「ベルデッキオ、おまえの託したドラゴンが仲間を連れてきた。後ろに控えている。操れるなら手伝え」
「もちろんだ。そのために来た」
言うが早いか並走していたポチに飛び移る。その後ろには10頭ほどの緑色のドラゴンたちが控えていた。
とたん、前方でまだ点にしか見えなかった団体がはっきりとした形をなして近づいてきた。何十頭ものドラゴンに乗った魔物の群れだ。
ロバート・パーカー・ブリストルがドラゴンにまたがるドラゴン使いたちに命じる。
「左右に分かれて囲い込め。殺してはならぬ。捕獲してドラゴン救護施設へ送るのだ」
そしてかざした腕を大きくなぎ払い、率いてきたシーバス種たちに命じる。
「ゆけ、我が眷属! 上空へ逃げる部隊を取り押さえろ!」
ドラゴンたちが一斉に上昇した。
ベルセリアも仁王立ちで同じように腕をなぎ払い、緑のドラゴンたちに命じる。
「ゆけ、我が友よ! 『翼』の陣形で敵を攻めろ!」
ドラゴンたちは嘶いてベルセリアを軸にV字型をつくり、敵を捕えに下降した。
火の放たれた村。逃げまどう人々。牙をむける魔物の群れ。魔物が怯える子供に襲いかかろうとした瞬間、その首と銅とが切り離された。魔物が倒れると、目の前には肩で息をつく白銀の甲冑の青年が、振り下ろした剣を握ったままこちらを見ていた。
「君、怪我はないか」
目の細い穏やかなおもざしに子供はまだ恐怖の抜けぬ表情でうなずく。
その青年へ巨大な青い馬に乗った甲冑の男が声を張り上げた。
「シレオン、新人たちで連携して村人を避難させろ」
「わかりました、ティムール殿」
柔和なおもざしには似合わないほどのきりりとした声で答え、シレオンと呼ばれた騎士は子供を抱え上げた。
「遅くなってすまなかったね。もう大丈夫だから」
さきほどの厳しい声とは逆に子供には柔らかな声になる。反面、襲いかかってきた魔物の腕を切り落とし、返す刀で首をはね上げた。片手とは思えない力強さだ。
村の半分は焼けた。躯(むくろ)の山が騎士たちを怒りに駆り立てる。
「少し怖い思いをするかもしれない。目をつぶってくれよ」
うなずいて目をつぶると同時に衝撃が伝わった。獣の絶叫が聞こえる。
<でももう怖くない。来てくれたんだ。大人たちが自慢する白銀の強い騎士たちが>
不安とともに涙も消えていた。
ザビンツのオリビエのいる本陣に報告が入る。
「メドック村攻撃中の第一部隊、リーザカインドの騎士団により全滅」
「ドラゴン部隊、攻撃を受け退却。何頭が奪われました」
「話が違う。リーザカインドは半年前に騎士を相当数失った素人の寄せ集めだろ?!」
リーザカインド随一の騎士団長の口車に乗せられ、王国を簡単に落とせると算段していたザビンツの兵長たちは動揺した。騎士団と実際に剣を交えたことはない。怒涛のごとく敵を撃退していく騎士たちの強さ、迅速さに度肝を抜かれた。
敵も味方も計算外だったのは新人たちの活躍だった。先輩騎士が感心する。
「やるじゃないか」
「はい、南方の三つ頭(みつがしら)の巨大熊に比べれば少し背の高いケモノ型なんて手慣れたものです。それに騎士団長たちの破壊力。勇気がわきます」
聞いて騎士団長ヌフドパフはうなずく。
「強力な魔物たちとの戦いが経験となったか。ベテランも我々も下からの突き上げで強くなり、それが新人たちに更なる力を与える。良い循環だな」
「今年の新人たちに伸びしろがあったとは」
大剣をふるいながら騎士団長トラントドンは満足気だ。
ザビンツ本陣ではどよめきが続く。
「ドラゴン使いの騎士までいるのか。その少女、ドラゴンを操るだけでなく、我らのドラゴンに乗り込むや、乗り手を攻撃して部隊を切り崩しているというではないか」
「第四部隊に援軍を送れ。騎士団長がレディナイトときいて手薄にしていたが異様な強さだ。第五部隊のトカゲを投入しろ」
「それはさきほど半数以下になった。騎士団長でもないのに仕切るのがうまい背の高い少年の部隊につぶされた」
「黒髪の青年ではないのか? 先頭に立ち、一人でヒト型30体を倒したとかいう」
特にガロとGの活躍は目覚ましかった。
「何?! アリランまでいるのか」
家の召使まで戦っていると娘から聞かされブリストルの家長もさすがに驚いた。
「人手不足でな。私の頼みだ。怒らないでやってくれ、父上」
「確かにアリランはおまえたち子供の剣の指南役だが、腕は私と互角だろ。大丈夫か?」
「父上が強すぎるんだ。どうして騎士にならなかったんだ」
「ドラゴンの方が面白いからに決まっておろうが」
「ちがいない」
ベルセリアは愉快そうに空を仰いだ。父親がちらりと遠くに目をやる。
「ところで、あの空飛ぶ乗り物はなんだ」
「え? ああ、あれは…」
ザビンツ軍に新たな報告が入る。
「空飛ぶ乗り物から爆石を落とされ、我が軍敗走中」
「何?! 新しい兵器か」
「中には三人乗りこんでいる模様で」
ピンとポンだった。パンの代わりに新人のプーティンパオがトゥーランドット号を操縦して攻撃している。動きは不安定でも命中率が高く、幾度も三人から歓声があがっていた。
ここで終始目を閉じ、沈黙していたオリビエが静かに目を開けた。
「仕方ない。まだ薬が完全に効いていないがロイヤルロッホナガー種を投入する」
ベルセリアは戦況を見ようとポチを低空飛行させた。するとガロを見つけた。斧を手にしたトラの魔物数体に囲まれている。何を思ったかベルセリアはポチから飛び降りた。着地したのはガロのすぐ隣りだった。不意の登場に驚く彼にかまわず背後に回る。
「ポチ、おまえは仲間たちとドラゴン部隊で戦ってこい」
「ベルセリア?! いいのか。君は空の戦いが性に合っているんじゃないのか」
「まあな。しかし地上で戦う仲間も放っておけなくてな」
「ベルセリア…」
「背中はあずけるぞ」
「まかせろ。倒れるなよ」
「おまえもな」
同時に二人の剣がトラたちの振り下ろした斧とかち合った。受け流して相手の隙を突き、高く跳躍して剣を振り下ろすベルセリア。受けた斧を押し返してさらに踏み込んで切り込むガロ。その勢いで二人は囲んでいた魔物を次々打ち倒していく。
後ろには一緒に戦う仲間がいる。戦場では何よりも心強い支えだ。
ベルセリアとガロの閃光のような進撃が敵を圧倒する。仲間の騎士たちもその姿に鼓舞され、二人に続けと魔物の群れに躍り出るのだった。
不吉な雄たけびを聞いた。ベルセリアの全身が総毛立つ。本能が警告する。「逃げろ」と。
突如、村の奥から黒い塊があらわれた。味方である魔物をも踏み抜いて近づいてくる。
<巨大な漆黒のドラゴン。国では唯一父上だけが扱えるロイヤルロッホナガー種。普通は牛5頭分の大きさなのに、こいつは12頭分。そのうえ凶暴で気難しい。しまった、父上とは距離が離れている>
敵味方関係なく、全員がその巨大な闇の塊に凍りついた。
木々が小枝のように踏み倒され、家は倒壊し、逃げまどう敵と味方、逃げ遅れた村人が同時に強靭な牙や子供の背丈より大きな爪の餌食となっていく。
「暴走しているのか?! 止められるか、ベルセリア」
ガロの問いにベルセリアは悔しそうに首を横に振る。
「ガメイの時とちがって心に迷いはないが、あいつが強すぎて今の私では倒せないんだ」
もはや退却するしかなかった。
だが、そこへ逃げ遅れた子供を抱えた母親が転んでしまった。子供の泣き声が響く。声に反応したドラゴンの爪が、転んだまま動けず青ざめる母親と子供を同時に引き裂こうとしたときだった。
唸り声を上げてドムラを駆って大柄の騎士が飛び出してきた。トラントドンだった。
大剣でドラゴンの爪を抑えこむ。その隙に母親と子供は彼直属の部下に助け出された。
だが、狂乱のドラゴンの力がまさった。ドラゴンが大剣を握りつぶし、砕いたのだ。
甲冑が砕かれ、体にドラゴンの爪が深く食い込む。圧迫され骨の砕ける音が聞こえた。ドラゴンの手から滴るのは自身の血だけではなく、苦痛にうめく大男の鮮血でもあった。
「やめろ!! 離せ!!」
ベルセリアは剣を手に漆黒のドラゴンめがけて駆けだしていた。ガロもその後を追う。
だが、どこにその力があったのか。肋骨が砕け、激痛で力が出ないはずの騎士団長が怪力でその爪を押し返し始めた。徐々に手が開き、体が自由になっていく。
<すごい! 強いと思っていたが、本当に強かったんだ!>
ベルセリアが目を輝かせたそのとき、ドラゴンが家畜数頭を一飲みできるほどの巨大な口を開け、岩も砕く牙でトラントドンの体を貫いた。
味方の誰もが言葉を失った。
だが、騎士団長はまだ大剣の柄を握り締めていた。折れたとはいえ、まだ刃は残っている。彼は唸り声を上げ、折れた剣をドラゴンめがけて投げつけた。最後の一撃だった。剣はドラゴンの金色の左目に命中した。絶叫してドラゴンは暴れ、獲物を地面へ投げつけるように放ると、空高く飛んで雲の彼方へ消えて行った。
我に返ったガロが声を張り上げた。
「撤収だ! トラントドン殿をドムラに乗せて本陣へ引き返す!」
その声に騎士たちが駆け寄り、鉄クズのように潰れた鎧をまとった満身創痍の騎士団長をガロの指示で担ぎあげようとする。
「もうよい。それより村人を…」
息も絶え絶えになりかけながらも彼らを制する。
「おっさん、しっかりしろ!」
ベルセリアは横たわるトラントドンに駆け寄る。心配するガロもその隣りで膝をつく。
「ああ、君たちか…。情けない顔をするな。戦死は想定していた…」
静かに微笑む彼の手をガロが握る。
「すぐ手当てします。気をしっかり」
しかし彼はすでにすべてを悟ったような穏やかな目になっていた。
「君たち新人に教えなくては。私の最後の仕事だ。なぜ騎士が尊敬されるか。それは誇り高いからだ。誇りとは騎士には自分の命より大切なもの。それは弱き者、仲間、信じるもの、愛するものを命に代えて守り抜こうとする強い意志であり、卑怯、侮辱を許さない精神の気高さだ。リーザカインドが『騎士』を置くのは強いだけでなく騎士道精神を持つ我々こそ国を守るにふさわしいと考えるからだ。ベルセリア・エノテカ、立派な騎士になるのだぞ。ガロ・ソノマ、不思議だが君はすでに」
「騎士道精神を身につけている」との最後の言葉は声にならなかった。
事切れていた。いつの間にか、彼の目は閉じられていた。
「えっ…。待て、待ってくれ! イヤだ! 目を開けろ!」
すがりつくベルセリアの声はすでに届いていなかった。ガロは肩を落としたまま彼女の肩にそっと手を置いた。誰もが悲嘆にくれた。ベルセリアは後悔していた。
<私はバカだった。剣の稽古をつけてくれとせがんでばかりでちゃんと話をしたことがなかった。もっと話を聞きたかった>
ベルセリアの悲痛な慟哭だけがその場にいつまでもこだましていた。
夜になる前に両軍は一旦撤収した。侵攻は食い止められた。
だが、犠牲も多く、特にトラントドンの抜けた穴は大きかった。戦死した騎士たちはその場で荼毘に付された。疫病の防止と騎士として必要以上の遺体の損壊を防ぐためだ。
犠牲はあったがザビンツ軍も落ち着きを取り戻し、オリビエは余裕の表情ですらあった。
「騎士団が来たのであれば予定どおりだ。明日は私も出撃する。なに、いざとなれば」
不敵な笑みを浮かべ、部屋の隅を見た。そこには狩ったドラゴンたちに与えた薬の入った大きな甕がいくつも置かれていた。
一方、リーザカインド本陣でも騎士団長たちが作戦会議の最中であった。
「王が同盟国ダイロンに援軍を頼まれたのか、ティタンジェ」
「ああ。しかし到着は三日後だろう。それまで持ちこたえなくては」
突然テントの中に少年が飛び込んできた。ガロだった。彼は深々と頭を下げた。
「お願いです。オリビエ捕獲部隊に入れてください。故郷の村の敵(かたき)なんです」
その頃、新人たちのテントをベルセリアが暴れて飛び出していた。青年が捕まえる。
「離せ、爺! これ以上犠牲を出してたまるか!」
「どこへ行くんです。統率を乱してはなりません」
「騎士みたいなことを言うな」
「私は騎士です」
「…おまえなあ」
「とにかくいけません」
「だったらおまえも来い! みんな、明朝には戻る」
ベルセリアは指笛でポチを呼び、背中に無理矢理青年を乗せると空高く飛んで行った。
戦地に赴き、シレオンの戦士としての勘が冴えわたっていた。
「今日は活躍だったんだってな」
焚き火を囲む仲間の中から、リューがシレオンをみつけて肩を叩く。みんな疲れてはいたが、善戦の成果から笑い声も聞こえて和やかだ。ピンとポンはプーティンパオを交えてトゥーランドット号を自慢している。負けん気の強いリューが闘争心を燃やした。
「明日はオレもやるぞ。うん? どうしたシレオン」
「何か変だと思わないか」
「変?」
「この戦い、違和感を覚えるんだ。なんだろう。魔物と戦って村人を避難させて…」
顎に手を当てて反芻していたがふと奇妙なことに気づいた。
「リュー、今日はどこにいた」
「ノト村だ。ここから北へ5キロ先の」
「敵は魔物か」
「ああ、トカゲ型が多かったな」
<やはりだ。今日、僕たちは魔物としか戦っていない。なら、ザビンツ兵はどこへ…>
シレオンは先輩騎士を見つけるとリューを残して詰め寄った。
「地図を見せてください。我々の防衛網以外にリーザカインドへ入れる道が知りたいんです。魔物と戦っている最中、ザビンツ兵が手薄になっている場所から侵入しているかもしれません。一度王都へ戻らせてください」
ガロは叩きだされるようにテントから追い払われてしまった。
<やはりダメか。だが、テントで騎士団長たちの戦略地図は見られた。彼らの行動は熟知している。死喰いのいる本陣はヴォルガノ山で攻撃指揮はカリテラ。あいつの作戦なら奇策はない。カリテラの部隊にまぎれ混めば一気に死喰いに迫れる>
決意を新たに新人たちのテントへ戻って行った。
ティタンジェはひっかかっていた。
<オリビエが村の敵? どういう意味だ>
ガロへの疑問がまたもや頭をもたげるのだった。
ベルセリアはポチを誘導して陣から西へ90キロ離れた森に来ていた。開けた平地に着地させる。鬱蒼と樹木が生い茂り、明け方近いのに深い闇に閉ざされている。何かの気配を感じつつも、ベルセリアに倣って青年もポチの背から降りる。
「いるか?」
「ん? いま闇が動いたような? え、動いたのは山…、いやちがう、これは…!」
ベルセリアの声で闇が光を帯び、やがて鈍い緑色の粉をまとったように姿をなしていく。山ではなく、ドラゴンであった。普通の大きさの50倍はあろうか。目を見開いたまま気絶しかけた青年の横で、平然と少女はドラゴンに話しかけた。
「手伝ってくれ、ボス。おまえたちの仲間はかなり毒されているぞ」