ハッピー・バタフライ・エフェクト(第3話)

葵が死ぬ――。
息を飲む私たちに、なおも慌てふためくハチベエが「続きでやんすが――」と畳みかける。
エージェントの報告によると、私は、葵を失い、先輩にふられた反動で勉強に没入。その成果で、本来行く気のなかった理工学部へ進学。研究職に就く。軽い気持ちで、手持ちできる超濃凝縮プルトニウム爆弾の論文を書くも、学食でまちがえて別の教授のレポートを持ち帰る。入れ替わった論文を手にした女性教授が二人の男子学生を誘って爆弾を作成。彼女は不倫相手の国会議員に捨てられたばかり。男子学生二人は就職活動がうまくいかず、世の中に恨みを抱いていた。絶望していた三人はあらゆるものを巻き添えにして死のうと、爆弾をペットボトルに入れて持ち運び、国会議事堂の駅で爆発させ、東京はおろか、日本の半分を吹き飛ばす。
「あーゆー、おーまーえーはー!」
こめかみをグリグリされた。
「痛(いった)! ごめんなさい! 理工学部には行きません!」
「まだ決まったわけじゃない。この未来を阻止しないと。あと僕も生き残らなくちゃ」
「お二人さん、あっしは任務に戻らねばなりませんので、これでお暇いたしやす」
ハチベエのホログラムが消えた。光とともに、私の中からも灯(ひ)が消えた。それは未知の可能性や、将来への期待だったように思う。私の未来にあるものが闇だけに思えた。
私は葵のシャツの裾を引っ張った。
「私がいればまた因果律に影響を起こすんだよね。それに、生きている限り強硬派に狙われるんでしょ。そしたらまた葵が犠牲になるかもしれない。未来を修正して、また狙われて……。それを私が死ぬまで繰り返すの? それなら、いまここで死んでいい。どっちに転んでも将来全然楽しくなさそうだし」
「簡単に言うな! 亜結のいない未来は僕が許さないし耐えられない!」
葵が力強い腕で私の頭を抱きかかえ、胸に引き寄せる。
「二度と死ぬなんて言うな。おまえのためなら、何度でも僕が未来を変えてやる」
鼓動がひとつ大きく高鳴る。よく知っているはずなのに、葵がすごくかっこいい。
そのとき、私の膝の上で苦しそうに子供が咳をした。
「この子、私の風邪が病(うつ)ったのかな。熱があるかも。代わりに私は元気になったけど」
男の子の額に手を当てた葵が顔色を変えた。
「しまった! この時代にはないウイルスは感染しやすいんだ。現代の僕らの風邪は昔の人たちの命取りになる」
「どうしよう。この子、死んじゃう」
「ここに残していけば感染は広がらない。パンデミックも避けられる」
「ダメ! そんな残酷なことさせない! 私が現代に連れて帰って治す。治してこの時代に返せば問題ないよ」
「ごめん、そうだった。この子を連れて元の時代に戻ろう。おまえの時代の15日は僕は死んでいるから、14日の僕の時代に戻るんだ。亜結、その子をしっかり抱いてろ」
子供を抱えると、私の肩に葵がしっかりと腕をまわした。葵がスマホを操作する。風景が歪んだ。すると、あっという間に私たちは葵の家の玄関前に戻っていた。葵の鞄が二つ転がっている。彼が鞄から鍵を拾って素早く玄関のドアを開けた。
「早く中へ。この子には僕の昔の服を着せる。母さんが押入れに取っておいてるはずだ」
私は男の子を抱えて中に入り、押入れにあった服を着せた。子供がどんどん弱っていく。私が服を着せている間に葵はスマホを操作していた。
「任意の時間と場所へ行けるからこれで病院へ行く。亜結は何時に病院を出た?」
「午後5時ぴったり」
「じゃあ、午後5時過ぎに僕らは病院の裏口へ飛ぶ。そこからこの子を受付へ」
空間が歪み、間髪置かず、私たちはうらさびしい建物の物陰にいた。
病院の受付へ駆け込んだ途端、男の子はストレッチャーに乗せられた。看護婦さんが私たちに深刻そうに言い含める。
「集中治療室で治療します。入院の必要がありますからいますぐ手続きしてください。かなり弱っているから万が一のことを考えてご両親に連絡して」
私は震えるばかりだった。けれど、葵は「わかりました」と答えて入院手続きの窓口で手早く書類に記入する。そして震えの止まらない私を抱えるようにして教えてもらった集中治療室へ向かった。治療室の前のソファに二人で腰を下ろす。ドアの上には「使用中」のランプが不気味な光を投げかけ、不吉な静寂が漂っている。
あの子が死んだら私のせいだ。そればかり考えて怖くてつらくてたまらなかった。
「大丈夫だ、亜結。きっと助かる。あとは本人の体力次第だ」
「でも、集中治療室なんて……」
「原始人は強いから。あの子を信じよう」
肩を抱くようにして私の腕をずっとさすりながら葵が慰めてくれる。指も腕も細いのに力強い。知らなかった。葵がこんなに頼もしかったなんて。そばにいながら私は全然気づいていなかった。
そこへ治療室から出てきた年配の看護婦さんが足を止めた。それは私に保険証をお願いした人だった。
「あら、あなた帰ってなかったの。くどいようだけど彼の保険証をお願いね」
 何かがおかしい。あの人に頼まれたのは葵の保険証のはず。でも今は14日だから……。
 私は気づいて病院の壁時計と自分の腕時計を見比べる。壁時計が遅れている。
つながった! 私が飛んだのは“15日午後5時”から“14日午後5時より遅い時間”だったんだ。私の持ち物は15日の時間帯のまま。その時差のずれに気づかず、私たちは私が病院を出た時間に合わせて飛んだ。私が見ている前で運ばれたのも保険証を頼まれたのも、相手は原始時代の男の子。それはすでにタイムパラドックスが起こっていたから。
私は危うく、“男の子と葵を勘違いして出て行った私”と集中治療室の前ではち合わせるところだった。
葵に説明すると「危なかった~」と脱力しながらもギュッと私を抱きしめた。
葵のスマホにメッセージが入る。時空警察からの連絡らしい。しばらくメッセージを読んでいた葵は目を見開いた。
「え、そういうこと?!」
葵がひと呼吸置いて私に向き直る。
「落ち着いて聞いてほしい」
「え。それもう聞きたくないんだけど」
「亜結、事件は起きないといけない。そうじゃないととんでもない齟齬が起こる」
「なんでっ?!」
葵は私を病院の廊下の人気のないところへとつれていった。ハチベエを呼びだす。
「なんでやんしょ、真島の旦那」
「報告を読んだ。事件はどうしても防げないのか」
「それについてはサクラの姐(ねえ)さんから詳しい説明があるでやんす」
ハチベエのホログラムが消え、別の球体があらわれた。ハチベエと違ってチョンマゲがなく、代わりに眼鏡をかけている。体にピンクの数列を走らせたあと、口を開いた。
「はじめまして。私は量子力学スパコンの計測器翻訳AI・サクラです」
やっとまともなヒト、キター! なんか優しい家庭教師のお姉さんっぽい。
「エージェント真島、KQ(キラー・クィーン)をわかりやすく“神埼”で解説するわね。うふっ、あんな重罪犯罪者を優遇してるみたいで、変な感じ」
なんか腹立つなあ。
「まずは、15日に強硬派を事前に逮捕すると、何も起こらないから“15日の神埼”と“15日のエージェント真島”つまり明日のあなたは無事に帰宅する。
15日のあなたたちはそのまま16日、17日と日常を送る。ここまではいいわね」
「はい」
「問題は、“14日に来ている15日の神埼”。彼女も元の時代である15日に戻らないとね。14日には居場所がないから。
そうすると、“タイムスリップから戻ってきた15日の神埼”と、“タイムパラドックスで無事に帰宅した15日の神埼”、この二人の神埼が同時に15日に存在してしまうの」
や、ややこしい。
「だから、神崎にはタイムスリップの原因となる事件を体験させないといけない。体験させたうえで彼女がタイムスリップをした7月15日午後5時に戻らせる。重症だったエージェント真島は死亡し、神埼は15日から16日、17日と日常を送る。タイムパラドックスによる齟齬の回避に事件は必要なのよ。わかったかしら」
「理解は、しました……」
「葵が死ぬなんて絶対ダメ! ねえ、葵、同じ日にちに私が何人も存在したらやっぱりダメなの」
「当たり前だろ。どうやって暮らすんだよ。亜結の家に亜結二人がいるのはおかしいだろ。いまだってかなりあやういぞ。“14日の亜結”と、“僕の家に向かっている15日から来た亜結”と、“15日から来て紀元前から戻ってきたいまの亜結”、の同時に三人の亜結が存在しているんだから。昨日のこの時間、何してた」
「家で先輩に告白る練習してた」
「家から出るなよ」
「出なかったよ!」
「サクラさん、僕が生き残る方法はありますか」
サクラさんは体にピンクの数列もめぐらせず、即答だった。
「二つあるわ。その一。事件を未然に防ぐ。代わりに、“タイムスリップしまくった14日に来ている神埼”を殺す。神埼の存在しない時代に連れて行って始末すれば問題ないわ」
おっかないことサラッと言うなあ。
「その二。事件を未然に防いで、“タイムスリップしまくった14日に来ている神埼”をいまから別人として生かす。これはできないわ。こんな重罪犯罪者にさく予算はないもの」
このヒト、鬼なの!?
「手っ取り早いのは過去を変えないこと。つまり事件が起きて、エージェント真島は死亡。神埼は15日に戻って日常を送る。神埼監視の任務は他の者に引き継がれる」
やっぱ鬼だわ……。
「ねえ、おかしいよ。葵は過去を変えて私を助けてきたのに、私のせいで死ぬなんて。やっぱり、私がいなくなるほうがいい」
「だから、そうじゃないだろ。僕はどの亜結にも不幸になってほしくない」
「葵がいなくなったら明日から私は一人ぼっちになっちゃうよ」
「かなりややこしいことになってきたなあ。安心しろ。刺されても僕は死なないから」
「嘘つき。あんた小学生のときだって私のせいで怪我したのに嘘ついて安心させようとして……。そうか、葵が死ななければいいんだ」
「いや、それはそうだけれど。うん、僕、がんばってみる」
「そうじゃなくて、荒業(あらわざ)だけれど、サクラさんと相談できる?」