不戦の王 コラム「式神の闊歩するとき」
<目次>
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式神とは、ひとことで言えば、
陰陽師の召使の役をする精霊のことである。
西洋でも、ニンフに代表されるように、
精霊と人間の関わりは深い。
イスラム教社会では、精霊はジンと呼ばれ、
呪術師に操られて人間社会に出現すると信じられている。
卑近な例では、かのサダム・フセインも、
ジンの超能力軍団に守られて、
長い間アメリカ軍の捕捉から逃れたことになっている。
奈良、平安の世では、精霊は犬や猫ぐらい
身近な存在だったらしい。
「目には見えないけれど、そこにもあそこにも精霊がいて、
時に人間を助けたり、時にワルサをしたりしている」
本気でそう考えられていた時代だった。
既述のとおり、精霊の祟り(怨霊)から逃れるために、
桓武天皇が三度も遷都を行ったのは、
精霊の跳梁がお伽話の類ではなかった時代だということの
何よりの証拠と言ってよいだろう。
さて、この式神、
どのようにこの世に現れるのかというと、
ふつうは紙を人間や鳥獣の形に切り(形代、カタシロという)、
それに霊を込め、実体化させるのだという。
ただ、安倍晴明や蘆屋道満のような優れた陰陽師は、
形代を経なくても、自分の想念自体を
ダイレクトに実体化できたというから驚く。
次にその式神の働きだが、
式神は、それ自体には感情も知性もなく、
主人の意のままに動くのみ、という存在だったらしい。
だから、主人が悪に用いれば悪神となって人を苦しめ、
時に殺し屋の役もする。
逆に善に用いれば、忠実なしもべとなり、
人を災厄から守り、幸運をもたらす善神として作用する。
民間の祈祷呪法、修験道などにおいては、
おもしろおかしく前者、すなわち殺し屋的な
使役法が強調されがちだが、
あくまで善悪両用というのが式神の実態だった。
また、式神の操作術だが、
その免許皆伝は、陰陽師の修行をどんなに積もうと
なかなか授けられるものではなかったという。
つまり、知識や体技を積みさえすれば
誰でも到達できるという種類のものではなく、
霊的な資質がなければどうにもならない秘術
ということのようである。
そのためか、記録のうえでも、
式神を操作できた人物となっているのは、
晴明、道満のほか数名しか登場してこない。
これほどまでの式神。
残念なことに江戸時代になると、
異端密教系の邪法と結びつき、
単なる呪詛のツールと化して、
平安朝の式神とは似て非なるものになってしまった。
こういう変遷がまた、ただでさえ摩訶不思議な式神に、
いっそういかがわしい臭いをつけてしまったのだが、
この物語の舞台は、幸いまだ平安時代である。
式神が大手を振って人間世界を闊歩していた現実を
どうぞ存分にお楽しみいただけたらと思う。