不戦の王(記)
<目次>
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前九年の役の論功行賞
源頼義、伊予守に。
現役の征夷大将軍、そしてかつては陸奥守であり、鎮守府将軍職でもあったことを考えれば、処罰されたに等しい処遇だった。
これは『陸奥話記』に書かれた華々しい英雄譚と矛盾しており、ここでも『陸奥話記』のいい加減さがあらわになる。
清原武則、鎮守府将軍に。
夷族の長の役職は、下僚の郡司が最高位だったので、破天荒な勧賞だった。
源義家、陸奥守より下位の出羽守に。
親ほどではなかったが、明らかに功績は清原以下という処遇だった。
余話
1 戦勝の証しである「貞任、重任、経清」の首を京に届ける大任は、征夷大将軍源頼義以外の者が果たした。
この事実は、三つの首が偽物であることが暗黙の了解事項だったのではないか、と想像させる。
2 宗任以下の安倍一族は、「放浪かまいなし」として無罪放免になった。
この事実は、貞任の示した陸奥の「完全皇化」姿勢が計画どおりに受け容れられたことを示している。
3 源頼義は、驚くことに、論功行賞の行われた京に呼ばれもしなかった。
4 その処遇(①伊予守にされたこと ②呼ばれなかったこと)を不服とした頼義は、二年間も任地に行かず、陸奥で隠し金山を探し続けた。
が、見つけられなかった。
5 頼義は武則を深く恨み、清原一族を失脚させるべく骨肉あい食む反目を画策した。
それが「後三年の役」の火種となった。
6 後三年の役。
勃発は前九年の役の二十一年後、1083年。
終結は1087年。
父頼義に代わって清原つぶしの主役をつとめた源義家は、戦後、朝廷に論功行賞を求めたが、私戦として切り捨てられた。
源氏は再びほぞをかんだ。
ただ、清原はそれ以後歴史の表舞台から去った。
7 なお、後三年の役のあと、貞任の妹有加(ゆか)と藤原経清との子藤原清衡(きよひら)は、奥州平泉で百年の栄華を極める藤原氏の祖となった。
安倍の分裔はここでもまた安倍らしい世界観を扶植した。
以上