不戦の王 8 黄海の戦い

<目次>
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1057年の十二月。
まるで天上が裂けたかのように激しい風雪が襲いかかり、先を行く味方の姿が5メートル先でもう見えない。
そんな雪嵐の中、源頼義の軍は縄で互いを結び合い、一列になって進んでいた。目的地は黄海柵(きのみのさく・現、岩手県最南部、藤沢町)。そこに安倍五郎正任がいる。
黄海は安倍の守護する南限、衣川柵から東南に直線距離で30キロあまり。正任は勢いにまかせて、そこまで孤軍で突出していた。
                         
黒装束に身をかためた正任軍は、悪鬼のように恐れられた。連戦連勝。正任軍の通ったあとに生首の林ができたのは言うまでもない。
戦う前から戦意を喪失させようとするためか、正任軍は源氏の兵の死体の腹を暴き、手脚をもぎ、もいだ手足を簾に編んで橋を渡したという。
この残虐性、もとより安倍のものではない。
父、頼時が生きていればなんと言うか。おそらく自らの手で正任を成敗しかねないほどに憤ったにちがいない。
しかし、貞任には異なる思いがある。
正任の仕業を聞くと、おっとりとしたお公家顔の頬を曇らせながらも、心の片隅ではほくそ笑んでいた。なぜなら、正任は貞任が想定したとおりの結果を残してくれていたからである。
まず。
「貞任の代になって安倍は変わった」
つまり、戦わずして勝つことを第一にするような不戦主義者ではなく、
「あの安倍もついに牙を剥いたか」
そう思わせたかったのが第一の理由。
そして、第二には、
「そういうふうに牙を剥く正任を貞任は御すことができぬ」
そのことも頼義に印象づけておきたかったのである。
「わざと亀裂を見せて、そこを源氏が衝くのを待つのじゃ」
それが貞任の深謀なのだった。
 
正任軍。残虐性は非安倍的とはいえ、その他の点では安倍の伝統をそのまま体現していると言ってよい。
まず軽装。機動性を重視した防具。
安倍の兵は、貞任、正任、宗任などの大将であっても、大鎧のような大仰なものは身につけない。頭部には半首と呼ばれる鉄製黒塗りの面具をつけているだけ。胴には軽量の練革製の具足。これも黒。そして黒い小型の手楯を持っている。黒という色は、今日でも礼服がそうであるように、蝦夷にとって襟を正した色だった。
武器もまた軽装備。
まずは飛び道具だが、弓は弦を引き絞っても1メートルほどの径にしかならない小さなものを使う。それを洋弓のように横にして構え、連射する。スピード第一主義。刀も、その重さを利用して両手で断つのではなく、馬上で片手で操作できるよう軽い。振り下ろしたり横に払ったりではなく、主として突く。ピストンのように突き出す。フェンシングに近いといってもよい。
唯一長い武器としては、鎌の柄を3メートルぐらいにしたようなものを徒歩の兵が使う。馬の脚、もしくは騎兵の首に引っかけて倒すのである。
これらは、源氏が重装備の鎧兜に、武器も大弓化、長刀化して、長鑓を自在に操れる豪壮さを誇っているのとは対照的。あくまでも山岳地帯での戦闘、あるいは騎馬での身ごなし、それらを前提にしての軽装備だった。
接近戦になると、源氏軍が一矢射る間に、三矢は射る。相手が刀を振り上げる間に、手楯で身を守りながら二、三回の突きを入れてくる。そういう戦い方。フライ級、バンタム級の手数であり、機敏さだった。
それに加えて正任軍は神出鬼没。徹底したゲリラ戦法をとった。これも蝦夷のお家芸と言ってもよい。
決して正面からは攻めない。平原で戦うこともしない。必ずといってよいほど狭い山間部に誘い込む。そしてヒット・アンド・アウェイ。がっぷり四つの相撲はとらない。
また、原則として昼間も戦わない。好天にも来ない。奇襲、不意打ち専門、闇討ち専門というと聞こえが悪いが、これらの戦法は、大軍の集団戦法で攻め滅ぼそうとする朝廷軍に向き合うときの当然の戦術なのだった。
 
安倍五郎正任。
その突出の目的は明快だった。
家長の貞任より先に陸奥国の政庁、多賀城(現、宮城県多賀城市。仙台市の東隣)を陥落させる、ただその一事。
そうすれば、全安倍はもとより、全蝦夷は、誰が一番の勇者であるかわかるはずだというのだった。
しかしその快進撃も、十二月に入って足踏みを余儀なくされた。北上の山地にくらべ雪がずっと少ないとはいうものの、これからは野宿というわけにはいかないし、本格的な冬に備えて食糧を備蓄する必要もある。そのための基地を設営しなければいけないのだった。
そこで目をつけたのが、黄海にある小さな城砦。
幸い、黄海を守備する源氏軍は、正任軍が近づいて来たのを知ったとたんに逃げたので、攻め獲る必要さえなかった。それほどに正任のむごたらしさが恐れられていたということでもある。
黄海柵に入った正任軍は、二日続きの風雪から逃れるように濁り酒を浴び、狸や山鳥をつぶして久々に腹を満たした。

一方。
源氏軍は、正任軍が黄海にひとまず身を落ち着けたとの報を受けると、
「得たり!」
と即座に北上を開始した。日ごろやられているゲリラ戦法の逆手をとるつもりだったのである。
黄海柵は、空濠も浅く、櫓は壊れ、栗の木の柵も方々が崩れている。山峡に誘い込まれるよりは、比較にならないほど攻めやすい。数の優位の集団戦法もとれるだろう。
しかも、この風雪。 
「このような吹雪く日に源氏が攻めてくるはずはなかろうが。これでは敵も味方もわからぬからのう」
そういう油断を衝こうという作戦だった。
正任軍は勇猛ではあるが五百名と数は少ない。
「三倍もおれば充分すぎるほどじゃ。大軍では、この天候ゆえ命令も行き渡らぬわ」
頼義はすぐさま精鋭千五百名を選りすぐり、ひそかに進軍を開始した。
ただ、時とともに勢いを増す横なぐりの風雪に、人馬ともしばしば凍りついたように脚を止めた。
しかし、立ち止まればなおいっそう寒さが身をきしませる。そのため、最初は一列だったのが、少しでも広い所に出ると、いつの間にか千五百名が団子になってしまった。騎馬の将までもが馬から下り、身を寄せ合う兵の中に紛れて風雪を避けた。
そのようにして、予定の何倍もかかって黄海の城砦まであと二里(約1100メートル。当時の一里は三百歩。一歩は1・8メートル)の地点にたどり着いた。そこは、やがては北上川となる地下水が冬でも湧き出しており、北を目指す者は必ずといってよいほど休息に立ち寄る場所だった。
「まさかのう、このような日に、正任軍の見張りが出張っていることはあるまいて」
そのとおり。人間どころか、獣の一匹もいる気配がない。
片側は山地。片側は谷。だが、ここだけ山がえぐられ、千五百人がひと塊りになれる程度の半月形の平地になっていた。
全員、その場にへたり込みたいほどの疲労である。
前方に目を凝らしても、雪はあいかわらず分厚い壁のように視界を遮っている。せめて城砦の影でも見えれば気持も奮い立つのだが、それもかなわない。
「よし。ここまで来れば」頼義はうなずいた。「決戦を前に腹ごしらえじゃ。腹が満ちれば、寒さも多少は和らごう」
兵たちはかじかんだ手で腰の糒(ほしい・もち米を蒸して乾燥させたもの)を口にし、干し肉を無理やり水で飲み込み始めた。
しかし、それにしてもまだ十二月だというのに、歯を合わせることも容易でない寒さである。皆、口をきくことさえできず、つかの間の休息に沈み込んだ。
そのとき。
「鹿が啼きはせなんだか」
最後尾にいた見張りの兵が、吹雪に耳をそばだてた。
「何を言う。鹿じゃとて、このような日には藪の奥に身を潜めとうなるぞ」
「いや。そうではない。たしかに聞いたぞい」
「まあ、それならそれでよいがな。鹿がおったからとて、それが何じゃ」
仮に熊が出ようと、逃げることさえおっくうじゃ。そんな状態である。鹿のことは言った本人でさえ数秒後には忘れてしまい、寒さにガチガチと歯を鳴らし始めた。
しかし、歯を鳴らしている場合ではなかったのである。
鹿の声は貞任と宗任の連合軍、一千人の攻撃開始の合図だったのである。

源氏軍、逆手をとってゲリラ戦を仕掛けるつもりが、やはりそうはいかなかった。
六男重任を傍に従えた宗任軍四百が、まず急斜面から大小の石を転がし落とした。ゴウゴウと大地を揺らす大雪崩のような轟音が最初耳を打った。が、身に迫りつつある危険が何なのか、風雪の壁のため目には見えない。半月に取り囲むすべての斜面から、その音はする。源氏軍はただ呆然と視線を宙に泳がせた。
そして轟音の正体が見えたときには、もう遅かった。大きなものは身の丈を超えるほど、小さなものでも人頭大の石が、雪煙の中から突然に襲いかかってきた。
その第一波の石雪崩で、山側にいたなんと二百人もが死傷した。街道、といっても当時は人が二人並んで通れない道幅なのだが、それへの出入り口も大石で巧みに塞がれてしまった。
転がるように谷に逃れようとした兵を待っていたのは、反対斜面の高所に陣取った貞任軍六百の矢嵐。
けっきょく数分後には全員が、この狭い半月形の平地から容易に逃げられなことを悟った。
そう悟ることは、ここで死ぬことになるのを悟るということでもあった。まだ息のある源氏軍約千三百人は、頼義とその嫡男義家を中心として、見えない敵に必死で目を凝らし、おしくらまんじゅうのように固まった。
「恐れるでないっ。わしに続けいっ」
義家は巨眼。真一文字に吊り上がった眉。いつも奥歯を力まかせに噛みしめているような大きな顎。八の字の口髭に顎鬚。その大きな顔を振りたてると、矢の標的にされることも恐れずただひとり騎乗し、身を寄せ合っているだけの兵たちを怒鳴りつけた。自ら黄海への道を拓こうというのである。
しかし、そのとき信じられない第二波の攻撃が始まった。雪煙の山の斜面に、突然数十本の丸太が起ち上がったのである。
高さ15メートル。それらは降り積もる雪の底から、片端を縄に引かれていっせいに屹立した。
(囲まれたぞっ)
檻のイメージである。しかし違った。檻ならまだよかった。檻が倒れた。おしくらまんじゅうをする兵の頭上から倒れかかってきた。源氏の兵は必死で先ほど落ちてきた大石の陰に身を避けるが、避けきれない兵が口から血を吹いて倒れる。
「北へ向かう軍が、必ず足を休めるこの地を緒戦の決戦場とするのじゃ」
それは、正任の続ける孤軍の戦いを読み、それをいわば囮にして、貞任たち本隊が仕掛けておいた罠だったのである。
「やがて正任が黄海まで下がれば、源氏は正任を脆弱な黄海柵に封じ込める絶好機とみて、間違いなくここを北上して来よう」
その想定どおりとなった。もっとも外れるはずはなかったのだ。大軍が黄海に至れる街道は、ここしかないのだから。

狭所でのゲリラ戦こそ蝦夷の本領。
そしてできるだけ自らは刃を振りかざさずに勝ちを収める、不戦主義こそ安倍の伝統。
それを形にすればこうなる。まさにそういう貞任の戦い方だった。

しかし。
貞任、宗任初めての戦いはすべてが計算どおりには運ばなかった。
囲まれて死を覚悟した源氏軍は、槍隊を固めると三段に穂先を揃えて壁をつくり、退路となる街道を守る宗任軍に向かって攻めかかった。
この戦法は、戦国時代に織田家によって工夫され、それまでは武士の補助的な役割でしかなかった足軽に三間の長柄槍を持たせることで、一躍集団戦の主役に仕立て上げられる。
「槍ぶすま」のはしりである。
攻める側にも攻められる側にも雪嵐で相手がよく見えない、と先ほど書いたが、その状況がこんどは源氏に幸いした。横なぐりの雪の中から、突然に密集した槍先が現れた。
驚いたのは宗任軍である。そんな戦法があるとは知らなかった。
「戦いを仕掛けられたら、頃合をみて退けよ。決して刀を合わせるな。敵が退いたら、また攻めよ。一気に勝敗を決しようと焦るな」
そう命令されていた宗任軍の兵は、槍ぶすまの正体をよく見極めもしないまま、ずるずると尻から後退し始めた。
「勝たなくともよい。負けねばよいのだ」
という不戦主義は、戦場でしばしばただの腰抜けをつくる。勝つ力があるのに、それを温存して深追いしないのと、最初から戦わないのとではまったく違う。
宗任軍の守備を預かる将は、声をからして戦陣を整えようとするが、兵たちは雪嵐のため将の姿さえよく見えない。命令をきく、きかぬの問題ではなかった。ついに一人が背を向けるとそれが伝染し、全員が敵に背を見せて山の上に駆け登り始めた。それを勢い込んで源氏軍が追い散らす。宗任軍の一角があっけなく崩れた。

先制パンチに戦意を失いかけていた源氏軍だったが、いざというときの退路を確保できたとわかって、それだけで息を吹き返した。
幸い、雪嵐も一時の勢いを失いつつある。視界も開けてきた。
「ありがたやっ」
闘将義家を先頭に、反対斜面にいるはずの貞任軍に向かっても大弓を引き絞り始めた。
総反撃の開始である。
悪いことに、貞任軍には宗任軍が退路を破られたことさえわからない。貞任は、息もつかせぬ第三波の攻撃で、宗任軍が鉄菱の雨を降らせるのを待っていた。
「何を手間取っておるのか…」
貞任、応戦しながらも、源氏軍の反撃に少々焦りをみせた。
鉄菱の雨が計算どおりの効果を表せば、源氏軍は立って歩くこともままならなくなるはずだった。足の裏から戦闘能力を奪う。それを待って、貞任軍が弓矢の餌食にする。
接近戦に持ち込むことなく完勝。そういう作戦だった。
雪嵐がゆるんだ視界の中に、貞任はしかし、あるはずのない光景を見てしまった。源氏軍が進撃を開始したのだ。
「ひるむなっ。一気に黄海を落とすのじゃっ」
義家を先頭にした源氏軍は、槍隊で三重の壁をつくり、黄海柵へ通ずる出口へと迫った。宗任軍、またも戦わずしてたちまち山上に退く。
(なんと。見れば、退路も破られておる。ここを決戦場にする策はもはや消えた。あとは正任の軍の出方しだいだが…)
貞任がそう思ったときである。
貞任は再びあるはずのない光景を目にした。
半月形の地から討って出ようとする源氏軍の背後に、突如、騎馬の一団が雄たけびとともになだれ込んできたのである。
それは真っ白な世界に、朱色の風を吹かせたように走った、いや、舞った。
先頭には「八身」と大書した幌をなびかせた武士がいる。なんと、八身の陰陽師が騎馬軍団を率いて駆けつけたのだった。
北方騎馬民族の軍団は、揃いの朱色の幌を背になびかせている。その数約五十騎。半首さえつけない軽装。八身以外は赤茶色の長髪、顎から頬を覆う同色の髭。高い鼻。大きな目。いかった肩。それが、くさび型に隊列を組んで、源氏軍の中を一気に駆け抜けた。
源氏の将士は、その異様さを目にしただけでも腰がひける。
「これがもしや、噂に聞いた蝦夷の赤鬼か」
馬が、何しろ速い。そして二まわりは大きい。
騎馬軍団は、その裸馬に近い簡単な鞍から半身を乗り出し、背に立ち上がり、跳び下りたかに見えてまた跳び乗り、あるいは迎撃を受けるとクルリと馬の腹の下に回転して身を隠す。まさに曲芸を見ているような馬術。
止まって刀を振るうことはしない。
馬上から、ある者は弩(ど・弓の一種)を射かけ、ある者は手槍を投げ、雪煙とともに駆け抜けるだけである。
最初の五十騎が南から北へ走ったと思ったら、こんどは酋刈乙比古(おさかりのおとひこ)に率いられた毛無の五十騎が駆け抜ける。次は乙比古の娘、朱鳥(あけどり)を先頭にした五十騎が、いちだんと明るい朱色をなびかせて疾駆する。
朱鳥が八身へ、その彫の深い輝く笑顔を向けると、八身がそれに応えて北から南へ走る。そして乙比古。それから息もつかせず朱鳥が折り返す。計百五十騎の朱色の疾走。
その一走で二、三十人ずつ源氏の兵が斃れた。
さながら鰯の群にオニカマスが襲いかかるようなものだった。
その抜きさしのあまりの速さに、源氏軍は円陣を組む余裕すら与えられない。それどころか源氏軍、個別撃破されるのを待つように、しだいにちりじりになっていった。
(蝦夷の騎馬軍団、恐るべし)
源頼義は近臣に楯として囲まれながらも、五十九歳にして膝の力が抜け落ちるほどの恐怖を感じた。