不戦の王 9 情けは人のためならず

<目次>
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浮き足立っていた宗任軍の兵に余裕が戻った。
「北の騎馬軍団、いま頃は兵糧の奪取のため南に向かっているとばかり思うておったが…」
宗任は傍らの重任を振り返った。
「わかりませぬ。おそらく八身様ご自身の判断でありましょう。あの方の頭の中にあることは、とうてい理解できませぬ」
「そう。そのとおり。八身のお方には、我らの苦戦も見えておったということか…」
「しかし、救われました。この場で決着つけましょうぞ!」
北浦六郎重任二十三歳が意気込む。
騎馬軍団の駆け抜けた後のわずかな空隙を埋めるように、向かいの貞任軍はもとより、宗任軍からも矢の嵐が降りそそぎ始めた。源氏軍はそれで、まったく逃げ場がなくなった。味方の死骸を積み上げてその陰に身を隠すしか、もう命の永らえようがない。
わずか二十分後。まだ生きている源氏の兵は、ついに二百人ばかりになった。

そのとき、源氏軍にとっては騎馬軍団の出現以上に恐ろしい事態が出来した。
戦闘を知った正任の軍が、やっと黄海から駆けつけてきたのである。正任は貞任を探し当てると、源氏軍を攻撃する前に噛みついた。
「何ゆえにわしを呼ばぬっ。出し抜こうとしても、そうはいかぬぞ。こうまでして勝ちを独り占めしたいかっ」
正任は、貞任が源頼義を破る手柄を渡したくないから、自分を呼ばずに戦を仕掛けたと解釈したのだった。
「おぬしに頼義、義家を討てると思うてか! やつばらの命がまだあったのは天佑。源氏の将は、安倍の将にふさわしいこの正任に討たれたがっておるのじゃよっ」
正任は逆立てた髪を振り立て、わざとらしく哄笑すると、風雪を真っ二つにするほどの大音声で叫んだ。
「いざ、生首をあげよっ。腹を割けっ。この天地に血吹雪を起こすのじゃっ」
正任の兵は、いつも腹をすかせたオオカミのように敵に向かう。正任軍にやられるぐらいなら、自ら命を絶ちたいと思いたくなるほどの、あの殺戮開始である。
貞任は無言で正任軍が山を駆け下りるにまかせた。
八身と乙比古に率いられた騎馬軍団も、前後の退路を塞ぐかたちで馬を集結し、正任軍の手並みを見守る構えをとった。
それは、いずれはそうなろうと貞任の予測していたことでもあった。
「正任が駆けつけることは充分考えられる。ならば、そのときはそれでよい。正任にも出番をやれ。正任軍が来たら気前よく戦場を譲ってやるがよい」
貞任は、あらかじめ全軍にそう申し渡してあった。
そうとは知らない正任軍。
「血を浴びるが怖いかっ。遠くから矢を射るばかりが戦ではないぞ。腰抜けどもがっ。安倍の恥さらしじゃ。命のやりとりとはどうするものか、見せてくれるわっ」
仲間の貞任、宗任の兵を嘲笑するかのように刀を振るい始めた。
悲鳴こそ、飛び散る血しぶきこそ、正任軍の喜びである。まだ息のある負傷者を見つけると、その喉をわれ先に裂く。源氏軍はその断末魔の悲鳴を背にしながら、味方の屍を踏んで谷へと逃れた。直接正任軍の手にかかるより、貞任軍の矢の標的になる方を選んだのだった。
そんななか。
大将頼義は、しんがりの防戦を息子の義家に任せ、ひたすら逃げの一手。回りを六人の武者に囲ませ、頭上には屋根状に楯をかざしている。まるで移動式シェルターに潜り込んでいるような格好だ。
頼義はその声望とは裏腹に、根っからの戦べたなのだった。
うつむき加減にせかせかと小股で歩き回る物腰からして、「一軍の将どころか、そこらの農夫よりもみすぼらしい」との陰口も。
その顔は、心配事が頭から離れないかのように眉を八の字に下げ、眉間に縦皺を寄せている。そして相手を見るときはいつも上目づかい。
だが、ある種の度胸のようなものはあったらしい。
弱さをさらけ出した開き直りとでも言おうか。踏まれようが唾を吐きかけられようが首をもたげ、最後まで「まいった」とは言わないしぶとさ。
が、しょせんは勇武に背を向けた頼義。もし父頼信が築いた源氏の名声、「平忠常の乱」の平定がなければ、いまごろは御所まわりで門番をしている程度だったかもしれない。

ところが。
それと正反対なのが子の義家だった。
義家だけが眉を吊り上げ、巨眼をひん剥いて大弓を引き絞り、迫り来る正任軍の正面に立ちはだかっていた。
隔世遺伝。祖父頼信ゆずりなのだろう。義家が源氏の英雄として全軍に名を売った最初の戦いが、このときの勇猛さだった。
義家は死が決定的なこの状況において、背後に十万の味方がいるかのように悠然と構え、矢を放ち続けていた。その凜とした、美しい絵を見るような姿には、狂気をはらんだ正任でさえ一瞬見とれた。
「およそ人間技ではなかった。まるで後光が射していたかのようなあの姿。あれでこそ八幡太郎義家じゃ」
後日貞任も、そのときの義家の武者ぶりに称揚を惜しまなかったという。
とはいえ。
現実は、義家一人で獰猛と言ってもよいほどの正任軍を防ぎきれるものではなかった。義家の奮闘は、燈火が消える前に立ち昇る一瞬の炎に似た所業だった。けっきょく正任軍十数名に矢を食らわせただけで、義家もついに谷へと逃れほかなくなった。
正任軍は、すかさずかさにかかる。
かくして源氏軍は、貞任軍の矢で、正任軍の刀で、一人また一人と血しぶきをあげ続け、ついに頼義、義家を含め、わずか七人だけが谷底の渓流に追い立てられるに至った。
正任は赤い目を剥いて、勝ち誇った罵声を発した。
「おのおの方、見ませいっ。安倍正任の前に、いまあの坂東武者に崇められた源頼義、義家親子が、後のない命をさらけ出して震えておる。源頼義、義家両名を討ち果たすのは誰であるか、よいか、その口で語り継げいっ」
正任の配下、五百匹の狼が、七人のはらわたを食いちぎろうとして、命令をいまかいまかと待っていた。
と…。
「それまでにせよ、正任」
待っている命令とは真反対の言葉が、正任の兵士たちの耳に届いた。あまりもおっとりしているので、すぐには命令としては受け取られないほどだった。
意表を衝かれたのは、正任、そして正任の兵だけではない。頼義、義家もふくめ、その場の全将士が驚いた。
「戦いはこれまでにせよ。もはや源氏の血を見ることは無用。これにて引き上げませい」
声の主は貞任だった。
戦場にいながら、すでに半首さえつけていない。安倍一族の総帥、貞任にとっては大事な緒戦であることを忘れているかのような、柔らかなほほ笑みがその頬には立ちのぼっていた。
崖の縁に立つその貞任をギリギリと見上げ、正任が予想どおりの言葉を返した。
「なんと。その言葉、聞こえぬわっ。国守ゆえに情けをかけられるのか。それとも、勝つ必要はない、負けぬように戦えという安倍の教えをまだ後生大事にいただくつもりかっ。いま頼義、義家を逃がせば、後に大難を生ずること必定。わしが二人の目の玉をえぐり出し、この口で噛み砕いてやるわっ」
「待て。待てと命じたのが聞こえたなら、おとなしくそのようにすることじゃ。皆から選ばれた盟主の言葉を聞かぬなら、もはや一族とは言えぬ。それ相応の覚悟をしてもらわねばな」
言っている内容はけっこうきついが、声音の方はあいかわらず切迫したこの場にふさわしくない穏やかなものだった。
貞任が軽くうなずいたのを合図に、背後に貞任、宗任千人の兵が弓を構えた。その背後からは騎馬軍団の弩が正任に狙いをつけている。正任は、しばらくは事態が呑み込めない。
(貞任が弟のわしに矢を射かける?)
まさか、である。
(そんなことがあろうはずがない)
しかし正任は、貞任の相手を包み込むようなゆたらかな眼光を見て、この場の生死をどちらが握っているのかだけは、やっと正しく理解した。
「お、おのれいっ…」
およそ味方の、それも兄に対して発すべきではない一言を、正任は内蔵とともに吐き捨てた。しかし、貞任があいかわらず柔らかく語りかけた。
「正任。これまでの働きには感服致す。安倍のため、全蝦夷のため、充分に働いてくれた。それはようわかっておる。が、ここのことはもうよい」
正任は、自分の命を握る千の矢を右から左へ、いまいましそうに凝視し、唇を震わせた。貞任の頬からは、ほほ笑みが去らない。正任は貞任が鷹揚に構えれば構えるほど、怒りが突き上げてくるのを制御できなかった。肩が震える。握りしめた両拳が震える。
「正任。清酒(すみさけ)が手に入った。後ほど黄海柵でいっしょに酌み交わそうではないか」
この時代の清酒は、天皇でも好き勝手に飲めないほどの貴重品だった。国守、源頼義程度では見たことさえない。それほどの物がこの戦場にあり、それを共に飲もうという。
(ま、まことであろうか)
頼義は事の成り行きに震えながらも、八の字眉の下の衰えた視力で貞任を一心に見上げる。
一方正任は、どんなに激しく挑みかかろうと、いつも貞任に吸い取られてゆくような自分があることに、このいまも腹がたっていた。とにかく大声をあげるしか貞任には対抗策を思いつかなかった。
「黙れっ。ええい、清酒などと、たわけっ。花見の宴ではないぞ。戦場じゃ、戦じゃっ。清酒など、そこらの熊にくれてやれいっ」
「やれやれ。源氏の衆もおられる。そのような大きな声をあげるでない。源氏をここまで追い詰めたのは、正任の力があったればこそ。それは源氏はもとより、いずれ倭人の朝廷にも聞こえるであろう。安倍一番の勇者は誰か、誰にもようわかっておる。そのうえで言うのじゃ。わしの話を呑み込めと。わかるな、正任」
正任はそのとたん、扉を叩きつけるように貞任に背を向けた。これ以上正対していると、意図せず貞任の言葉にうなずいてしまいそうになる自分があることを知っているからだった。
そんな不思議な力を秘めた、とてつもなく大きな微笑だった。正任は突如、噛みつく相手を替えた。
「頼義、義家っ。わしの面をよおく覚えておけっ。もういちどこの面を見たときには、その命、ないものと思えっ。わかったかっ」
そして、そのまま黄海柵の方へずいずいと歩き始めた。
「あとで行くぞ、正任。干し鮑なぞ焙って待っておれよ」
貞任がその背に冗談とも本気ともつかず、のんびりと呼びかけた。
残された正任軍は貞任を見上げ、それでも盟主に対して一礼だけはすると、あたふたと正任の後ろを追い始めた。
戦場には、貞任、宗任、重任、八身の陰陽師、酋刈乙比古たちとその将士、そして貞任を見上げる七人の源氏だけとなった。
見上げる頼義の目が、用心深く貞任をとらえていた。
(我らをどうする気じゃ、いったい。あの正任から命を助けよって…)
わけがわからない。全滅に近いほどの痛手を与えておきながら、命を助けるなど、にわかには信じがたい。貞任の父、安倍頼時なら、おおよそのことは読めた。頼時は、理不尽なことをされると反抗はするが、しかし国守の命にまで手をかけるようなことはしなかった。国守との、つまり倭人の朝廷との最終的な妥協点は、いつも残したうえでの反抗だった。
(しかし、貞任はどうであろう。貞任もやはり父に倣うというのか)
貞任は、表情には何も表さず、ただ黙って頼義を見下ろしている。
頼義も死の淵に立ちながら、懸命に源氏の尊厳を保とうと、ふだんはあまり上げることのない顎を持ち上げている。
全軍が二人の視線の緊張を見守った。
やがて貞任が、頼義に一つうなずいてみせた。
(む…?)
頼義の心配性げな眉がひくひくと震える。「行け」ということか。
が、まさか、とも思う。しかし、もしこの命が助かるものなら、ここは体裁にかまわず、生きながらえることじゃ。体面ごときものは後日どのようにでも回復してみせられる。
試みに、頼義、それとわかる程度にそっと頭を下げてみた。
上目を上げると、その視線の先で貞任がかすかにうなずき返した。それだけではない。兵たちをすべて後方に下がらせた。
源氏軍生き残り七人の視界には、崖の上に貞任一人が見えるだけになった。
頼義がつぶやいた。
「安倍の情けとは、このことか」
不戦主義の安倍の伝統をまざまざと想ったのである。義家も言った。
「貞任の代になって、正任のような野人が野に放たれ、安倍は変わったと思うておりましたが…」
「いや。やはり安倍は安倍じゃ。勝敗の決したいま、もはや血を流さぬのが安倍の作法じゃによって」
「しかり。存じております。とはいえ、それにしても安倍貞任、小憎らしや。この源氏にゆとりなぞ見せつけよって。源氏が安倍ごときに情けをかけられるとは…」
「何を言う、義家。ここは戦場じゃ。戦場では最後に命のある者が勝ちじゃよ」
まるで、二人の小さなやりとりが聞こえたかのように、そのとき貞任が静やかに語りかけてきた。
「天下に聞こえた源氏の頭領、頼義殿ならおわかりであろう。命の値打ちを最も知るのは、命がけで戦場を走る我ら武士。京の公卿ではありますまい。ならば、武士たるもの、もう一方で命をその値打ち相応に扱ってもよいのではありますまいか。ただ殺すだけが武士の道ではありますまい」
武士、すなわち殺し屋。殺戮を生業とする卑しい者たち。貴族が戦うときのツール。そう蔑まれていた時代である。
先に、この十一世紀半ばは京でも武士道が芽生え始めた頃だったと書いたが、安倍一族は一般教養面は言うまでもなく、その死生観においても、おそらく都の貴族たち以上に哲学的であったのかもしれなかった。
とにもかくにも頼義ら七人は、万死の中から拾った命を載いて、源氏としての精一杯の虚勢を背中に見せながらその場を離れた。
遠矢の射程から外に出たとき、頼義の頬には、やっとなりふりかまわぬ喜びが浮かび上がった。
(武士道か何かは存ぜぬが…)
安倍のかけてくれた情けを半分は嘲笑いたい気分でもあった。しかしもう半分では、命のやりとりを生業とする武士同士だからこそ助けられた命に、一種の感動を覚えないでもいられなかった。頼義はつぶやいた。
「貞任という男、なかなかの傑士。あやつとは、このままではすまされまいぞ」

「解せませぬ。こんどばかりは解せませぬ」
七人を見送りながら、宗任が切れ長の一重の目にかかる前髪を払い上げ、声を抑えて兄に訴えた。
「なぜ源氏を壊滅なさいませぬ。戦を長引かせただけではござりませぬか。きょうばかりは、正任に理があるように思えます」
そのとき、八身が馬をおり、貞任、宗任、重任三人の傍らに立った。貞任に代わって八身が宗任に答えた。
「源氏はきょう、二つのことを学んだものと存じます。一つには安倍の強さ。そして二つには安倍の情けを」
「そ…それが、こののち、どのように役立ちますので?」と宗任。
「安倍は変わった。しかし、変わってはいなかった。そう源氏は思うたでありましょう」八身が応えた。「それでよいのでござる。もし頼義に人並みの知恵があれば、安倍の情けは、強いからこその情けとわかったはず。貞任殿を戴く安倍も、先代の頃と同じく、決して戦えないのではない。戦わぬ。血が怖いのではない。血が嫌いなのじゃ。それがわかったはずでござる。充分に強いからこそかけることのできる情けとわかった。それが骨身に沁みたはずでござります」
「はあ。それは確かに」
「ただ…」
「八身のお方。その先はこの口から」貞任が後を引き取った。「これまでは源氏にとっての話。ここからは我ら安倍の話をいたそう」
「…?」
宗任、重任の眼差しが貞任に集まる。
「よいか。安倍貞任、決して情けなどかけたのではない。我ら安倍のために助けたのじゃ。考えてもみよ。ここで源氏の親子を殺せばどうなる。京の公卿どもは、あの天下一の源氏が敗れた、これは一大事と、すぐにでも十万、いや二十万を超す軍勢を陸奥の大地に差し向けよう。それでよいのか、宗任?」
「そ、それは…陸奥の荒廃を呼び込むようなもの…」
「それもある。が、それだけでもない。我らの軍略を上手に転がすには、頼義のような、戦べたであるのに諸欲だけは深い敵将に生きておってもらうことが肝要なのじゃよ。もう少し時が移れば、自ずから宗任、重任にも巨細がわかろう。頼義は、きょうをかぎりに、出羽の清原に走ることを真剣に思い始める。清原に加勢を頼むしか安倍を倒す道はない、そう思うたはず。それが第二場の始まりである」
「頼義が清原に走る…しかし、その清原と我らはすでに通じており申す…あっ、なるほど…なるほどっ。そういうことでござりましたか。やっと得心いたしましたぞ」
「そうか。少しは見えてまいったか。そういうことである、宗任。のちほど重任にも話してやるがよい」貞任は明るい眼差しをそこで八身に転じた。「ところで八身のお方、なにゆえにここへ」
人前ではあくまで八身は八身。長兄太郎良宗は死んだことになっている。
「ははは、敵味方さえ定かに見えぬ戦、何が起こるか読めませぬ。後ろ備えなく戦うのはいかがなものかと馬首を廻らせたしだい。ご迷惑でありましたか」
「なんの。おかげで長期戦にならず、救われ申した。衷心よりお礼申しあげます。酋刈殿にもぜひ良しなにお伝えくださいますように」
「心得ました。さて、雪も小止みになってまいりました。我らはこれから藤原経清(つねきよ)殿に合力いたします。それではこれにて」
「ご無事を祈ります。次は衣川でお待ち申しております」
八身は弟たち一人ひとりに目礼すると、身を翻して乙比古と朱鳥の待つ騎馬軍団に走った。
「さあ行くぞ、宗任、重任。雪も間もなく晴れよう。正任と清酒を飲む頃には、月見ができるやもしれぬ。鎌のような冬の月も、凛としてなかなかのもの、ははははは…」
安倍軍の負傷者は、義家の矢を受けた正任配下の者だけ。貞任、宗任軍はほぼ無傷。
完勝という言葉さえ物足りないほどの勝利。
しかし、貞任は全軍に勝ち鬨ひとつあげさせず、ただ穏やかな笑みを浮かべて馬上の人となった。