不戦の王 10 弱虫源氏

<目次>
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騎馬軍団は風雪の中から忽然と現れ、衣川以南、つまり安倍の管轄外の諸郡から官物を奪取した。
ただ、八身は先頭に立つことはしない。
表向きその軍団を率いているのは、朝廷側から寝返った藤原経清だった。
経清は、元はといえば、陸奥守に準ずる陸奥権守という高位の士。いってみればナンバー2、副知事格だった。
血縁関係を結ぶことで勢力拡大を図ってきた安倍頼時は、なんと陸奥ナンバー2の経清にまで食指を伸ばし、自分の娘、有加(ゆか)を嫁がせていたのだった。
もっとも、経清の方にも多大なメリットがあった。安倍コネクションで得られる黄金を関白頼通に献上し、点数を稼げるからだった。
経清が赴任した頃、藤原一族の氏寺の興福寺、次いで頼通の娘寛子の信仰篤い長谷寺が、相次いで焼失した。そのため頼通は、再興に必要な莫大な造営料を各貴族、豪族に割り振り、経清にも当然ながら寄金の要請があった。
寄付の強要は困りものだが、応え方によっては頼通のお覚えをよくするチャンスでもあった。そこで経清は安倍との婚姻話に積極的に乗ったというわけだった。
そして。
このまま任期切れを迎えられたら、何も安倍に鞍替えする必要などなかった。
ところが。
あるとき頼義は、経清の心胆を寒くさせることをやった。経清同様、頼時の娘と「双方お得婚」をしていた平永衡(ながひら)という武将の首を突然に刎ねたのだった。
理由は、野営中の永衡の銀の大兜が異様に目立つことを見咎め、
「その兜は、頼時の娘を娶ったおのれの所在を安倍軍に教え、間違っても矢を射かけられぬようにするためであろうが!」
二心あり、ということだった。
そんな永衡の災難を目のあたりにした経清、他人事ではなかった。
「兜は言いがかりじゃ。これは安倍につながる者を粛清する嚆矢(こうし・戦端を開く合図の矢)やしれぬ。次はわしの首を…」
足の下に薄氷を踏むような不安が走った。
が、すぐバタバタするほど小者ではない。自らは平然と頼義、義家の傍に仕えながら、ひそかに家来に偽りの風聞を流させた。
「安倍が多賀城におる頼義の妻子を狙って兵を挙げた」と。
それを伝え聞いた頼義、すぐさま多賀城に兵を向けた。
経清は源氏親子の注意が自分からそれたその機に乗じて、有加とともに安倍頼時の膝下に入った。
喜んだのは安倍頼時。
なぜなら、藤原経清は陸奥源氏軍きっての勇将。源氏軍にとっては大きなマイナスだが、安倍軍にとっては大プラス。ダブルの効果をあげるスター選手の移籍だったのだから。

その経清。
貞任の代になっても変わらぬ忠誠を誓い、いまは官物奪取のゲリラ部隊を預かっている。そばには知恵者八身がつき、実戦部隊は乙比古が動かす。これ以上に強いゲリラはそうそうあるまい。
ただ経清も八身も乙比古も、安倍の流儀で、諸郡の蔵を警護する役人や兵を殺すようなことはしなかった。
自分たちはただ巌のように、でんと腰を据えているだけ。各郡の庁には使いの者が走る。陸奥国のかつてのナンバー2の威厳である。
使いの甲士(こうし・武装した兵士)に経清は、徴符のことで歴史に残る名セリフを吐いた。
「白符を用ゆべし。赤符を用ゆべからず」
徴符とは、朝廷に納める租税(官物)につける送り状のことだが、赤符が朱の国印の押してある徴符、白符が国印のない徴符。つまり経清は、現代語で言えば、
「官物に添える中央政府の印のある書類は破棄し、無印の書類に替えなさい」
と命じたのだった。
添え状が白符ということは、つまり租税として納められた物ではないという意味で、元の「民の物」に返ったということになる。経清は国家主権をそうやって正面から堂々と踏みにじった。
過去には幾度も武力による朝権への挑戦はあったが、中央政府の制度を否定する形の挑戦は、史上初めてのことだった。
この上ない無礼。
盗賊のように盗まれたのなら、相手を盗っ人呼ばわりして蔑むこともできるが、さながら公務のように、納められた官物を返させたのだった。
「おのれ経清、国守の顔に泥を塗りおってっ」
頼義はかつての部下に、物質的損害に加えて、プライドまでも奪われた。
しかも。
相手の力量を見切っているかのように、急ぐでもなく焦るでもなく、領内を悠然と闊歩している。
黄海で完敗を喫したばかりの頼義は、征伐の兵を起こす気力もなく、牙の抜けたライオンのように身を縮めているしかなかった。
このことは、
「将軍、これを制すること能わず」
と、源氏礼賛の書『陸奥話記』にも記されている。つまり、これはいかに源氏びいきでも弁護のしようがないほどぶざまなことだったのだろう。
「こうなれば、当座のことは出羽に助けを求めるしかあるまい。出羽守にすぐ特使を走らせよ」
頼義は義家にかろうじてそう言い残し、多賀城の自室にこもったきり、何日も誰とも顔を合わせなかったという。
知ってはいたものの、あらためて思い知らされた安倍のなんという強さ、なんという賢さだろうか。
黄海での惨敗だけでも落ち込んでいるのに、名誉毀損と食糧危機まで追加された頼義は、悔しさと腹立たしさ、そしてそれ以上に始末の悪い恐怖心から、暗い目に涙をためて五十九歳にして幼児のように袖を噛んだ。

八身、経清、乙比古。
安倍の軍糧調達軍は、諸郡から炊くために必要な薪まで提供させ、それらを騎馬軍団で守りながら、悠然と衣川柵まで運び込んだ。
けっきょく出羽からの援軍は来なかった。
出羽守としても、自分の残り少ない任期中にあの決して負けない安倍を敵に回し、いまさら人事考課を最悪にする敗将になるなんて、とんでもないことだったのである。
源頼義は近くにいる唯一の味方にも見捨てられた。
(もはや、あの安倍に対抗できるのは、同じ蝦夷、出羽の清原しかない。夷をもって夷を討たせる。安倍には清原じゃ。清原じゃっ、キ、ヨ、ハ、ラじゃあーっ)
追い詰められた源頼義は、心の内で絶叫した。
が、それがじつは、安倍貞任、そして八身の書いた絶妙のストーリーだとは、もちろん知る由もなかったが。