不戦の王 12 白狐の血

<目次>
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「わたしは八身さまが、安倍晴明というお方と同じに化生の者であられると、いつまでも信じていとう存じます」
朱鳥は熊の毛皮の上で崩していた膝を改めた。八身も姿勢を正した。
「私自身も呪を唱える際、おのれを化生と信じ込むことで本領にはない力を授けられる時があるように思えます。ただ、そのことはそのこととして、私はあくまでも朱鳥殿と同じただの人間。陰陽道を学んだのは事実でありましても、それとて正規に学んだわけではありませぬ。十六歳になったとき、宮廷陰陽師である安倍家からは出ました」
「…それからは、どこに」
「手づるを得て、寺に入りました」
「それから?」
「そこは二十二歳で終え、そのあとは桓武平氏の一族のもとで武術を修めました」
「やっと得心いたしました。八身さまは坊様のようでもあり、京の滝口の武士と噂する者もあり、わたしにはどこか神秘的に見えるそのお姿。すべて謎が解けました。しかし、一族の元にはなぜお帰りになりませぬ」
「私はすでにこの世におりませぬ。そういうことになっております。なぜなら、京への長旅は無理だったのでありましょう。ようやく陰陽師のもとにまいったその日、私は黄泉の国に旅立ちました。が、安倍晴明の後を襲った次子、吉昌殿の秘術により私はこの世に蘇り、そればかりか、ついには目も見えるまでに回復したのです」
「秘術…その秘術とは、どのような?」
「本来はあくまで倭人の長、天皇ひとりのためだけにしか行われない呪的祭祀、泰山府君祭です。それが幼い私に対して極秘に行われたということです」
「まあ、なんという…。でも、そんな禁をどうしてまた犯したのでしょう。よほどの黄金を積まれたのですか」
「いいえ。それは、亡骸の周囲を漂う私の魂魄に、吉昌殿が何か異象を感得されたためと聞いております」
「何かとは…やはり白狐の?」
「さあ、どうでありましょう。蘇った私は吉昌殿に望まれ、そして父は、私を陰陽師にすることに政治的な野望を馳せたようです。なぜなら、第一に陰陽師は余人を交えず、直接天皇や摂関家に奏上する機会を持てる身だからであり、第二に私を京の安倍家に入籍させることで、朝廷のきざはしを昇る足がかりも得られると読んだのでありましょう」
「で、お父さまはその機会を利用なさったのですか」
「いいえ。私は倭人になりきることがどうしてもできず、先ほどお話しした年齢で吉昌殿とも陰陽道とも縁を断ちました。つまり、父に背いたのです。私はその時点で、父の中で死にました。長子はやはり蘇生しなかった、そういうことになったのです。が、その父もすでにこの世にはおりません」
「では、一族の方は、八身さまが生きておいでのことをご存じない?」
「父は、死の際に、跡目を継ぐ弟だけには顛末を話したようです。それはその弟を訪ねたとき、初めてわかったことではありますが」
「では、もう一族のもとにはお帰りになられたのですね」
「いいえ。いまでも正式には帰っておりませぬし、いまさら長子としての籍を回復しようとも思いませぬ。ただでさえ危うい一族の命運がかかっている危急のときに、このうえ兄弟の和を乱すようなことはしたくない、それが私の気持です。ただ、陰ながら一族の役には立ちたい…」
「して、その一族とは?」
朱鳥はわざわざそこで一拍おいた。そして、断定するように言った。
「奥州の蝦夷の王、安倍。そうですね」
「また、そのような。先ほどから、なんと巧みに言葉を操られる。賢い方だ。朱鳥殿の話術にかかると、やがて私は丸裸にされてしまう」
朱鳥は豊かなほほ笑みをたたえて、八身の全身をその一瞥の内に捉えた。そこには、おそらく他の誰も知らない八身の秘密を、たったいま自分だけが知りえたことの満足があった。
(妹の二尾はかわいそう。八身さまは、もうわたしのもの。でも、あの子には、安倍の宗任さまが言い寄ってきているという。あの子にはお似合いの人が…)
そして、ゆったりと朱鳥は言った。
「何ゆえにか、とても嬉しゅうございます。この嬉しさは、だけれども八身さまが、わたしのような者にもわかるよう、いろいろなことをお話しになられたからですよ。八身さまが嬉しくしてくだされたのですよ」
「よろしいかな。私は安倍とは言うておりませぬ。そのことは、必ずそういうことにしていただきたい。よろしいかな」
「では、八身さま。わたしも朱鳥ではございませぬよ。そのことは、必ずそういうことにしていただきたい。よろしいかな」
八身は苦笑し、意外にふざけんぼな一面を見せた朱鳥に、こらえきれない愛くるしさを覚えた。八身もつられて防御を解いた。
「では、そこにおられるのは、どこのどなた様で?」
「おや。お知りになりたいのですね」
朱鳥は八身の目をその目から一寸も外させないよう捕らえると、急に真顔になり、それから、この上なくゆっくりと立ち上がった。
戦場であるため、男性と同じ狩衣を着ている。朱鳥は、その狩衣の下の小袴をまず床に落とした。左右の切れ上がった金赤の狩衣から真っ白な脚が内腿まで見てとれた。
手を後ろに回すと腰帯を解いた。依然として八身の目を捕らえたまま前かがみになると、狩衣の裾を交差した両手でつかみ、躊躇なくそれを一気に後ろに跳ね上げた。
「こういう者に…ござりまする…」
朱鳥は、炎の中から燃え立ったかのように、八身の眼前にすべてをさらした。
八身は、自分が一直線に朱鳥に突き刺さり、すでに朱鳥のその豊満な体内を駆け巡っているのを知った。朱鳥が、いま熟したばかりの吐息を洩らした。
「あなたを…二十年…待っておりました」

護摩の火は八身と朱鳥を火炎に包んだ。
二人の中を焼き尽くした火柱は、それだけでは足りず、その時間までも灰にした。二人はすべてが終わったあとも、これまで記憶していた言葉、知識、過去のすべてが消え去っているかのように、しばらく空洞になっていた。それがわかると、二人は再びその洞を激しく鳴らし合った。
「私が真実白狐の血をひく身であったら、どのようにする」
言葉が蘇ると、八身は朱鳥の髪に指をからめながら言った。
「そのような幸運をわたしが引き当てることができたとは、未だに信じられませぬ。ほんとうに化生のお方だったのですね。その刹那、あなたが天を翔ける、そのお姿がわたしには見えました」
朱鳥は八身にまた胸を押しつけた。その息はまだ熱かった。
「倭人の間では、庚申の夜、サンシの目を盗んで男女のことを成したる者には、盗っ人が生まれると信じられておる。もし私に白狐の霊性が宿っておるなら、サンシは畏れて、天帝のもとには昇るまい。安心して私たちの子を産んでほしい」
「嬉しゅうございます。わたしもいっそのこと、龍か何かであればよかった。そうしたら八身さまと共に天を駆け巡れたのに」
「いや、朱鳥のその美しさは、まるで白い龍だ。そうだ、龍だ、龍だった、私の中で渦巻いていたのは白い龍だった。私は龍を戴いたのだ」
「白い狐と白い龍。そこに生まれるのは何?」
「ありがたや。まさしく龍の力と狐の智慧を併せ持った子を授かるということだ。朱鳥、なんと素晴らしい。私はその子の成長を見るまで、なんとしても生き続けねばならぬ」
「何をおっしゃいます。もちろんではありませぬか。この戦であなたを死なせるようなことは、このわたしが絶対にさせませぬ。わたしが八身さまをお守りいたします。そして今夜から、龍狐の子はわたしたちを守ってくれます」
「そう信じたい。いや、信じよう」
「なんだか、眠うなりました。このまま八身さまの胸で寝てはいけませぬか」
「庚申の夜に眠くなったら、こういう呪文を唱えればよいのだ」
八身は洞に声を張った。

しやむしや
いねやさるねや
わがとこを
ねたれどねぬぞ 
ねねどねたるど…

朱鳥は、ふだんの勝気な表情はどこへやら、すでに童女のようなほほ笑みを浮かべて寝息をたてていた。