不戦の王 13 安倍崩し
<目次>
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源頼義。
黄海の惨敗から立ち直れないまま、二度目の任期ぎれを迎えた。
ただ頼義は、何もせず任期ぎれを待っていたわけではない。戦は苦手だが、政治工作は得意である。まともに戦いを挑んでは負けることが明らかになったことで、以前にも増して安倍一族の内部崩壊と、奥羽山脈をはさんだ東西の蝦夷の分断、対立を画策した。
頼義はまず、黒沢尻五郎正任を狙った。
頼義は、正任が安倍を継いだ貞任と同年なのに五男という立場にまで格下げされ、出羽と陸奥を分かつ栗駒の山よりも高く憤懣を溜めていることを知っていた。
しかし、である。だからといって、ダイレクトに正任に接触するようなことはしなかった。正任のどこに弾け飛ぶかもわからない狂気を警戒し、間に人を立てようとした。
その人とは、父頼時が死んだ際に出家した、官照とも境の講師(こうじ)とも呼ばれている男、鶴脛四郎照任である。
すでに武は捨てている。柵主でもない。
陸奥守の勢力圏と安倍の勢力圏の境、つまり衣川が北上川に注ぎ込むあたり(平泉近辺)に住んでいるので「境の」と冠せられている。また、講師とは国分寺にあって僧を司るのを主任務とする僧官のことである。
官照はその立場の身軽さを利用して、正妻小真姫(こまき)の子である貞任、宗任と、自分も含めて他の庶腹の子たちの気持を結ぶ役目をしていた。貞任にとってはたいへん重要な存在。だが、頼義から見れば、安倍でありながらすでに何分の一かは安倍から脱したように見える。そういう勝手な思い込みから、説得役に引き込もうとした。
「官照殿。きょうお訪ねしたのはほかでもない。あの正任殿のことでござるが…」
頼義は、官照が独りで和賀(わが・岩手県北上市近在)の極楽寺に出向いた目立たない機会をとらえ、密使をたてて言わせた。
「安倍と朝廷の戦、たしかにこのところは膠着しており申す。しかし、やがて十万の兵を動かすときが来たれば、結果は目に見えておること。そこを考えれば、正任殿がどちらにつくが利か、おわかりでありましょう」
そこまで言うと、密使は官照の目の前に黄金の粒の入った螺鈿の小箱を押しやった。まずは口開きの誘得である。
「正任殿がもしもご参陣くだされば、奥六郡のうち望みの三郡を与え、権守(ごんのかみ・現代で言えば臨時的な副知事)の位を約す勅許を、と考えております。そして官照殿には…」
話はそこまでしかできなかった。官照はいまは僧籍にあるが、もともと安倍の中では武を鳴らした人物である。
「どのみち清原にも、同じような話をしておるのであろうが。ええい、小ざかしいことを! ここが父頼時の仮葬をした寺でなくば、貴様の命などとっくにないものを。帰れ、帰れ、帰れいっ」
密使は帰ろうとするまでもなく、僧形の官照に額を正面から蹴り倒されてしまった。そして黄金の小粒を回収する余裕も与えられず、這うようにして寺の外に逃れ出た。
頼義は密使からこの報告を聞くと、しかし、まったく残念がりもしなかった。八の字眉の下から暗い目を上げてニタリと笑い、それから他人事のように言った。
「さもあろう、さもあろうよ。誇り高い蝦夷の王、安倍の者じゃ。誰が飢えた猪のように、すぐ餌箱に首を突っ込むものかな。ぬしには気の毒をしたが、これも策謀のうちよ。この話、貞任に聞こえれば、それはそれでよし。貞任は正任への用心で、もはや正任を孤軍で突出させるような真似はさすまい。そうなれば、こちらとしては戦いやすうなる。また逆に、これが貞任の耳に入らぬとすれば、官照、ああは言うたが、正任にこの話を通じたということじゃ。さすれば、正任は遠からず尻尾を振ってくる。どちらであれ、こちらの思う壺ではないか、のう」
あとは声のない笑い声をあげながら、いつものくせで、下を向いてせかせかと歩き去った。