不戦の王 16 そして陰陽道は陸奥へ走る
<目次>
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「晴明の安倍氏と晴明の師であった賀茂氏による宮廷陰陽道宗家の覇道。それのみを是とし、民間陰陽道を邪法として葬り去ろうという奸計が、程なく実行に移されようとしております。それを甘んじて受けよう、まさかそうお考えではありますまい。ここまで育てあげた道満陰陽道を根絶やしにされてもよいとお考えでありましょうか」
「しかし、陸奥に行けばその奸計から逃れられると決まったものでもあるまい。朝権はやがては大軍をもって蝦夷を滅ぼすであろう。そのとき、陸奥に行った我らはどうなる。死にに来いと仰せか」
二人は森の中に場所を移している。
随所から湧き出た清水が一本に集まり、ここではすでに幅3メートルほどの清流となっている。芹の若葉が美しい。介山法師は、その一葉を口に含んだ。八身は言葉にいっそう意思をこめた。
「陸奥の安倍は、決して敗れることはありませぬ。介山殿、ここにいて地に潜られては、道満陰陽道はいつまでも闇の陰陽道のままではございませぬか。いや、自らその立場を是認するようなことになるのではありませぬか」
介山、黙って八身の目を見ている。風雪に耐えた野仏に似た風貌には、どこといって力みがない。ただ、その細い眼光からは、八身を包み込むような柔らかな光が注がれている。
「安倍の蝦夷が敗れぬという、その根拠は?」
「戦いは我らの本意ではありませぬゆえ。勝ち負けを争わなければ、負けることもありませぬ」
「はて。奇妙なことを言われる。戦わなければ、けっきょく陸奥は、朝廷の好き放題にしてやられるということではないのか」
「ご疑念はごもっともに存じます。言葉が足りませなんだ。我ら安倍も、より大きな戦乱を逃れるためでありますれば、戦端は開きます。ただし、その場合も相手を負かすために戦うのではありませぬ。勝たなくともよい、負けねばよい。すなわち戦禍を最小にできれば、それで戦の目的は達したと考えるのが安倍なのでござりまする。勝つに優るは負けぬこと。勝ち負けに拘泥すれば戦禍は甚大となり、苦しむのはけっきょく我らでござりまする」
「なるほどのう。それでか、先の黄海の戦い。それもそういうことでござったのか。あの戦いの様子、ここ播磨にまで聞こえておりますぞ」
「あの戦はそのとおり、以後の戦禍をできうるかぎり軽微なものとする、その布石として行われたものにござりまする」
「なるほど。それが噂に聞く不戦の安倍の真髄でござるか。じゃがな、そのような戦いをなさるなら、我らの助力なぞ無用であろうが」
「否。そのように戦いたいがために、陰陽道が必要になるのでございます。それもとくに、正真正銘の式神使いが」
「式神を戦に? それでわざわざ式神を連れておいでになったのか」
「しかり。が、式神に戦わせようとは思うてはおりませぬ。式神にはあくまでも善を行わせたく存じます」
「善を? 戦に善とはまた、ふむ、わかったような、わからぬような。とにかく、式神使いがそなた一人では足りぬというのじゃな」
「私はようやく己の魂魄を影のごとく現出させることができるのみ」
そこまで言って、八身は童子を振り返った。童子の姿には、すでに臍から下がなく、土の上50センチに上半身が浮かんでいるだけだった。
「ごらんのとおり、私には式神を長くこの世に留めておくこともできませぬ。また、その使役法も会得しておりませぬ。先ほど、あなたさまによって消滅させられたことにさえ気がつかぬ、その程度の使い手にございます。決して式神使いとは申せませぬ」
そのとき、黒と白の尾の長い小鳥が、清流の石の上に来て、その尾を上げ下げし始めた。介山法師は芹の葉を一つちぎると、短く呪を唱え、それを小鳥の足元に投げた。カゲロウのような、透きとおった羽を持った虫が飛んだ。小鳥は水面でその虫を捕らえると、身を翻して飛び去った。
八身は目を見張ってつぶやいた。
「なんと…密教の一派を開いた高僧、寛朝僧正をかの晴明が畏れさせたという術、草の葉を瞬時に式神に変えて蛙を殺したという、その術をまざまざとこの目で見た思いにござりまする…」
「あの鶺鴒が腹をすかしておったからな、馳走をしてやったのじゃよ。ところで、話を戻そうかい。我ら、朝権にまつろわぬ民と行を共にすることに、いっこうに不都合はござらぬ。が、いまひとつ陸奥での陰陽道に先が見え申さぬのじゃが」
「ごもっともに存じまする。では、結論のみ申しあげます。陸奥に安倍の栄える新たな世がくれば、道満陰陽道にも拠って立つ基盤ができるものと存じます。闇の陰陽道から、天が下の陰陽道になることができる、播磨の陰陽道、その被虐の歴史は、やっと終焉を迎えるのでござりまする」
「蝦夷安倍の世が来れば、なぜ表に出られる。なぜそう言いきられる」
「蝦夷は倭人とは異なり、力こそすべて、力ある者が風上に立つべし、そういう民族ではありませぬ。我ら安倍の蝦夷が尊ぶは、すべての命を等しく貴ぶ心、それのみにござりまする」
「ほほう!」
それからもう一度。
「ほほう!」
山鳩のように介山は鳴いた。初めて満足げな微笑が頬にあふれた。八身は続けた。
「介山法師ともあろうお方に恐縮至極に存じますが、万物の秩序を正しく導くのが陰陽道の本来。その秩序を保つは、いま申しあげたすべての命は等しく生まれ等しく尊い、その達識においてしか果たしえないと存じまするが、如何」
「なるほどのう」
介山法師は八身の目を奥の奥まで透徹した。八身は瞬きもせず、介山の視線に応えた。やがて介山が深くうなずいた。
「話はようわかった。いやはや。どうしても我らを陸奥へ誘う覚悟じゃな」
八身は両手を地面についた。
「どのようにしてでも、陸奥へと。世襲により堕落した宮廷陰陽師が、いまや単なる祭祀係となっておることは存じよりのとおり。宮廷陰陽師はいたずらに仰々しい儀式を執り行うのみで、いまでは妖魔を祓うことさえできぬと聞いております。他方、晴明、道満の顕した陰陽道が介山法師殿のもとに生き生きと存在し続けておるとなれば、宮廷陰陽師たちにとって、これ以上目障りなことはありますまい。あなた方は彼らの立場を危うくする怨敵であられます」
「何度も言うでない」介山法師が立ち上がった。「では、あす早暁、再び来られよ。そのときに我らの答は差し上げよう」
その夜、介山法師は式占(ちょくせん)という約五百年前に中国から伝来した占いを行った。方法さえわかれば誰にでも当てられるという占いではない。清明がそうであったように、伝承不可能な稀有な霊感によってのみ未来を察知できる占いである。
介山法師は問うた。
「安倍の蝦夷の言、信ずべきか否か」と。
答は、応、と出た。
ただし全員が陸奥に赴けとは出なかった。
播磨の陰陽道は、道の保全とさらなる発展を期して、秘かに三派に分かれるという妙策を生きることとなった。つまり、
一派は介山法師とともに陸奥へ。
一派は瀬戸内へ。
そしてもう一派は伊勢へ。
いずれも人知れず、京から朝権の手が伸びる前に姿を消した。