不戦の王 20 女御軍団
<目次>
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明けても雨。
暮れても雨。
きょうで十五日間も雨。
坂東から来た七万の源氏軍は、案じていたとおりの不平不満を鳴らし、戦意を喪失させた。気温も初冬のように下がる日があり、病人も続出した。
清原軍三万はいち早く森の奥深くに入ると、木の枝葉を組み合わせて巧みに屋根を作り、雨を避けた。それに倣って源氏軍も森を求めたが、清原軍に近場のよい場所を占拠されているため、適所を求めて散会せざるをえない。その結果、せっかくの総勢十万もの兵力の骨組みがバラバラになってしまった。
兵糧の補給線も神出鬼没の毛無の騎馬軍団によって繋がりを失い、貴重この上ない備蓄がいとも簡単に横奪された。
その騎馬軍団を指揮するのが例によって藤原経清、陸奥国のいわば元副知事格である。
頼義の配下であったときから豪胆で知られていた経清のこと、黄海の戦いの後にもかつての立場を利用して堂々と兵糧を横奪し、県知事である頼義の顔に泥を塗ってきた。このたびもまた敵情を知る強みで、無駄な攻撃一つなく、着実に成果をあげていた。
経清には、いつ、どこの蔵に、どれだけの物が、どの道を通って運びこまれるか、自分が指揮しているようにわかっていた。
経清はもちろん頼義を憎んでいたが、頼義もまた、勝手な話だが、経清を憎んでいた。頼義としては、直接の戦闘による痛手ならまだ気持の割り切りようがある。しかし、経清による兵糧略奪は、見ている前で懐に手を突っ込まれ、懐中物を好き勝手に持っていかれる所業に似ていた。経清のやることは、いちいち国守のプライドを踏みにじるのだった。
頼義は、そこで、経清の首を狩るために一万人もの兵を割いた。が、毛無軍団の力強い支援を得て縦横に騎馬を駆る経清は、その背中さえ朝廷軍に見せなかった。ふだん、どこに潜んでいるのかさえわからなかった。
ついに頼義、これ以上被害を増やさないためには、坂東諸国からの荷駄隊をしばらく陸奥国の遥か南で足止めするしかなくなってしまった。
こうして、戦わずして日に日に食糧が尽き、そしてろくに雨をしのげない劣悪な環境から病人はどんどん増え続けた。おそらく、いまでいう肺炎だろうが、病死する者も処々の陣で現れた。
寝ようにも、濡れそぼる寝所。乾いた衣類はない。湿った肌着は骨身を冷やし、かといってこの雨では火をおこすこともままならない。聞けば、食糧の補給線も断たれたという。
不安と不満は、長雨で軟弱化した地盤に似て、兵士たちの戦う意思をぐずぐずに崩してしまった。
清原軍はいざとなれば隣国出羽に帰ればよい。だから、まだそうでもないのだが、坂東からやって来た七万人は目に見えて力を失っていった。いちど国府のある多賀城まで後退して陣を立て直し、再び攻め上がった方がよい、そういう会話が位の上下を問わず交わされるようになった。
「ここを一気に攻められれば間違いなく敗れる。清原勢はともかく、坂東からの兵は好きなように討ち取られる」
勇猛果敢で知られる源義家でさえそれを真剣に思った。
しかし、である。
この絶好機に、安倍はなぜか攻めて来なかった。
安倍の物見の騎馬が遠矢の射程の外を巡回しているのは四六時中見えた。したがって、いま朝廷軍がどんな状態にあるか、充分把握しているはずだった。にもかかわらず、安倍はときどき狼煙を上げて味方同士の通信を行うのみで、近づいてさえ来なかった。
「どうして攻めて来んのじゃ」
「安倍の者はみな衣川柵の屋根の下でぬくぬくとしおって、我らとは比べものにならないであろうに。どうしたことじゃ」
全員がいぶかった。
いや、全員と言ってはいけない。全員ではなかった。ただ一人、清原武則だけはその理由を知っていた。
なぜ攻めないのか。
安倍はこの戦、勝ってはいけないからである。
つまり、計画的に負けるために、安倍はこの戦を始めたからである。
「八身のお方。毛無に呼応して北の駿馬を率いて来た一団は、いまどのあたりまで南下いたしたのでありましょうや」
衣川の館。
貞任は濁流となった北上川に視線を投げながら、傍らの八身に尋ねた。兄の八身は、もはやこの世にいない者として、あくまでも第三者、闇の陰陽師の立場から安倍の盟主に接しようとしていたし、弟貞任は盟主でありながら、あくまでも内心では、八身を陰の盟主として接する態度を崩さなかった。
「この早暁、予定どおり胆沢の北まで到着したとの伝令がありました。私も先ほどこの目で確かめてまいりました。酋刈(おさかり)の乙比古、酋刈の朱鳥、両将も迎えに馳せ参じております。人馬とも、いたって意気軒昂。ご安心くださいますように」
「あのあたりにはよい温湯が湧いておりますゆえ、戦いを前にしてご一党にはよい骨休めになりましょう」
「人間もさることながら、馬たちも英気を養っておることでありましょう。馬を温湯に入れるのは、おそらく毛無を始めとする北の蝦夷だけではありますまいか。毛無はしかも、人間が入る前に馬に湯浴みをさせると聞いております」
「蝦夷の中でも毛無ほど馬を大切にする一族はおりませぬな。おお、そうじゃ、毛無といえば、うっかりしており申した。八身のお方と毛無の朱鳥殿との婚儀を盛大に執り行わねばならぬのだが、なにしろこの戦ゆえにいましばらく…」
「お気遣い、ありがたく存じます。いずれ宗任殿と二尾殿の婚儀もございましょうに。私のことなど、どうぞ二の次、三の次にしていただきとう存じます。いや、そのことはもうお忘れいただきますように」
「そうはいきませぬぞ、八身のお方。婚儀は立派に執り行わせていただきます」
「はあ…」
「それはそうと、宗任と二尾殿のことをどこで耳になされた? あいかわらずの地獄耳でござ…あ…そうでありましたか。ということは、姉の朱鳥殿が二尾殿を手引きした、そういうことでござったのか」
「お察しのとおり。朱鳥は、あのように戦好きな男勝りではありますが、妹の心情をいつも思いやっておる様子。なかなか細やかな気働きができます。まこと、感心いたします」
「やはりそうでござったか。過日、毛無からの使者に、戦時には場違いな感じのする二尾殿が加わっておったこと、少々不思議に思っておりましたが、そういうことでござったか。宗任に二尾殿を引き合わせる算段でありましたか。それにしても宗任をどこで朱鳥殿は見知っておられたのでありましょう」
「いえ、見知っておったのではございませぬ。それはじつは私が知恵を授けたしだいで」
「なるほど、お二人の知恵を合わせられたのか。いやはや、慧眼には畏れ入ります。宗任は早くも二尾殿にいたく恋着しておる様子、女御の力をあらためて思い知ったしだいでござりまする。しかし、似合いでござりまするな、あの二人」
「そのように見受けられます。それより、先ほどの朱鳥と私の婚儀のこと、私はすでにこの世にはおりませぬ、すなわち安倍の者ではございませぬゆえ、婚儀は安倍ではなく、毛無のしきたりに従って執り行うのがよろしかろうと存じます」
「しかし、衣川太郎良宗は生きていた、そのことはいずれ世間に明らかにいたしたく存じます。婚儀こそ、その絶好の機会かと」
「いや、その必要は断じてござらぬというのが私の考えでござりまする。であればこそ、こうして姿を現したのでございます。が、いまはこれ以上その議論はいたしますまい。貞任殿、まずは衣川の戦いをいかに上手に負けるか、大芝居に注力いたしましょう。思わぬ長雨、清原軍も我々も、ちと思惑が外れましたゆえに」
貞任はしばらく兄の目の中心をまっすぐ見ていた。八身は二心のない、澄み渡った視線を返した。貞任はやがて兄に深くうなずき、すべては兄じゃのよろしきようにと口の中で言い、話を目の前のことに戻した。
「今年の雨は、いつにのう早うござった。おかげで、妙な言い方でござるが、うっかりすると此度の朝廷軍ごときは負かしてしまいかねませぬ。とくに坂東武者には早う奮い立ってもらわねば、短期決戦もままなりませぬ。いつまでうじうじと雨に閉じ込められておるつもりでありましょう。まったく源氏も清原も存外な」
「まさしく。このままでは自ずから長期戦に突入いたしましょう。それを防ぐには、眠気覚ましに何か頬を張るようなきっかけが必要かと存じます。清原の武則殿も、心中それを望んでおるに違いありません。そこで、筋書き外のことでござるが、今夜…。いかがでござりましょう」
「筋書きを進めるきっかけでござるな。して、八身のお方の策とは?」
「策というほどではありませぬが、目的はあくまで源氏の兵の心に垂れ込めた雨雲を散らすこと。戦を仕掛けることではござりませぬ。そこで朱鳥に一働きを頼もうかと」
「なんと、あの朱鳥殿に?」
「毛無の女御軍団でかき回すのも一興かと存じます」
「女御軍団? 女御軍団でござるか!」
「少々挑発をしてやるのでござりまする。言葉を換えれば、武則殿が出張ることのできるきっかけを与えてやるのでござりまする」
「なるほど。これはおもしろし。納得いたしました。敏なる武則殿なら、おそらくその機を逃しますまい。お任せいたします」
アマゾネス、というフィクションがある。
女性ばかりの帝国がアマゾンの秘境にあり、そこには当然ながら女性ばかりの勇猛な軍団があるという話である。
が、八身の口から語られた毛無の女御軍団とは、そのような娯楽映画の作り物ではない。実在する軍団だった。
もともと毛無一族の女性は、男性並みに戦いに参加する。というより、毛無の社会には男性か女性かで役割を分ける習慣がない。だから結果的に、軍団も男女混成軍となってしまう。
男でも非闘争的な者はいる、馬を駆ることにあまり興味を持てない者がいる。逆に女性でも戦闘的で、家事に向いていない者がいる。であるなら、男女で役割を分けず、能力特性に従って適材適所するのが合理的ではないか、というのが毛無の考え方だった。
出産だけはからだの機能上いたしかたないが、そのあとの育児や家事に関しては女だから、男だから、の前提には立たない。一家の仕事はそれぞれの家で、向いている者が中心になってやればよい。そういう考え方を持っているのが毛無の一族なのである。
これは、全人格を平等に扱おうとする態度の表れと言ってもよかろうが、社会、あるいは文明は、時代を経ながら進歩していくという前提など、こんな毛無の価値観を前にすると、なんと虚しいものだろうか。
さて、女御軍団に話を戻せば。
八身は今回、そういう毛無の軍団の中から女性だけをピックアップして、「特製女御軍団」を編制しようと考えたのだった。
毛無の騎馬軍団も安倍軍と同様、重い武器は使わない。近距離戦用の小さな弩を使う。刀も当然だが重さで斬る刀ではなく、突き専門の軽い剣を使う。そして1・5メートルぐらいの、これも接近戦用の投げ槍を背に十本差している。
しかし、いちばんの特徴は、なんといってもその馬術の巧みさだった。
毛無は男女とも曲乗りをするが、中でも女性のそれは戦場での防御の意味もあり、多彩をきわめる。
たとえば馬の背から腹へ、腹からまた背へ。あるいは左側面へ、右側面へとへばりつき、敵から姿を隠す。走る馬から馬へ跳び移る。馬の上に立ち、宙を跳んで着地したかと思うと、次の瞬間にはもう馬上の人となっている、などなど。
集団でも、馬群を楔型、扇型、鶴翼型、槍型と自在に変えながら、何十騎がまるで大きな一匹の生きものになったかのように疾駆する。
そんな女性戦士の統率者が朱鳥なのである。
彫りの深い目鼻立ち、長身、白からピンクに変わる明るい肌。栗色の髪。青い目。古代日本には多数いた世界三大人種の一つ、コーカソイド系縄文人の典型。現代の日本でも、東北人の中に未だにその遺伝子を伝えている民族だった。
総勢わずか四十騎。
それが揃いの朱色の幌をなびかせて、深夜、源氏軍の馬囲いを急襲した。
「ヒエーイッ、ホウホウッ」
明らかに女性とわかる喚声をわざわざあげて。
囲いを守る見張り二十名は、喚声を聞いたときにはすでに馬群に包まれていた。そして、後ろ足立ちになった馬の壁が眼前に迫った次の瞬間、多くの者は蹄で額を襲われ、肩を打たれ、逃げようとする尻を後ろ足で蹴り上げられた。
その間にも、囲いを解かれた馬たちが、女御軍団に追い立てられて闇に走り出る。
源頼義の陣にも急報が入った。
「蝦夷の夜襲でござるっ」
「馬囲いが襲われましたっ」
森の奥につながれていた馬を除き、源氏軍の多くの馬が群になって暴走を始めていた。
「安倍軍は一万か二万かっ」
頼義は大慌てで鎧を着せてもらいながら叫んだ。
「い、いえ、そ、それが、どうやら毛無のおなごの軍団のように見えま…」
「な、何いっ? お、おなごうっ?」
頼義、もちろん毛無の存在は知っているが、女御軍団の存在など知るよしもない。
「貞任めっ。源氏を、ば、ば、馬鹿にしよってっ」
頼義は女と聞いて、まだ鎧もつけ終わっていないのもかまわず、表に飛び出した。そこにちょうど朱鳥とその配下の四十騎が楔型になって迫った。頼義は「たかが、おなご…」と身を守ることなど考えもせず、近づく馬群を睨みつけた。義家が大薙刀を小脇に駆けつけ、無防備な父の前に仁王立ちになった。
「弱虫源氏は鍬を持てえっ。斬れぬ刀はすぐに捨てよっ。濡れるが嫌で外にも出られぬいじけ者っ」
朱鳥たちは頼義、義家から30メートルほどのところを駆け抜けながら叫んだ。そして振り返りざまに、きれいな弧を描いて手槍を投げつけた。四十本の手槍が頼義、義家の足元に突き立った。
殺す気なら殺せたものを、それはわざと的を外した、小馬鹿にしたような一投だった。征夷大将軍に対する侮辱だった。
女性戦士の出現に半ば見とれていた兵たちが、そのとたんやっと我に返った。が、暗さのため弓矢は使えない。頼義のまわりにあわてて槍ぶすまの囲いをつくった。
朱鳥たちは決して停まらなかった。
四十騎が一羽の大鳥のようになって疾走しながらブーメランのように翻り、機銃掃射さながらに手槍の雨を連続的に頼義の囲みに投じた。闇をついて飛んでくる手槍は防ぎようがなかった。頼義をかばった部下たちが、腕や胸や肩口に手槍を受け、ばたばたと倒れた。義家も避けきれなかった手槍の一本を鎧からぶら下げていた。
朱鳥たちは、華やかな喚声とともに闇に消えた。
ほんの三分間の出来事だった。全軍が反撃の態勢に入るその前に、もう姿を消していた。
頼義は呆けたように口を開け、尻餅をついていた。
そのときである。
「天は将軍を祝福したーりいっ」
大音声が源氏の兵たちの耳を打った。
「安倍貞任は、このいま戦略を過てりいっ」
統率を失っている源氏軍に向かって、清原武則が叫んでいた。
「持久戦は我が軍に不利。かように安倍が攻めてくることこそ天佑なりいっ。この好機を逃さず、攻めかかる安倍を打ち砕けいっ」
まったく突然の大音声だった。
女御軍団に急襲された衝撃も覚めやらぬ間に、こんどは味方の陣からの大音声だった。それも、もし仮にそれを言うのであれば、征夷大将軍、源頼義が言うべきようなことを、傭兵の、夷族の、清原武則が叫んでいたのだった。
その場の将兵たちは、しかし、武則の言をまるで総大将のそれように振り仰いで聞いた。
それどころではない。
征夷大将軍その人も聞き手の一人になっていた。武則の演説はそれほどまでに意表をついていた。
「見よ、空を見よっ。雲が切れかかり、月の光が洩れ始めた。雨は去ろうとしておるっ。天は我らを祝福せりいっ。いざ、衣川へっ。安倍の財宝の眠る衣川柵を踏み潰せいっ。衣川から財宝を掘り出せいっ」
武則は、将士を煽った。
頼義はようやく武則の出すぎた真似に気づいて八の字眉を寄せた。しかしそれを止めることはせず、ひそかに溜め息をつくと顔を背けた。それを見て、義家が武則の方へつかつかと歩みかかった。が、
「やめておけ。しゃべらせておけ。ここは、ゆとりを見せることじゃ」
頼義がいまいましげに、しかし力なくたしなめた。
いまから武則にクレームをつけたところで、あるいは張り合ったところで、武則の立場を際立たせることに役立ちこそすれ、けっして自分の失地回復にはならないと頼義にはわかっていた。
かたや武則としては、参戦と引き換えにひそかに源氏の名簿を差し出させているということ、言い換えれば、じつはこの戦が清原の采配で源氏が動くのだという実態を、このような形で徐々に顕在化させていったのだった。
はるか遠くの方では、囲いを放れた馬を朱鳥たちが追っているのだろう、まだ華やかな喚声が聞こえていた。
武則は続けた。
「あの騎馬の女どもを追え、追うのじゃっ。たかが女に、それもたかが数十騎に馬を蹴散らかされておる。悔しゅうないのかっ。悔しいなら、あの女どもをひっさらえ。あの、毛無の女の白い尻が欲しゅうはないのか。捕まえた者にやるぞいっ。その者に女は幾たりともやるぞいっ」
もはや追えないと知りながら、武則は煽り続けた。
朝廷軍にとって、蝦夷の女性は戦利品扱いである。勝ったら、位が上の者から順に、占領地の女を自由にできる。厭きたら奴隷に使う。そういう蔑視が底にある。同じ蝦夷でありながら、武則は坂東武者にそれを露骨に思い出させた。気付け薬に使った。
いかにも、モラルより実利の清原らしい言いようだった。
この間。
清原軍はといえば、源氏軍の騒ぎをよそに静まりかえっていた。森に潜んだまま、動こうともしない。坂東武者の混乱をまるで軽蔑しきったように眺めていた。
もちろん、それは武則の命令なのだった。武則には、この夜襲の意味が充分にわかっていた。そろそろ長雨が終わるであろう。早う衣川を攻めよとの催促じゃな。ふっふっふっ、貞任のやつ、小憎らしや。
武則のまわりには、いつの間にか源氏の兵の人垣が十重二十重とできていた。武則はそれを自分の子飼いの将士のように見渡した。誰からともなく、鬨の声があがった。武則もそれに和した。
(見事なものじゃ、毛無のおなごの戦士たち。安倍軍というのは、なかなかどうして奥が深いのう)
それから武則は女御軍団の消えた闇に視線を放ち、心の奥で舌を巻いた。
けっきょく。
馬囲いを破られた源氏軍は、野に散った馬を集めるのに丸一日もかかった。
武則はその夜、頼義の陣に寄ると、まるで命令するように言い放ったという。
「将軍。いざ、衣川へ。坂東の武者ども、生国に早う帰りたくば、早う勝つのじゃ。敵は我らの半分もおらぬ。金銀を奪い、女を喰らう。その味を兵に忘れさせるでないっ。よろしいか、兵を挙げられよ。此度は短期決戦でござるぞっ」
散漫になっていた戦闘意欲、萎えていた源氏軍の士気が、武則のアジテーションによって、いや八身の策によって、狙いどおり二、三発頬を張られたように蘇った。そしてこの夜襲、以後の戦闘の真の指揮官は誰なのか、征夷大将軍とは飾り物ぞ、それを全軍に決定づける結果ともなったのだった。
「それにしても頼義…」
頼義のへっぴり腰には、武則自身が拍子抜けする思いだった。
坂東武者にあれほど人気の源氏の頭領が、権勢欲だけは人後に落ちないくせに、なんとまあ、ここまで戦時向きでない腰抜けとは。武則でさえ、思いもしなかった。