不戦の王 21 僧形の使者
<目次>
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九月五日、早暁。
約二十日ぶりに戦闘再開。
蝦夷の森が動いた。川霧に浮かぶ遠い森が動いた。
安倍一族南限の柵、衣川館を目指して、磐井川と北上川が交わる穀倉地帯にさしかかった十万の朝廷軍は、北岸の森が波のように退き始めたのをたしかに見た。
兵たちは、信じられない光景に呆然と脚を止めた。
最初は風で草原が波打つ、その光景と重ね合わせ、森をつむじ風でも渡っているのかと思った。しかし、そうではない。風もない。川霧も重く垂れこめたままだ。
(何事が起こったのか…)
そう思ってこらす目の中に、忽然と、白地に真っ赤な太陽を描いた楯の列、無数の日の丸が現れた。安倍一族が戦場で味方の識別のために用いる楯(たて)験(じるし)だった。
広がりは横幅およそ500メートル。五段に連なり川向こうの草原を埋めている。
森に見えたのは、じつは万をゆうに超えるかと想われる馬群だった。馬は木の枝葉で擬装され、朝廷軍が川を渡り始めるのを待っていたのだった。
数の少ない安倍軍は、決して平地に出て戦うような策はとるまい。必ずや館に籠って迎え撃つであろうという予測のもとに、朝廷軍は悠然と川を渡り始めていたので、完璧に不意を衝かれた。
「待ち伏せじゃっ」
「謀られたっ」
誰からともなくあがった声に前列が崩れ、われ先にと引っ返し始めた。しかし後ろはそれに気づかない。まだ続々と川へ川へと押し出してくる。たちまち大混乱となった。
その混乱を待っていたかのように、日の丸楯の陰からいっせいに弩が放たれた。
弩というのは、前に紹介したように連射がきかない(次矢を射るまでに10~15秒かかる)、重い(3~5キロ)という欠点がある。しかし、和弓よりずっと射程が長いという長所もある。通常で300~350メートル、大型の弩になると800メートルにも及ぶ。
安倍軍はその長所を利用して、朝廷軍の和弓が射程に入る前から先制攻撃をしかけた。安倍軍が用意した秘策の一つである。
弩は前列から後列へ、射程の短いものから長いものへと順に並べてあるため、朝廷軍からすると、矢が分厚い層になって降ってくる。
また、連射がきかない不利を補うために、第一列が射ると、数秒後に第二列、その数秒後に第三列…というふうに、間断なく発射される。
朝廷軍、息を吸う間もないほど降りそそぐ矢の雨に、ばたばたと倒れ始めた。このままではただ的になっているだけだった。武則としては、この時代の和弓の有効射程、180メートルぐらいまで犠牲覚悟で前進するか、ひとまず弩の射程外に退却するか、即座にどちらか決めなければならなかった。
で。
後者をとった。
悔しいが、振り出しに戻る。全軍、尻尾を巻いて磐井川のはるか南まで下がった。
「かくなる上はもそっと川上の浅瀬、安倍の待ち伏せがない場所から渡るしかござらぬぞっ」
武則は馬から下りようともせず、頼義を傲然と見下ろして怒鳴った。
「我らの川渡りが成功すれば、安倍軍はたちまち風塵のように逃散する。将軍はせいぜいその雑魚どもを迎え撃ってくだされいっ」
武則はそう言い捨てると、頼義の否応を聞くでもなく、自軍を引き連れてさっさと川上へと移動し始めた。
安倍軍が逃げる際、南に逃げることは万に一つもない。そのことは雑兵にだってわかっていた。南は朝廷側の地。安倍の柵は、すべて衣川館より北にある。
だから、武則の捨てゼリフの意味するところは、「せいぜい敵の来ないここにおって、首でも縮めていなされ」、そういう意味をも含んでいた。もはや征夷大将軍の権威など、どこにもなかった。
頼義は去っていく武則の背中を見やりながら、かたわらの義家につぶやいた。
「腹を立てるでないぞ。ああやって威張らせておくのが、あやつの操り方じゃよ。夷をもって夷を征する。安倍と清原、たかが外虜同士の争いなぞ、高みの見物をしておればよいのじゃ。やらせておけ。好きなように強がらせておけ。勇武に優れたそなたはさぞかし歯がゆかろうが、それが乙名(おとな)というものじゃ。そなたが命を懸けるべき戦いは、この後平家との間でいくらでも起こる」
義家、あふれ出そうになる言葉を必死に喉元にこらえる。
(それはたしかに、そうではあろう。が…)
それで、よいのか、この戦は。源氏の尊厳はどこに見出せるのか。
義家、口に出して反論こそしなかったが、唇をへの字に結び、天の一点に弓を引き絞ったような眼差しを放った。
一方、武則はといえば。
すっかり将軍気取りであるにはあるが、しかし三万の兵をそうやすやすと川向こうに渡らせることはできなかった。
ここぞと思う浅瀬にはすべて、対岸に安倍の弩の部隊が待ち伏せしていたからだった。清原軍、こちらからは届きもしない矢を放つだけで、無理をして前進しようとすれば、無用な死傷者が出るのは明白だった。
完全に出鼻をくじかれた。
清原軍三万は、その数を活かせる戦の適所を求められないまま、川上に至る狭隘な山地で夕闇を迎える破目になり、腹立ちまぎれに目に入った農家をことごとく襲撃した。逃げ遅れた男たちは斬り殺され、女たちは老若問わず慰みものにされた。そして夜が明けると、その女たちも使い捨てにされたぼろ布のように、家ごと焼き払われた。
その炎を安倍の物見が唇を噛んで見ていた。
また、頼義の源氏軍からも、安倍方からすれば、結果的に身を引きちぎられるような痛みを与えられ続けていた。なぜなら、前進しようにもできない七万もの軍馬が、足踏みひとつするだけで、収穫目前の田畑が泥に還っていったからである。
北上川流域は、陸奥の誇る穀倉地帯。都人に「天府」と言わせるほど地味がよく、産物が豊かな土地柄だったが、まさにそこが戦場になっている。だから、
「この陸奥の地を戦場にする時間をできるかぎり短くしたいのじゃ」
その思いが安倍貞任の根幹にはあった。それは、この戦の出発点と言ってもよかった。
戦に勝とうが負けようが、陸奥が荒廃しきったのでは何にもならない。勝つためには、人命や国土、蝦夷の民の情が踏みにじられても致し方ない、とは、貞任、間違っても考えない。
はっきり言えば、勝ち負けなどより、安倍とともに生きようとする蝦夷の民の傷が浅い方がよい。それが貞任の心底にはあった。
そして、その点の見落としが、朝廷側、戦勝者側が後世に伝える前九年の役にはある。
「朝廷軍も存外な。ほんの挨拶がわりの弩であるに、あそこまでひるむとは」
貞任は、弩の部隊が十万の大軍勢を足踏みさせてしまったことを逆に憂い、早々に弩の攻撃を中止した。そして八身との打ち合わせどおり、次の一手に踏み切った。
その一手とは。
安倍は本来、接近戦には持ち込まない。ヒット・アンド・アウェイを戦いの原則とする。が、ときに意表を衝いて相手の懐深くとび込むのも、じつは安倍のお家芸なのだった。
すなわち、弩が相手の間合いに入らないためのジャブ、ストレートの攻撃とすれば、こんどは密着戦で下から顎を突き上げようというのだった。アッパーカットである。
八身は弩の部隊と入れ替わるように馬を駆って磐井川の北岸に至り、そこからは徒歩で武則の本隊がいるはずの森へと急行した。
「奇な坊様を捕らえましてござりまする」
足場の悪い川岸を難渋しながら進む武則の元に、先乗りの兵たちが僧形の男を引き立てて来た。
「斥候に出ておりましたる者がひっ捕えました。僧官照と名乗っておりますが、この坊主、油断なりませぬぞ」
僧形の男は、まったく恐れ気もなく武則を、それから両脇にひかえる長男次男、武貞と武道を一瞥した。後ろ手に縛られているが、まるで胸の前で腕組みをしているかのように堂々としている。計画的に捕らわれの身となった八身だった。
「なにい? 官照であると?」
武則は珍しい獣でも見るように、八身に近づいた。
「へっ、官照か。先ごろ、そなた、正任に首を狩られたのではなかったのか。それとも陰陽の術でも使うて、首を再び胴体につなげたか」
「そのとおり。陰陽の術で蘇生された」
「さようか。ふん、それはめでたいことじゃ。が、官照と言われてものう。証拠はあるかな」
「ある。懐を見られよ。盟主よりの書状がある。そこに、誰にこの書状を託したか書かれておる」
「ほう。貞任からの書状とな。ということは、そなたは使者ということか」
八身、無言。
武則はその八身の目の中に小細工をしている者の緊張が読み取れないかと睨んでいたが、八身は深い湖のように静まっていた。
「ふん!」
武則はひとまず納得した、ことにした。そして余人を使わず、自ら八身の懐に手を入れ、小袋をつかみ出した。
そのとたん。
ギャッと叫んで跳びのいた。袋から出たマムシが足元を走った。かたわらの武貞が槍で一刺しにした。武則は即座に小刀で咬まれた指を突き、毒を吸い出すと、その血を八身の顔にぶちまけた。
「お、おのれいっ」
騒ぎで武則の側に仕える将士たちが八身を蹴倒し、喉元に刀の切っ先を突きつけた。
「待てっ。命をとる前に聞きたきことがあるっ」
武則は八身を真上から見下ろし、滴る血を八身の頬に垂らした。
「すでに安倍を捨てた身の官照が、懐に毒蛇を忍ばせ、なぜ戦場をうろついておるっ」
八身は顔を避けようともせず言った。
「私の呼び名を聞いたことはないのか」
「知らぬな」
「境の講師。境とは、安倍の奥六郡と倭人の地の境いのこと。すなわち、ここら一帯は出家をした私の住まうところなのだ。わざわざやって来たのではない。やって来たのはそなたたちの方だ。また、ついでに言えば、マムシを懐にしていたのは薬を作るためだ。人を殺めるためではない」
「ふん。どのようにでも言えるわっ」と武貞。
「官照かそうでないかはおくとして、このあたりに住もうておるという話は真か」
武則が顔を突きつける。八身は無言でうなずく。
「では、マムシの償いをいたせっ。衣の館へ案内させてやろう。いま、どこを渡って来た」
「それを教えると思うのか」
「教える。二頭の馬に脚をくくり、好き勝手に走らせようか。無駄な時を費やす気はないぞいっ。いずれは裂けた股ぐらをかかえて自ら教えることになるのじゃ。ならば、いま言うた方がよかろう」
「わかった」
「ほう。ものわかりがよいな」
「ものわかりがよいのではない。おそらく、いまから川を渡っても無駄だからだ。安倍はもういまい。それより、懐の書状を見られよ」
「こんどは何じゃ、マムシの次はクサリヘビか」
「疑うなら縄を解け。逃げはせぬ。襲いもせぬ。自分で出す」
「ふん。おい、書状を探せっ」
武則は配下の者に怒鳴った。八身の僧衣が引き裂かれた。腹帯の下から書状の一部が覗いていた。それが武則に手渡された。
武則は読み、そして例の、焦点をどこに結んでいるのかわからない目を遠くに放った。武則がそういう目をするときは、決まって分別をめぐらせているときだった。
「貞任は、いったい何を書いて寄越したのござりまする」
嫡男、武貞が尋ねた。武則はしかし応えなかった。八身に視線を戻すと言った。
「もういちど訊く。どこを渡って衣の館と往来しておるっ」
「大声を出さずとも、答えると言うたであろう。このさらに上流に、奇岩に縁どられた深い淵が続いておる。淵は深いが川幅は張り出す岩のおかげで、所によっては二、三間ほどしかない。両崖の上には高い樹木が密生しておる。生木を二、三十本切り倒せば、大軍でも渡れる橋が何本もできよう。そこはしかも、ひと山越えれば、安倍館の背後を衝ける」
「なぜじゃ。おぬし、なぜ貞任に手引きをする。兄弟であろうに。見えすいた罠じゃっ。信じてはなりませぬぞっ」
武貞が横合いから噛みついた。武則は息子を無視して、再び八身に顔を近づけた。それからやさしく、囁くように問いかけた。
「この書状にあること、それが真であるとなぜ言えるな」
八身はいま、清水を掬い取ったようなその目に、凄惨なほどの光を宿していた。その目を武則の眉間に据えると、心胆を刺し貫くほど冷ややかな声で言った。
「書状に書かれてあること、私は読んではおらぬ。しかしながら盟主よりこう言われておる。この書状を読んだ武則殿にもし疑念ある場合は、そなたが人質となり、我が真が顕れるまで留まれと。命をとるなり、人質にするなり、好きになさるがよかろう」
「へっ。聞いたか武貞、武道。安倍の者は一族のためなら命を惜しまぬとは聞いておったが。なんといさぎよい。のう、そなたたちも、陰でひそかに親の死を願うてばかりおらいで、こやつの生きざまを見習うたらどうじゃ。ふむ、そういうことなら、もうよかろう。むだな問答はすまい。それでは官照とやら、いや、どこの乞食坊主か存ぜぬが、その言葉のとおり、好きにしてやるとしようぞ。身ぐるみ剥いで革紐で縛り上げいっ」
その声で八身は素っ裸にされた。濡れた革紐で頭部から胴体にかけて、ギリギリと締め上げられた。もちろん、乾けば革が縮む。肉に食い込む。血が止まる。罪人に対する縛り方だった。縛られていないのは、脚だけだった。
しかし八身は、この場で最も貴い者のように顎を高く上げて言った。
「安倍の四男に対して、この仕打ち。清原真人武則、決して忘れるでないぞ」
「大そうな口をききおってっ。命惜しみをせぬ男じゃな。その尊大な口も、ほどなく開けなくしてやるわ。その前に、その深い淵とやらに案内せいっ」