冥界へ行った男(2)
今、私は夢の中にいるのか、現の中にいるのか分からなかった。漆黒の、そう、真っ暗な闇の中に私は突然放り込まれていたのだ。そこは風も温度も感じることがなく、臭いもない無の世界だった。五感のうち、視覚だけが残されていて、漆黒の闇の中にいるという認識だけはあった。ただし、私を取り巻く空間が、聴覚、臭覚、味覚、触覚の無い世界なのか、私が視覚以外の感覚の総てを失ったのかどうかすら、定かではなかった。どの位の時間が過ぎたのであろう。一時間か、イヤ、数年も経っていただろうか、私には時間の概念が全くなくなっていた。しかし、時間なんてどうでもいいことだった。
不思議な感覚に襲われながらも、次第に目は闇に馴れてきた。
ちょうど星明かりの夜のようである。目の前に一筋の、岩肌の剥き出たごつごつとした山道が延びている。
道標に、
「冥土八百里」
と記されていた。
一里は533メートルだから約426キロメートルか。随分と遠いな、なんて考えたが、私は他に成す術もなく、その山道を進むことにした。どれほど歩き続けたことだろう。やがて、目の前に巨大な庁舎が現れた。その庁舎の門前には夥しい数の死者が群れていた。死者の俗名が呼ばれ、呼ばれた死者が次々と庁舎の中に消えて行く。
突然私の名が呼ばれた。
「秦広王様の御前だ。頭を低くしろ」
一本角を頭に載せた、二メートルはゆうに超える赤鬼が、私の頭を押さえつけ、無理やりに跪かせた。恐る恐る庁舎の奥を盗み見ると、御簾がかかっていて、秦広王の姿は見えない。御簾の奥に焔が揺れていた。
「ウム、お前は前世において五戒を守った生き方をしていたか?五戒とは即ち殺生、盗み、邪淫、虚言、酒癖が悪かったか否かじゃ。正直に申せ」
大声が庁舎に響いた。
「何れも身に覚えは有りません」
「左様か。じゃが、天から与えられし命を勝手に絶つとは言語道断である。しかも、お前は怒りの感情も失せた情けない奴である。ワシはお前のような軟弱な奴に興味はないわ。ヨシ、次の者を連れてまいれ」
破れ鐘のような大声である。私はその声に驚き、震え上がってしまった。
審判が終わるや否や、私は赤鬼に引き立てられ、無理やり門の外に引き出された。
「お前は無縁仏だ。これからの行き先に希望はないぞ」
恐ろしい形相の赤鬼が、気の毒そうに言うのだった。
「私はこれからどうなるのでしょう」
「次は七日の後に、初江王のもとで盗み、宋帝王のもとで邪淫、五官王では虚言癖があったかどうかを尋問されるのだ。最後は閻魔王だ。閻魔王の問いには正直に答えた方がよいぞ。何しろ閻魔大王の裁きによって、お前は、安楽国へ召されるか、はたまた地獄へ落ちるか、六道へ輪廻するかが決まるのだからな。閻魔大王には絶対に嘘はつけぬぞ。何しろ閻魔大王は、前世の悪行を総て映し出す浄玻璃の鏡を持っておるのでな」
赤鬼はそういうと、私の首筋を掴んで大地に放り投げた。
前方に小川が流れている。私は仕方なく川岸に向かって歩き始めた。程なく水面が鉛を溶かしたような色をした川に着いた。足元は暗い。川原では子供たちが何やら口ずさみながら石を積んでいた。未だ小さな紅葉のような手の指に血が滲んでいる。目から滂沱と涙が流れていた。
折角積んだ石塔を小鬼が散々に蹴散らし、小槌を振り上げ、子供達を追い回す。と、そこに地蔵菩薩が現れて、小鬼達は蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
川の向こうで誰かが手を振っていた。何かを言っているようだが、何も聞こえない。手を振っている人に向かって、私も手を振って応えた。よく見ると、その人は手招きをしているのではなく、どうやら来るな、と言っているようである。
対岸は明るく、一面に見たこともない野花が咲き乱れていた。上空を見れば、澄みきった青空が広がっていて、一刷毛の絹雲が浮いていた。その絹雲の陰で、死んだはずの私の母が、鬼の形相で立っていたのだ。手を振っていた人は母だったのだ。私は母のことが気になった。
小船が一艘岸辺に繋留されていたが、水深は膝下くらいだったので、歩いて渡れそうだった。水に一歩足を踏み入れると、不思議なことに、温もりも冷たさも感じず、波も立たなかった。対岸に近づくにつれ、母はドンドンと遠ざかって行く。私を見つめる眼差しは悲し気だった。川を渡りきった時には、母の姿はすっかり消えていた。
私が茫然と立っていると、老婆が近寄ってきて、いきなり私のシャツを剥ぎ取り、欅の枝に掛けた。邪悪な面相をした老爺と二人で枝の撓り具合を眺めていた。どうやら、私の罪の重さを量っているようである。
老爺は大きく頷き、私の目の前に手の平を突出した。何がしかの渡り賃を要求しているのだ。私には老爺に支払うお金はなかった。
(ああ、ここにまで来ても、お金に苦しまなければならないのか)
そう思うと悲しくなった。
私は顔の前で手を左右に振って、金は無いと告げると、
「この先難儀するぞと、悪態をつき、川辺に腰を降ろして、キセルで煙草を吸い始めた。彼らは、一文無しの私に興味はないのだ。こうして彼らは次の死者を待つのだった。
そこには歯の総てが欠けた上半身が裸の老人がいて、
「やあ、お前も一文なしか。この川を渡るにはな、船か橋だ。でもな金の無い奴は歩いて渡らねばならぬ。でも何てこたぁないさ。浅瀬を渡ればいいのだからな。それで、昔からこの川を三途の川というんじゃよ。あの爺は懸衣翁、婆は奪衣婆というてな、弱い者から通行料を巻き上げる、元国交省の悪徳役人崩れじゃよ」
痩せていて、如何にも貧相なその老人は屈託なく笑っている。その老人は、貧乏そうな身なりの私を同類と見てとったようである。親しげに、したり顔で、とくとくと説明するのだった。
私はとりとめもない老人の話を聞く気にもなれず、眼前に延びる一本道を歩みはじめた。と、川岸に甍を並べてそそり立つ巨大な政庁が見えた。初江王が不喩盗戒の罪を審判する庁舎だった。その庁舎の庭は、数名の死者が群れていた。そこからのがれょうとする死者が、大蛇の群れや、大猫に威嚇されていた。私は生まれてこの方、盗みを働いた覚えはなかった。身に覚えのある罪状は何一つない筈だった。だが、何言われるか分からないだけに、不安だった
程なく私の生前の名前が呼ばれた。初江王の机の上には、奪衣婆に剥ぎ取られたシャツが無造作に置かれていた。初江王の前に額ずくと、
「ウム、盗みの過去はないようじゃな。よし、次」
と、泰広王から審判を受けた時と同じように、初江王の不喩不盗に対する審判もあっけなく終わった。如何にも官僚的で、縦割りで、自分に与えられた仕事以外は絶対にしないという方針が貫かれている。
赤鬼が、私を追い立てるようにして、門の外までくっついて来た。絶対に後戻りはさせまいとする気迫に満ちていた。赤鬼は、私を門外にまで連れ出すと、
「次は宋帝王によって、不邪淫戎の審判を受けるこ
とになる」
そう言って、始めてニヤリと笑うのだった。
「不邪淫戒の審判とはどのようなものでしょうか」
「生前の淫らな男女の関係が厳しく問われるということじゃ」
私には思い当たることがあった。前世で何度か風俗に通ったことがある。全くもって、モテない私に、唯一優しく接してくれる所が風俗だったのだ。それが罪になるとは夢にも思わなかった。その他に、思い当たることと言えば、会社の同僚、聖子に想いを寄せていた事である。聖子との関係は、単なる私の一方的な片想いで、手すら触れたこともない。
気の弱い私は、風俗に通ったことが気がかりだった。
だが、宋帝王は、私の聖子に対する想いも風俗通い一切問題にしなかった。そんなことは、若い時分には普通にあることなのだろうか。宋帝王の尋問は驚く程、あっけなく終わった。 めた。気の重い旅だった。
宋帝王の庁舎へ通じる山道は、審判を受ける死者が列をなしていた。一様に経帷子を纏い、頭に三角巾を載せ、草鞋に杖の装いである。中には私のように、上半身が裸の死者もいる。弔いをしてくれる親類縁者もない、私と同じ境遇の死者に違いがなかった。
「何を怯えている。なぁに、何も心配することはないぞ。宋帝王様はな、本地は文殊菩薩様じゃ。知恵の塊のような菩薩様だという。悪いようにはならんさ」
親しげに、私と同じく上半身が裸の男が声を掛けて来た。悪いようにはならんさ、と言いながら、その男は、先行きの不安に怯え、声が震えていた。
宋帝王の庁舎は寝殿作りで、独立した家屋が回廊で結ばれていた、白砂の庭には遣り水が絶え間なく流れていて、絶妙な位置に配置された置石が眩い光を放っている。壮麗で豪華な佇まいであった。白木の門柱、屋根は瑠璃色の瓦が陽に輝いている。その門の前後を、夥しい数の蛇と、巨大な猫が守っていた。引き返そうとする死者を猫が威嚇し、蛇が道を塞いでいる。
俗名が呼ばれた。清清しく掃き清められた白砂に額ずいた。
「そなたは、ウム、自ら命を絶った愚か者か。どれ、前世におけるお前の性癖はどんなものかな?何と四十年近くも生きていながら、これといった浮いた話もないとは、さもしい人生じやったな」
宋帝王は薄っぺらな書類に目を落としながら呟いた。
「私は何回か風俗に通いました」
「ワハハハハ。その風俗で相手をした女子は、そなたのことを決して嫌ってはいなかったぞよ。ただ、その女子を同僚の聖子とやらに見立てて通ったことは、罪に当たるな」
私の脇の下から脂汗が滲んだ。確かに私の相手をしてくれた女の子を、聖子と思って抱いたのだ。相手の女の子を随分と侮辱した話なのだ。
「本当に申し訳ないことでした」
私は詫びた。自分が悪くても、悪くなくても取り合えず謝ってしまう。自分自身が一番嫌いな、弱気な性格の一面が、ここでも出てしまった。
「戯け。もっと自分に自信を持て。詫びる時は心底、悪かったと思った時に、心を込めて謝るものじゃ。そなたは身を守る為に、心にもない詫びを入れる。その卑しい性格が人に不快感を与えるのじゃ」
宋帝王は私の性格の奥底まで見抜いていた。私自身、嫌で堪らない性格をズバリと突いてくる。私はただただ、頭を垂れ、宋帝王の言葉を噛みしめていた。ただ、頑なに守り続けていた、私の嫌な処世の術を否定されたことによって、むしろ清清しく身が清められていく時を感じていた。
「まっ、よいよい。そなたが自ら命を絶ったということは、自分の性格が嫌だったからであろう。だが、前世において自らの性格を直すことは出来た筈じゃ。早まったようじゃな」
宋帝王は憐憫の表情を浮かべて、私を見つめるのだった。
「私はこの先どうなるのでしょう。私は前世においての生き方が誤っていました。ですから、再び人間界に輪廻して、今度こそ誤りのない人生を全とうしたいと願っているのですが」
「安楽国へ昇天出来るか、それとも六道のいずれかに輪廻するか、結果として地獄に落ちるかは閻魔王がお決めになることじゃ。その前に伍官王の審判を受けねばならぬぞよ」
「伍官王様ですか」
「如何にも伍官王だ。わしの親友じゃよ。秤量舎という秤を使って、そなたが生前に如何なる嘘をついたか、虚言癖はなかったかを調べるのだ。嘘を付いても無駄じゃぞ。正直に尋問に答えることじゃ」
厳しい母に育てられた私は、嘘をついたことはなかった。母は常に、嘘をつくと閻魔大王に舌を抜かれ、地獄に落ちると言っていた。私はその事を信じて生きてきたのだ。
「伍官王様の庁舎にはどのようにして行けばよいのでしょうか」
私は恐る恐る聞いた。嘘と偽りのない前世を生きていた。それだけは自信があった。だから伍官王は怖くはなかった。先行きへの不安の半分は消えている。
「お前の目の前に、一筋の道がある。その道をまっすぐに進め。やがて伍官王の門が現れるであろう」
私は、再び星明かりに浮かぶ一本の道を歩み始めた。闇に慣れ、闇を透かして見ると、その道を旅する者は他にも大勢居ることに気がついた。大半が老人であり、一様に病的であり、暗い表情を浮かべていた。天空に吹く風にのって微かな声が聞こえる。
「ささ、天命尽きたる者共よ、道を急ぐがよい、汝の行く果てに、瑠璃の瓦に黄金の柱が並び立つ宮殿がある。そこが汝の終の住家じゃ。さて、その宮殿は伍葉の生垣に囲まれ、蓮の花咲く池もある安楽の国じゃ。菩薩が汝らの不安、葛藤を癒してくれるじゃろう。何の不安もあるものか。永久不滅の安楽国へ急ぎなされ、そこで、前世の疲れを癒すがよいぞ」
と、それは残された縁者が死者を弔う読経だった。縁者のない私に向けられた読経でないことは明らかである。無縁の者には心を安んずる経の一つもない。冥界に至っても、前世の因業を、なお引きずっていかなければならないのか。ああ、私は再び人間界に戻れるのだろうか。再び人間界に戻れる幸運があるならば、私は二度と人生を踏み外すようなヘマはしまい。
私はそう念じながら、一本道をヨロヨロと進んだ。
山を越え、谷を渡たって、どれ程の道のりだったか、兎に角、誰かに先を急されているような旅だった。やがて、漸く、遠くに壮大な建物群が現れた。
伍官王の庁舎だった。伍官王の庁舎は宋帝王の庁舎と寸分と変わったところがなかった。壮麗な寝殿造りである。