冥界へ行った男(3)
伍官王は宋帝王からの申送書を披いて一読し、
「不妄語を弄したことはないだろうな」
と呟いた。目線は秤量舎(秤)の目盛りに注がれている。秤の針はピクリとも動かない。
「よろしい。次は閻魔王の審判を受けることになるぞ。閻魔王の審判によって、そなたの行く末が決まるのだ。次」
伍官王は簡単に審判を下すと、次の死者の審判に取り掛かった。伍官王の背後には巨大な白象が控えていた。長い鼻を時折揺らし、庁舎に群れている死者達を威嚇していた。
宋帝王は優しく接してくれた。宋帝王と伍官王は親友だという。だから宋帝王からの申送書は、きっと穏やかで、慈愛に満ちたものだと思っていた。だが、伍官王の私に対する態度は冷淡だった。威厳に満ちた宋帝王を眼前にすると、思わず身が硬直したものだった。
再び長い旅が始まった。最後となるだろう不安な旅だった。
それから七日の後、最後の審判を受けるべく閻魔庁にたどりついた。建物群の入り口に「閻魔庁」と大書された門が威容を誇っていた。ここも同じく寝殿造りではあったが、門の内には豪奢な庁舎が並び立ち、各役所は回廊で結ばれていた。それら役所の柱はおろか、棟木にいたるまで黄金に輝いていた。
前庭には夥しい数の死者が群れていた。牙を剥いた大鬼が牧用犬のように走り回り、逃れようとする死者を群の中に引き戻している。
やがて、私は俗名で呼ばれた。私は大鬼に腕を掴まれ、閻魔王庁の右側に立つ別棟に連れて行かれたのだった。その、差ほど大きくはない建物の奥で将官が机を前に座っていた。閻魔王の部下なのであろう、難しい顔をして書面を睨んでいた。私は恐る恐る将官の前で額ずいた。将官は私の生年月日と死亡年月日を尋ね、生前に為した善行は何かと聞いた。私にはこれといった善行は思い当たらなかった。ただ、母に対しては忠孝を尽くした筈だ。そのことを訴えた。将官の尋問はあっけない程、簡単に終わった。過去帳であろうか、将官が分厚い書類を開き、私の顔を確認しながら何かを書き込んでいた。程なく将官は紙片を切り離して、部下に渡した。その部下は私に付いて来るようにと目で合図をして歩きだした。
大鬼は私を閻魔王庁の庭前まで連れてくると、再び戻って行った。
金色に輝く政庁前には、大勢の死者が怯えた表情を浮かべて審判を待っていた。
私が呆然と佇んでいると、褌一つの白鬚を蓄えた老人が近付いて来て、
「前世での悪行を裁かれるとは思いもよらなかった事じゃ。わしはどう転んでも地獄行きに決まっている。親兄弟に見捨てられた身の上だから追善供養をしてくれる者はおらんからな。安楽国になんて行けるはずは無い。ワシはここに来る時、阿弥陀様はおろか、菩薩様のお迎えもなかった。という事はワシは下品下生の身分だって事だもの」
と、寂しそうに訴えるのだった。そう言えば上品上生の者の臨終には、阿弥陀仏が菩薩を従え迎えに来てくれるが、上品中生の者は菩薩だけの迎えになるという。下品中生や下品下生にいたっては迎えはなく一人で冥土への旅をしなければならないと聞いたことがある。私にも阿弥陀仏も菩薩の迎えは無かった。白鬚の老人と同じ境遇だった。
俗名を呼ばれ、私はいよいよ閻魔王庁の階の前に跪いた。指図された訳ではないが、自然と身体が動くのである。
金色に輝く巨大な閻魔王庁の中央には、大机を前に閻魔大王が座っていた。閻魔大王は人類最初の死者であり、十六の将官と八万の獄卒を率いる冥界の王である。赤い法衣を纏い、顔は蒼く、見事なまでに豊かな顎鬚が胸を覆い尽くしている。黄金の冠が眩く輝き、机上には大きな鏡が据えられていた。それは前世の悪行を写すという浄玻璃の鏡だった。
私は怯えていた。現世に嫌気がさして、生れ変わるべく自らの命を断ったはずなのに、地獄に落ちるような羽目になったなら、余りにもお粗末である。西方安楽国に導かれなくてもいい、せめてもう一度人間界へ生れ変わりたいと願っているのだ。首尾よく生まれ変わることが出来たなら、今度こそ、きっと上手く生き抜いてみせると誓っているのだ。
私が閻魔大王の前に額ずくやいなや、
「汝、戒名を持たず。無縁の者か」
頭上に大声が響いた。突然、閻魔大王が口を開いたのだ。口は耳にまで裂け、吐く息は炎のようである。視線は浄玻璃の鏡に注がれたままである。そこに私の過去が写し出されているようである。
私は恐ろしくて震え上がった。でも沈黙は更に次の恐怖を呼ぶように思えた。
閻魔王は、浄玻璃の鏡をじっと見つめていた。
そこには、幼い私が、地蔵尊に手を合わせる絵が写っていた。その手はむき出しで、赤く腫れあがっていた。雪がハラハラと降り注ぐ寒い日の一コマだった。やがて母は地蔵尊に手編みの帽子を被せ、マフラーを首に播いた。母がどんなに信心を尽くしても豊になる事はなかった。どんなに信心が厚くても貧乏は死ぬまで貧乏だった。
「私はどうなるのでしょうか?」
恐る恐る聞いた。
「ウム、前世に悪行はないようじゃな。じゃが、天より与えられし命を自ら断つとは言語道断だ。尚且つ、無縁仏とあらば八寒地獄行きが相当と思慮されるが、前世に負った苦労と母への忠孝を考慮し、冥界への追放と致す」
「冥界への追放?」
浄玻璃の鏡面から目を離さずに言った。奇妙なことに鬼の面相だった閻魔王の表情が慈愛に満ちた表情に替わっている。
「そうだ、冥界への追放だ。だがな、心配はいらんぞ。わしの審判が不服であるとか、汝が縁者によって供養されるか、冥界での善行次第によっては、再度審判されるということじゃ」
「再度審判されるとは?」
「未だ救われる道があるってことだ。死後一〇〇日の後は平等王、一周忌には都市王、三回忌には転輪王、更には、七回忌には蓮華王、十三回忌には慈恩王、三十三回忌には祇園王と、まあ、次々と再審を求めることが出来るのだ。だが、何れにしろ残された親類、縁者が追善供養をしてくれなければならぬぞよ。残念ながら、お前は無縁仏じゃによって、追善供養してくれる親類、縁者もいない。まあ、ワシの審判が不服であれば、冥界にて、精精善行を積むしかないな。冥界において千余の善行を積むことによって安楽国へ導かれるやも知れぬぞよ」
閻魔大王はそういって、始めて微笑んだ。鬼の形相だった閻魔大王の笑顔は当に菩薩の微笑みに変わっていた。普段は鬼のような面相の大王だが、微笑むとまさに地蔵菩薩ののような穏やかさである。
「汝、冥界への追放と相成った。冥界に行くに当って、必ず守らなければならない掟がある。その一つ、決して人間の前に姿を現さぬ事、二つ、人間に冥土の様子を決して話さない事。三つ、下界での怨念を捨てる事。四つ千余の善行を積む事、以上だ。これらの掟を守れば、五十年後に再度審判が行われ、安楽国へ導かれる可能性がある。ひたすら善行を積めよ」
閻魔大王は一言一言、言い含めるようにいうのだった。
「私は安楽国へ行く望みは持ちません。ただ人間界への転生を望みます」
「戯け。天より与えられし命を自ら断つような不届者は人間界に戻る夢は捨てよ」
私は頭上に浴びた怒声に驚いて思わず地に伏した。
「他に望むことはあるか?」
閻魔大王の声は優しくなつた。
「人間界においての私は、辛いことばかりでした。性格が弱いばかりか、体力にも自信がありません。再び人間界に戻れないならば、厳しい修業をして心身共に鍛えたいと望みます」
「修業よの」
言って閻魔大王は大口を開いて笑った。
「ならば、ひたすら南へ行け。南の果てにある泰碌山には破れ坊主がおる。そこで修業をして来い」
「西ではなく、南ですか?」
「つべこへ言うな、サッサと行け。行きたくなければ、永遠に冥界を彷徨い続けることになるぞ」
憤怒の形相を見せて、閻魔大王が顎をしゃくると、赤鬼の獄卒が私の両腕を掴み、閻魔大王の前からひきづり出した。
一本角の赤鬼が首を捻っている。
「前例から言えば間違いなく地獄界へ追放だが、こいつは一体どうしたのだろう」
「ワシはチラと閻魔様の浄玻璃の鏡面を見たんだが、幼い児を連れた母親らしき人が、お地蔵様を拝んでいたな」
「そうか、そういぁ閻魔様の本地は地蔵尊だもな」
大鬼は気のない会話をしながら、私を門外へ放り投げた。
為す術はなかった。これから先、五十年間もの間、冥界を彷徨い続けなければならないのだ。私はただただ呆然と佇み、露に濡れた道標を見ると、その道標には「冥界」と記されていた。それは私に与えられた、他に選択肢のない唯一の道だった。私は仕方なく靄に霞む道を南に向かった。すると、微かに、ほんの微かにではあるが、断末魔かと思われの絶叫が聞こえた。どうやらその声は庁舎の裏門辺りから発せられたようである。私は恐る恐る声がした裏門へ回ってみた。
裏門からは大路が延びていて、その先は七本の道に分かれていた。その七本の道には鳥居があって、各々天道、人道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道と大書された額が掲げられていた。
六道の入り口だったのだ。あの断末魔の声は地獄道から発せられたものだった。
不思議な事に、そこには恐ろしい大鬼の姿はなかった。それなのに死者達は迷わず、まるで昔から知っていたように、鳥居を潜って行くのだった。
今は無心の境地である。暗くて寒い靄の中を連れもなくひたすら前に進んだ。暫くすると不思議な事に寂寥感は消えていた。それより前世における脅迫観念や不安から解放され、今まで経験したことのない安らかな心境になっていた。それは、
「何、何とかなるさ、安楽国に導かれたって、何時の日か消滅するというではないか。安楽国で消滅する時は、想像を絶する苦しみに苛まれるというではないか。死刑囚が刑の執行日が来る日を怯えながら待つという。それと五分だ」
との開き直りが私を強くしたのだった。
エセ易者の大器晩成の相があるなんて予言を信じて事業を起こしたたばかりに、銀行からは毎日のように借金の返済を迫られ、時にはサラ金から借りて返済しろ、とまで言われ、精神的に極限にまで追い詰められる羽目になった。友人、知人からの借金も限界だったし、終いには銀行の圧力に抗しきれずに、とうとうサラ金に手を出した。そこから先は、正に地獄で、奈落の底に蹴落とされたような人生が始まったのである。
数少ない私の友人は、自己破産の道を勧めた。確かに生まれた時は無一文の裸だった。借金さえなければ未来は開けるかも知れない。だから、一時、私は真剣に自己破産の道を考えた。でも、軽々しく自己破産して、金を貸してくれた友人、知人に迷惑をかける訳にはいかなかった。苦しい時に助けてくれた友人、知人にはサラ金以上の利息をつけて返したいと願っていたのだ。私に残されていた最後の良心まで捨てる訳にはいかなかったのだ。
受けた恩を返そうと焦れば焦るほど事態は悪くなった。ましてや世の中は一度失敗した人間に再び、チャンスを与える程甘くない。手に多少の技術があっても、そんなもので未来が開ける筈はなかったのだ。
借りた金の満額とはいかないが、せめて何割かの返済は、生命保険で賄われる。残った元金と金利分は私が命を絶つことによって勘弁して欲しい。それが無一文の私に残された唯一の責任の取り方だった。
私は追い詰められていた。人生をやり直すには残りの時間は無かったし、これと言った打開策もなかったのだ。一度箍の狂った人間は、程ほどで人生に見切りをつけ、生れ変わり、再生する道を選ぶしかない。それが私の下した結論だった。
とにかく私は南へ向かうことにした。数歩歩んだ瞬間、私が命を断った場所、当に私の亡骸が散乱している場所へと浮遊していた。獣のみが知る、私の臨終の場所は、半分ほどに減っているウイスキー瓶と、破れ、朽ち果てたスーツが残されており、白骨があちこちに散らばっていた。
「成れの果ての姿か」
呟いた時、涙が溢れた。今は手足もなく、身体を覆う衣服とてない。生前共にした遺骨なのに寄せ集めて供養する手段もない。これも身に負った罪業の一つなのであろう。ここが私の居場所なのだ。
数年が過ぎたようである。現世において、私を記憶に止めている人はもういないはずだった。私に下された審判は、輪廻転生は叶わない事、善行を積めば安楽国へ導かれるだろうとのことだった。そろそろ私は千余の善行を積まなければならない。
ふと、生前に働いていた会社の同僚、聖子の面影が脳裏を掠めた。確か今年は二五歳になるはずである。私は生前、聖子に想いを寄せていた。年齢が十五歳近くも離れていたので、告白する勇気もなく、遠くから見守っていた。それだけの関係だった。
瞬間、私は聖子の背後にいた。
聖子はホテルでシャワーを浴びていた。熱い飛沫が肌に跳ね、全身が薄いピンク色に染まっている。乳首がピンと上向き、腹部のなだらかな曲線は、豊かな茂みへと連なっている。私が夢想し憧れていた肉体が眼前にあった。と、突然全裸の男が現れ、向き合う格好で聖子と抱き合った。二人共無言で、男の手は聖子の肌を激しく弄り、やがて右手が聖子の茂みの中で止まった。シャワーは聖子の手から離れ、足元で激しい飛沫を飛ばしている。
男は私のかっての同僚、曽田一郎だった。私より一回りも若い青年だったが、唯一といえる私の理解者だった。
「二人は出来ていたのか」
私は悄然となった。が、霊魂となった私に嫉妬の心はなかったが、これ以上二人の秘事を見るには耐えられなかった。私のプラトニックな思い出がズタズタに切り裂かれた瞬間だった。
私の脳裏を札束が掠めた。瞬間私は銀行の大金庫の中に居た。札束が山のように積まれている。
「ああ、この金のほんの少しでもあれば、命を断つ事は無かった」
私は札束を眺めて嘆息した。様々な想いが去来した。借金の支払日になると決まって電話が鳴った。受話器に表示される相手方の電話番号を見ると、それは決まって銀行かサラ金からだった。受話器はほぼ一分程度鳴り続けて止まる。一時間後に又電話が鳴る。受話器を耳に当てると、一刻の猶予もない取立てである。数日待って欲しいと懇願しても、駄目です。直ぐ支払ってくれ、の一点張りである。こうなると、電話が鳴る度に怯えて、仕事に手が付かないのだ。
このお金の為にどれ程苦しんだことであろう。そしてこれだけのお金があったなら、世の中がどれ程楽しかったことだろう。でも、今の私は幸せだった。何しろ特段楽しいことはないけれども、お金の呪縛から解放されたのだから。今は目の前に積まれた札束を見ても未練はないし、心が動くこともない。