冥界へ行った男(4)
銀行を出て、漠然と浮遊している時だった、突然、凄惨な光景が目に入った。電柱に乗用車が激しくぶつかり、炎上しているのである。運転席を透かして見ると、エァーバッグに身を挟まれた曽田一郎が燃えていた。
助けたくても私にはなす術はなかった。
私は直ぐに聖子の元に飛んだ。
聖子は満ち足りた表情を浮べ、深い眠りの中にあった。私は聖子になんとか曽田一郎の事故を知らせなければならないと焦るのだが、その手段を知らなかった。夢の中に入り込む術も、聖子を目覚めさせる術も知らなかったのだ。私は途方に暮れ、それでも何とか知らせようと、聖子の顔に降り立った。でも、未だ聖子は気が付かない。次に私は聖子のパジャマの襟元から胸に潜り込んだ。この場所は、生前、私の憧れの場所だった。こうも易々と、聖子の胸乳に触れることが出来るとは夢にも思わなかった。でも、喜んでは居れない。私は必死に聖子の心臓の辺りを這いまわった。その精だろうか、聖子の鼓動は激しくなり、跳ね上がるように起き上がったのだった。
さて、私は大任を果たした積もりだったが、目覚めた聖子にしてみると、一体何がなんだかさっぱり見当も付かなかったのだろう。再び聖子は布団に潜り込んだ。だが聖子は流石に、気になったのであろう、とうとう朝まで寝付かれなかったようだった。
私はこの時、始めて、生前に体験したことのある第六感の存在を確信したのだった。そう、第六感とか、ムシの知らせとはこういうことだったのだ。
翌日には早くも曽田一郎の葬儀が執り行われた。人気の無い所で、聖子は号泣していた。可哀想だったが、私には為す術を知らなかった。
数日の後、かって私と曽田一郎が働いていた会社へ飛んだ。社長室で社長と部長がソファーで何事か話し合っている。
「主任は未だ見つからんのか?」
「はぁ、全く消息が掴めません」
「君は本当に主任を探しているのか?奴は会社の金を二千万も着服をしてたんだぞ。大体奴が店をオープンした時に、横領を疑うべきだったんだ。それにしても、奴は貧乏だから、その反動で、派手に金を使いまくっているに違いないんだ。一体、奴は店をほっぽりだしてどこに行っちまったんだ。それとだ、曽田一郎も二百万を横領していたってんだろ。一体君は管理職として、何を管理していたんだ」
「申し訳ありません。そう言えば主任には愛人がいたらしく、その愛人に相当に貢いでいたと聞きました。しかも、その愛人は人妻で二人の子持ちとか」
「馬鹿モン。何故それを早く言わんのだ。で、警察にはそのことを言ってるのか」
「確証のある話ではないので未だ・・・・・」
「何と間抜けな。消えた主任が二千万もの金をその女に貢いでいたことは火を見るより明らかではないか。直ぐに警察に知らせろ。全く。それにな、事故で死んだ曽田一郎。奴は生命保険に入っていた筈だ。保険が降りる前に遺族に事情を説明して、奴が横領した二百万を弁済させるんだ。分かったな」
「ハイ、直ちに警察に情報を流します」
「奴め、今ごろ横領した金で愛人と楽しく遊んでいるに違いない。ああ、そう思うと本当に腹が立つ」
社長は禿げ上がった頭に汗を浮かべて怒りまくっていた。
私は社長と部長の会話を聞いて、目の玉が飛び出る程驚いた。主任とは当に私の事である。その主任たる私が会社の金を二千万も横領して姿をくらませたと言うことになっているのだ。しかも、私の友人である、曽田一郎までが会社の金をネコババしたというではないか。曽田一郎は多少、女には目がなかったが、決して会社の金を横領するような男ではない。それは私やかっての同僚も等しく認める所である。どうしてこのようなことになったのか、これでは私も曽田一郎も死んでも死にきれないではないか。
昼時、部長は会社を出た。私は部長を追った。
部長はとあるマンションに入って行った。中年の女が出迎え、やがて二人で風呂に入った。程なく二人は慣れた様子でベットに潜り込み、一戦に及んだのだ。
私は呆れ果てた。この部長は会社の金を横領してこの女につぎ込んでいたのだ。私が姿を消したのを幸いに、横領の罪を私に押し付けていたのだった。それでも懲りず、曽田一郎にまで罪を被せたのだ。
が、不思議に怒りは覚えなかった。仮に怒りを覚えたとしても私には報復する手段も力もなかったからだった。それに前世で染まった諦観が抜け切れていなかったのだ。
冥界に居ながら、阿修羅にもなれず鬼にもなれず、私は悶々と日数を数えていた。
私は再び命を絶った樹海に戻った。樹海の一点に青い炎が見えた。私は興味をそそられ、又、懐かしさもあり、直ちにその炎の元へ向かった。炎の主はみすぼらしい老人だった。
「私は名を持ちませんが、よろしければ御名をお聞かせ下さい」
老人は無言のままである。私を全く無視しているようである。
「私は気付きませんでしたが、随分と長い間ここに居られたのでしょうか」
老人は何を問い掛けても無言だった。気まずい雰囲気が漂っている。口が利けない訳でもあるのか、老人は頑なに口を閉ざしている。前世に計り知れない宿業を背負っているのかも知れない。私は詮方なく立ち去ろうとした。その時、
「恨みを抱いたままでは千余の善行は積めまいぞ」
と、まるで私の心根を見抜いたようなことを言う。
「まさか、私のことをご存知なのですか?」
「知らぬ。じゃがお主の面体に、諦観と、慙愧の相が出ている」
「分りますか。私にはまだ前世への未練が断ち切れてはいません」
「未練もあろうが、恨みもあろう」
「ハイ。実は恨みを晴らしたくても、その手段を持たない私にはなす術がありません。今はただ千の善行を積んで天上界へ・・・・・・・・」
「恨みは必ず晴らすものじゃ。捨て去るものではないぞ」
「しかし、私には恨みを晴らす力も術も持ちません」
「さりとて、前世に恨みを残したままでは、永久に冥界を漂う藻屑となろう。お主の前世における誤りは、怒りを捨てたことにある。恨みを抱かず、徒に迎合する生き方は身を滅ぼすばかりじゃ。今後は性根を入れ替え、邪しまなものには怒り、害をなすものには報復する気概を持たねばならぬぞよ。それが冥界に漂うお主が、再び審判を受け、天上界に昇天する為の条件じゃ」
「一体、私はどのようにすればよいのでしょう」
「閻魔大王様に命じられたことを忘れたのか」
私ははっとした。前世の悪い癖がででしまい、その場を逃れればよいとする、安易な身の処し方をしてしまったようだ。
「私はただ、南の果てにある泰碌山にいるお坊さんを訪ね、修業して来いと」
「命じられたのだろう。それなのに何をしているのだ。だからお主は何をやっても駄目なのだ」
「済みません。直ちに泰碌山に向かいます。して、泰碌山にいる御坊の名は?」
「東辛坊様だ。さっさと行け」
老人は怒鳴るように言って、フッと姿を消した。
私は、兎に角、老人が言う泰碌山に行けば、何か得るものがあるに違いない。私はそう確信した。
私は南方の彼方に聳え立つという泰碌山に向けて旅立った。だが、この旅は難儀を極めた。途中の火炎山は灼熱地獄では鉄も岩も焼け爛れていたし、厳寒湖を渡る時は音すら凍るかと思われる程の極寒の地だった。ようやく平地に出ると、地面には針のように尖った岩が闖入者を頑なに拒んでいた。さらに私を苦しめたのは、鬼共で、何とか私を絡め取ろうと執拗に追いかけて来ることだった。
(ああ、死にたい。こんなに苦しい思いをするなら、いっそのこと死んだほうが余程いい)
私はそう独語したものの、生きる苦しさから逃れる為に、自らの命を絶ち、その罪業を償わなければならない私に再び死が許される筈はなかったのだ。
苦難の旅は続いた。岐路もなく、行くべき道は一筋で踏み迷うことはなかった。それはまるで何者かが私を泰碌山へと導いているかのようである。そう言えばこの旅の間、数々の苦難を乗り越える事が出来たのは、何者かの加護があったのかも知れない。
何時果てるとも知れない、広漠とした世界を旅することは忍耐以外の何物でもなかった。
忍耐と苦痛に耐え、私はとうとう泰碌山にたどり着いた。泰碌山は四方が海に囲まれている絶海の孤島だった。麓の海岸縁には草庵が点在している。
一軒の草庵に案内を請うた。
「東辛坊様は?」
黙然と瞑目し、座していた無精鬚の男は黙って天上を指差した。私は礼を述べ、休む間も無く、雲間に聳える山頂を目指した。
泰碌山の頂上は平らに開けていて、流木で組まれた山門の奥に、破れ庵が一つあった。欅の巨木が一本生えているだけで、回りには草木の影もない。所在を示す標識もなく、麓に点在していた庵となんら異なるところの無い、小さな草庵が一つあるだけだった。
庵の中を覗くと、赤褌の大男が大の字になって寝ていた。東辛坊であろうか。私は詮方なく、上がり框に腰を降ろして、その大男の目覚めを待つ事にした。
何時か私は眠ってしまったようである。随分と長い間眠っていたようでもあるし、ほんの一瞬の眠りであったのかも知れない。私が目覚めても、東辛坊はまだ深い眠りの中にいた。
私は大岩に腰を降ろし、眼下に広がる広大無辺の海を眺めていた。
無の境地である。暫くたって、一瞬背後に風圧のような圧力を感じた。焼けるように熱い火の塊が全身を包み、一瞬の間を置いて、焼け爛れた槍の穂先のような閃光が頭上を掠めた。激しいエネルギーを含んだ気迫だった。
その刹那、私の身体は上空高く舞い上がった。気迫に圧されて跳ね上がったのではない。明らかに背後に感じた危険を避ける為、私の身体が反応して、突然、無意識に跳ね上がったのである。
上空で反転し、再び大岩に舞い降りようとした時だった。数閃の刃が襲い掛かって来た。私はその厳しい白刃の悉くを避けた。
白刃の攻撃は止み、再び大岩に舞い降りると、眼前に身の丈三メートルはあろうかと思われる赤褌の大男が立っていた。