冥界へ行った男(5)
「見事である」
大男は言った。
「東辛坊様。東辛坊様ですよね」
「如何にも、東辛坊である」
「私をどうか弟子にして下さい」
私は東辛坊に突然襲われた怒りも忘れ唐突に懇願した。
「駄目だ」
東辛坊はニベもない。
「何故ですか」
「ここに至るまでに修行をしたではないか。それで充分だ」
「東辛坊様、私はこれまで人を恨んだり憎しみの心を持ったことは有りません。怒りも覚えません。仮に人を恨み憎んでみても、私には報復する力も知恵も有りませんから、どのような理不尽にも耐えるより仕方がなかったのです。だから私は東辛坊様から怒りと憎しみと、そして報復出来るくらいの力と知恵を授かりたいのです」
「理不尽に対して怒り、報復したいが故に、力と知恵を身に付けたいと言うのじゃな。どうも誰かが入れ知恵をしたようじゃな」
東辛坊はニヤリと笑った。
「ハイ」
「汝はここ泰碌山に至るまでに、様々な厄難に合うた筈じゃ」
「大変に難儀な旅でした」
「苦難の旅を乗り越えた故、ワシの攻撃を悉く翻す術が身に付いたではないか。汝に尚、足らないものは、烈火の如く怒る気迫と攻撃の術であると見える」
「苦難の旅は無駄では無かったと」
「如何にも。おお、そうじゃ。それと、も一つ、汝に欠けるものが、も一つあった。忍耐じゃ。お主には忍耐がない」
東辛坊はカラカラと笑った。
「何れにしろワシは弟子は取らん。じゃが、ここで修行したいというなら、お前の勝手だ。だがの、ここにいる間は次々と厄難が襲って来るぞ」
東辛坊はそういい残して消えてしまった。
私は東辛坊に忍耐が欠けていると言われた時、ふと、前世で易者に、大器晩成型の人間だと言われたことを思い出した。もう少し前世に留まっていれば成功していたのかも知れないと思った。だが、大器晩成型の人間だと言われても、私には晩とは、一体幾つをもって晩というのか分らなかった。50歳をもって晩というのか、80歳をもって晩というのかが分からなかった。仮に80歳をもって晩というのなら、余りにも虚しすぎるではないか。80歳になって成功して、大器晩成だなんていわれても、余命幾ばくもないではないか。そんな人生は真っ平だ。と、私は胸の奥底で嘯いたものである。
兎も角、その日から厳しい厄難に襲われた。先ず大鬼が現れ、私を金縛りにして棘のある木で叩き、砕けたと思えば、涼やかな風が吹いて蘇る。ある時は焼け爛れた鉄板に乗せられ、熱い鞭で叩かれ、果ては煮えたぎった釜に放り込まれた。次には、鉄山に押し潰され、煮えたぎった銅を飲まされる。なかでも最大の苦しみは焼けたカナテコで舌を引き抜かれるのだが、何度も舌は生え変わり、その度に又引き抜かれる責めだった。
ここでの修行は正しく地獄の責め苦だった。
「ああ、こんな苦しくて辛い思いをするならば、こんな所に来るのではなかった。この苦しみを思えば前世の苦しみは蚊に刺されたようなものだ」
私はここでも後悔するのだった。
私は地下一千由旬に及ぶという地獄と同じ、即ち、等活、黒縄、衆合、叫喚、焦熱、阿鼻の苦しみに苛まれた。そしてその責め苦の悉くに耐えた。罪業を背負った者が受ける地獄の責め苦には限りがなかったが、修行者の私は、必ず開放される日が来るという確信があったので耐えることが出来たのだった。人間界において死ぬことは簡単なことだが、冥界では死ぬことは出来ない。死ねないということは想像を絶する苦しさだった。
だがしかし、この修行によって、忍耐と激しい怒りの感情を身に付けることが出来たのだった。冥界において初めて性格を変えることに成功したのだった。
総ての修行を終え、精魂も尽き果て、放心状態で東辛坊の庵に戻った。東辛坊は階に腰を降ろし欅の小枝を削っていた。
東辛坊は私を見ると、やおら立ち上がり、門前の大岩に立って、大きく息を吸い込み一気に吐き出して見せた。吐き出された息は炎と化し、大海の果てまでも飛んでいった。火炎を吐き出した後、東辛坊は大岩の上に崩れ落ちた。大岩の上に身を横たえ、
「気迫じゃよ。身一杯に気を込め、溜まったエネルギーを一気に吐き出せ」
と、巨体に似合わぬ、か細い声で言った。
私は東辛坊に言われるまま、大岩に立ち、深ぶかと息を吸い込み、一気に吐き出した。だが、咽喉がヒューと鳴るばかりで、炎はおろか煙の一筋も出なかった。東辛坊はやおら立ち上がると、私を岩石のような拳で殴りつけた。東辛坊は、
「ま一度地獄の修行をするか」
と私を睨み付け、庵の奥で寝てしまった。
その日から再び修行が始まった。来る日も来る日も大岩に立ち、遥か大海の果てまで届けよと息を吐き続けたのだった。ある時突然、不甲斐ない自分に怒りが込み上げて来て、同時に気が総身に漲った刹那、私の吐いた息は始めて炎となった。
私の背後に東辛坊が立っていた。
「成し遂げたの」
東辛坊は微笑みを浮かべていた。その微笑みを浮かべた顔は菩薩のようであった。
「仏は誰にでも優しく慈悲の心を持つという。だがなワシはそんな仏の御心が分からん。慈悲を授ければ、必ず慈悲に甘えて堕落する者が現れるからだ。罪人が冥界で罪を受けるのは意味がない。人間界で悪行を為すものが居れば、人間界で厳しく罰するべきである。汝が得た秘術で人間界で法の裏をかき、専ら悪行を為す者を懲らしめよ」
東辛坊はそう言うと、私に削り終えた欅の小枝を授けてくれたのだった。
「わしは弟子は取らぬといってるのに閻魔王はこんな文を寄こしおって」
といいながら、閻魔王から届いたのであろう手紙を引き破り、大海に向けて吹き飛ばした。泰信坊は傍らの削り終えた欅を投げよこした。私は欅の小枝を頭上に押し頂いた。
更に東辛坊は言う。
「言うておくが、汝が会得したる吐炎術は滅多に使ってはならぬ。現世において人々を苦しめ、悪行改まらぬ者共にこそ、その秘術でもって悉く焼き尽くすのだ。その欅の小枝は東信棒である。この東信棒は専ら攻撃に使え。冥界に戻れば再び閻魔王より厳しい審問を受けるであろう。その時、この東信棒を見せればよい。そして、冥界における行動の自由を保障してもらうがよかろう。も一つ言うておく。ここ泰碌山で修行したる以上、絶対に安楽国へは行けぬぞよ」
今、私は、冥界も悪くはないと思っている。だから、もう安楽国で安住しょうとは考えてはいなかった。それに、安楽国にも寿命があって、滅する時は塗炭の苦しみがあるという。先の不安に怯えて暮らすより、冥界を彷徨い続けた方が性に合っている。それに何といっても覗き見が出来る楽しみがあった。若い男女の睦合いや、女性の入浴シーンなど、思う存分楽しむ事が出来るのだ。しかも、私は激しい修行に耐え、結果秘術を身に付けた。もう怖いものなんて何一つない。そう思うと自然と口元が綻んで来る。
「カーッ。戯け」
東辛坊は突然、口を耳元まで裂いて怒った。私の邪まな心根を見抜いたのだ。私は一升程の冷や汗をかき、震え上がった。
そんな私を見て東辛坊は腹を抱えて笑った。
私は東辛坊に厚く礼を述べ、泰碌山を後にした。
再び、冥界へと戻る旅は快適だった。大鬼が現れても、東信棒を振りかざせば悉く逃げ惑い、果ては消滅してしまう。針の岩越えも秦碌山での修行からみると、蚊に刺された程度のものだったし、厳寒湖を渡る時だって、気を溜め、気迫の血を滾らせれば涼やかですらある。灼熱の火炎山も焦熱地獄の責め苦に耐えた私にとっては初夏の気温だった。
私は再び冥界に戻り、閻魔王の門前に立った。大鬼が現れ、
「何しに参った。とっとと失せろ」
と、私を足蹴にした。
私は恐る恐る東信棒を差し出した。大鬼はしばらく東信棒を眺めていたが、慌てて庁舎の中に駆け込んで行った。
閻魔王は、暫くの間、東信棒を眺めていた。そして、ニヤリと微笑んだ。
「破れくそ坊主の元で修業を積んだか」
「破れくそ坊主とは東辛坊さまのことですか?」
「如何にも。わしの古くからの友人であるぞ。そして、その破れ坊主こそ、お前の祖先なのだ」
私はそれを聞いて腰を抜かさんばかりに驚いた。そういえば、不思議なことが度々あった。修業中、塗炭の苦しみに喘いでいても決して消滅しなかったし、何かに守られている気がしてならなかったのだ。
「今後は冥界にて、千の善行を積め」
閻魔大王は手でハエを払うように振ってニコっと微笑んだ。その笑顔は地蔵尊のようにやさしく穏やかだった。