ポスト
「初めて貴方と出会ったのは、貴方がこの家にやってきた日。可愛らしい産着に包まれた貴方は、その小さな身体からは想像もできない程大きな声で泣いていましたね。初めましての挨拶は、きっと聞こえなかったことでしょう。お母さんが少し困った顔で貴方をあやして、お父さんが荷物の中から玩具を探していました。
けれど、私はそんな光景をとても嬉しく思いました。
何故なら私にとって、貴方と、貴方のお父さんとお母さんが、最初の家族だったのですから」
「幼稚園に行くようになった貴方は、いつも泥だらけで帰ってきましたね。お母さんには何度も叱られていました。
貴方はいつも背伸びして、私に触れてくれました。泥だらけの手で、タッチしてくれたこともありました。お母さんには怒られたけど、私は嫌ではありませんでした。
この頃、お母さんに言われて、毎朝私に会いに来るのが、貴方の仕事になりました」
「小学校に上がると、今度はスポーツをして泥だらけになる事が増えました。少し帰りも、遅くなりました。一度ものすごく遅くなってしまった時、貴方は怒られるのが恐くて、私に隠れていましたね。泣いている貴方を慰めてあげる事も出来ず、結局は困り顔で家に入るのを、見ている事しかできませんでした。
いつのまにか、背伸びをしなくても私に届くようになっていましたね。
お母さんに持たされた鍵を誇らしげにしている姿に、何だか私も誇らしく思った事を、覚えています」
「黒いランドセルではなくなって、黒い制服を着始めた頃。貴方は頻繁に、私の所へやってきました。何だか少し緊張した顔をして、何度も何度も行き来していました。嬉しそうな顔や、寂しそうな顔を一番見たのは、この時期だったかもしれません。独り言なんか呟いていたのを、私だけが知っています」
「お父さんと喧嘩をしたのは、ずっと続けていた野球を止めた少し後でしたね。いつも素直だった貴方が、家を飛び出して大きな声を出していました。私にも八つ当たりしていました。
でも素直な貴方は、最後にはちゃんと仲直りをしていて、ホッとしたのを覚えています。
まだ冬が残っている朝。毎日手を合わせては私の所にやってきた貴方。
行きたかった学校へ行けることが決まった日の、貴方のあの嬉しそうな顔は、忘れられません」
「暫らくは、時々顔を出すだけの日が続きました。貴方が久々に帰って来た時、隣に知らない女の人がいました。緊張する彼女を励ます貴方の笑顔は、随分大人になっていました。
彼女は、会社で出会った女性だと、貴方は言っていましたね。お母さんは少し寂しそうだったけど、それでもとても、喜んでいました。お父さんも、照れていただけだったのを、貴方は気付いていたのでしょうか?」
「その後も、時々貴方は彼女とやって来ていました。お父さんとお母さんだけになって、少しだけ広くなったこの家が、貴方には来づらい場所になっていたのかもしれません。それでも、たまにくる貴方はどんどん大人になっていって、私は少しだけ、寂しく思いました。
でも、彼女と、彼女の連れている小さな存在を見た時、貴方と初めて出会った緋を、思い出しました」
「真っ黒なスーツを着て帰ってきた貴方は、気丈に静かに振る舞いました。
こんなに早く、お父さんとお別れをするとは思ってもいなくて、泣いているお母さんの背を時折撫でて、彼女や、小さな子ども達の前ではちゃんと笑顔でいましたね。でも、私は知っています。貴方が、煙草を吸うからと言い訳をして家を出た後、私の側で、昔隠れていたみたいに座り込んで、少しだけ泣いていた事を。
私はやっぱり、貴方を慰めてはあげられませんでした」
「貴方が、貴方と彼女によく似た、男の子と女の子を連れてこの家に帰ってきた日。すっかりおばあちゃんになったお母さんと、一緒に暮らすことを決めたのだと知りました。最近、家の中から時折咳が聞こえていて、心配をしていたところだったから、私もとても、ホッとしました。
がらんとしていた家が、急に騒がしくなって、少し窮屈そうだったけれど、貴方は少し、楽しそうでしたね」
「まだまだ沢山、思い出があります。貴方が、貴方の子ども達と色々な話をしたこと。庭に、鯉のぼりを立てた事。奥さんが働き出した事。子ども達が、貴方が子どもの頃と同じように、私にハイタッチをしたり、私の側をうろうろしたりしていた事。お母さんとも、お別れをしなくてはいけなくなった事」
「私は、その間も、ずっとずっと、貴方を見守っていました。
『おはよう』を言いました。『いってらっしゃい』を言いました。『お帰り』を言いました。
『おめでとう』を言いました。『ごめんね』を言いました。『ありがとう』を、言いました。
貴方は、知らないかもしれないけれど、私はずっと、貴方を見ていました」
「子ども達がいなくなって、貴方と奥さんが、お父さんとお母さんのように年を取っていく中。
貴方が、錆びついた私を直した後に、昔泥遊びをして帰ってきた後みたいにタッチをしてくれたのも、私にとっては嬉しい事でした」
「色々な物を、貴方に届けました。嬉しいお知らせ。哀しいお知らせ。誰かとの内緒の話。想い出や、重要な書類。
新聞を取りに顔を出してくれるのは、今も昔も、貴方の日課のようですね」
「古い金属音は、軋み始めて。ぎぃと少し嫌な音を聞かせるようになってしまいました。
それでも貴方は、時折ポンポンと、私を撫でてくれます。この家と一緒に、ずっとずっと、貴方を見てきた。家の中が多少変わっても、私はずっと、変わっていません」
「いつか、この家が無くなる時、私もなくなってしまうでしょう。けれども、私はそれでもよいと、思いました。
貴方に、手紙やお知らせを届けられなくなるくらいならば、私はいなくなっても良いと」
「私は、ポスト。小さな、ポスト。貴方に届ける新聞を持って、私は今朝も、待っています」