新月の音 1部 2章 1節

(本作の物語は全て虚構であり、実在する人物や集団、場所、出来事、法律、特許技術とは関係ありません)

 生命保険会社の社員として、小野寺美紗は事態に呆れていた。雰囲気は静かであるが客は多いため雑音に満ちた喫茶店で、彼女は大学院生を前に座っていた。気の毒な青年であったが、小野寺としては疑うことしか許されなかった。しかし憐れみと疑いは、半分はその通りであったが、半分は彼女の情動の理性的な釈明に過ぎなかった。
 小野寺調査員の悟性は、洙原(なみばら)祐也という青年を疑っていなかった。彼が幾らかの事実誤認をしていたとしても、悪意を持っているようには感じられなかった。洙原青年の印象や様子は純朴な男だった。だから小野寺は彼を信用していた。そしてだから、小野寺は彼が本能的には気に食わなかった。
 洙原祐也は小野寺美紗より二歳歳上であった。しかし雰囲気は幼かった。あるいは彼女の方が老けていた。それが小野寺には内心少し癪なことであったし、その心理や皮膚の事実について、洙原は無頓着であった。それが小野寺が呆れる事態の象徴であった。
 小野寺としては、唯一の肉親を失った青年の傷心には同情し得た。しかし洙原と小野寺は被保険者の遺族と保険者の代理であり、社会契約上の関係でしかなかった。勝手に弱みを示せる相手と思われても困るのであった。歳下の男性であったならば、小野寺の場合、彼女自身の若さや社会階層の境遇に照らして、また彼女の性格のゆえに、それも許せたのかもしれなかった。しかしその倫理観の裏返しのために、彼女は自身より歳上の男に弱がられて、否定的な感情を全く覚えないこともできなかった。その感情を過剰に表現すれば警戒や敵意、嫌悪、不快であった。そうした感情は、小野寺の徳目の中で肯定してよいもの、否定する必要のないものだった。しかしそれらを微かにも表してしまえば、彼女自身が洙原を密かにでも蔑し、遠退けてよい倫理的根拠が失われてしまうので、その情動は冷静に封じられていた。そうした洙原への純朴な印象と否定すべき印象という、感性における自身の反応を、彼女は生命保険会社の調査員に然るべき憐れみと疑いに吐き替えて市民性を保っていた。市民として当然の心理機序であった。
 洙原祐也は日本史学科を卒業して後、近代経済史を修士課程と博士課程を合わせて六年あまり研究していた。小野寺は数学科を卒業して後、四年間を保険会社で過ごしていた。この四年間は二人の顔つきに決定的な差異を与えていた。それは二人が体験するストレスの違いに由来していた。
 洙原のストレスは年間単位の時間の切迫であった。できるだけ短い年数で研究課題を達成し、孤独が近い環境下で論文を完成させるという、息の長いストレスの中で生きていた。息の長いストレスであるからには、それほど呼吸は乱れず、日頃の心拍数は変わらないで安定していた。加えて彼の場合、研究対象は過去の出来事を表す文献であったから、研究行為において時間的制約は少なく、心拍数にかかわるストレスはあまりなかった。つまり実験や観察、アンケートやインタビュー、計算や解析の実行計画、成果発表の競争性という外部時間への依存が少ない分野であったから、時間に追われて脈拍が速まる機会が少なかったのである。
 彼より微かに早く老け始めていた小野寺の方が、業務と上司の顔色のために心臓の拍動を速めるストレスが珍しくなかった。早鐘を打つ全身の状態を悟らせまいと、顔の筋肉を緊張させる累積時間が、彼女の方が長かった。朝食も食べなくなった多忙な彼女は、健康に貯めていた顔の脂肪も僅かに減らし始めていた。その筋肉と脂肪の比が変わり、若年雌性個体に典型的な起伏に乏しい顔にも僅かに陰影が現れ始めていた。
 彼女に比べると、洙原青年の顔は脂肪が減らない割に筋肉が衰えていたので、雄性個体に典型的な角郭は感じられるがある程度は滑ら顔をしていた。
 それが洙原祐也と小野寺美紗、二人の青年の顔に表れた、積み重ねてきた生活の差異だった。

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