新月の音 1部 2章 2節
(本作の物語は全て虚構であり、実在する人物や集団、場所、出来事、法律、特許技術とは関係ありません)
そうした人生の体験の隔たりこそあったものの、洙原の実年齢にはそぐわない幼さの片鱗を差し引いても、美紗は素朴に憐れみを覚えていた。洙原青年に正当な受け取る資格があるとしても、彼が受け取ることを望んでいても、しかし小野寺は、洙原の弟に掛けられていた死亡保険金を、洙原祐也に支払うことが、差し当たりできなかった。
「よかったです、とりあえず保険証と学証で本人証明書類と見なせます」
そこで小野寺は、パスポートの取得を勧めることを一瞬は考えたが、職務外のことであるためにやめてしまった。
本人確認書類として、前年から個人番号カードという顔写真付きのカードも行政から発行されていたが、その取得勧告こそ小野寺はもっと考えなかった。単純に彼女自身が、個人番号カード取得について様子を見ていて、身近ではなかったために思い浮かばなかったのであった。
「……次に必要なのが、戸籍抄本です。あなたと故人の洙原郁也さんが兄弟関係であることを証明する文書として……」
本来なら喫茶店でする話ではなかった。しかし洙原祐也の仕事の都合で、そうするしかなかった。洙原祐也は双子の弟とされる洙原郁弥と二人で暮らしていたが、その弟の死亡後は一人暮らしをしていた。そして彼は忙しかった。立て続けに処理を求められる忙務は無かったが、拘束時間は長かった。彼には休日が凡そなく、保険調査員の勤務時間に在宅する予定はなかった。小野寺は良心が咎めたが、仕事が進まない状況も居た堪れず、喫茶店での話し合いに応じてしまった。
「それから住民票。こちらは住所の確定に必要です。そして死亡診断書か死亡届が必要です。……診断書はまだですよね」
「……はい」
「ではとりあえず死亡届の写しでよいです。区役所に提出したものの」
「死亡届、住民票、…戸籍謄本、……他に何かありましたか」
「それで大丈夫です。保険契約の確認の段階では」
「…分かりました」
祐也及び郁也は保険契約書を紛失していた。被保険者の郁也が故人となっていたため、遺族の祐也を保険契約の代理人として、契約情報の照会手続きをする必要があった。
洙原郁也という故人は、祐也の双子の弟で、計算機科学の研究者であった。しかし交通事故により早世した。郁也は地方で開かれた学会の帰りに、会場から現地の空港へ移動する車の中で事故に巻き込まれた。その車には段階三までの自動運転機能が試験的に搭載されており、特定の条件下では運転手無しで車両が走行することができた。そうした特殊な車両で発生した事故であったことで、八月二十四日の事故であったが、死亡診断書は九月中旬になっても発行されないままであった。そうした特殊な事故であったから、郁也に掛けられていた死亡保険も、すぐには支払うことができなかった。ただし遺族の祐也によれば保険契約書が見つからないため、契約照会の手続きが必要であった。それが小野寺美紗の現在の仕事の一つであった。
彼女は一週間後に再び会うことを提案したが、祐也が二週間後を打診したので、やはり小野寺が折れた。
次の予定は小野寺にとって娯楽であったが、祐也を相手にするのとは違った辛苦も伴うものであった。恐らくは語りたくない過去を話すことになると思われた。