双頭の性 第十五場 そんなことは私が私に許さない。
<目次>
https://www.gengoya.net/info/novel-2/
医者であれば、こんなときどうするのか。
テレビ・ドラマで観たように頸動脈を探ってみた。探れなかった。手首の脈をとってみた。とれたと思うが、いくら位置を変えても脈はなかった。心臓に耳を押しあてた。何も聞こえなかった。揺り起こそうとした。鼻からも口からも呼吸をしていなかった。素人にも石原麻々は死んだのだということがわかった。私は死んだとわかって初めて医者を呼ぶことを考え、さらに何秒かたってその無意味さに気がついた。
私は尻を落とし、後ろに両手をついて、長い間、焦点の結べない視線を麻々の顔の上に置いていた。左の頬には、私が平手打ちをした手の痕がついていた。
(私の人生が殺人者になることで終わろうとは…)
その思いが、次の思いに進むこともなく、現れては消え、消えては現れた。事実を直視しようとしても、そのことを自分がどう受け容れてよいのか、私にはわからなかった。これは過失であるにしろ、世間では殺人事件と呼ばれるものだった。しかし、目の前にあるのが自分の殺した死体であるとは、どうしても思うことができなかった。
私は火を絶やさないでおくことがいまできる最も意味あることででもあるかのように、ひたすら薪をくべ続けた。
私は麻々のベストを直し、額にかかった白い髪を整えた。しかし、それらのことをいくらやっても、もちろん麻々が生き返るわけではなかった。
私は途方にくれて、遺体の横で頭を垂れた。涙が頬をつたい落ちるべきときかもしれなかったが、涙は出なかった。自分のために、あるいは誰かのために落とす涙が出るほど、これはリアリティある現実ではなかった。特定の感情を持つ以前の出来事だった。持つべき感情と自分との間に、次元の異なる層が入り込んだように、私はこの場から浮き上がっていた。
小一時間も私は立てた両膝の間に自分の頭を埋めていた。
私は立って、あらためて麻々の全身を眺めた。指の先で頬に、むきだしの肩に、腕に触れてみた。もういちど心臓に耳を押しつけた。鼻のところで呼吸の気配を知ろうとした。やはり死んでいた。生き返ってはいなかった。
もしかしたら麻々は、頭を打った直後であれば、気を失ってはいても心臓は動いていたのかもしれなかった。その時点で救急車を呼んでいれば、命をながらえたのかもしれなかった。しかし現実には、麻々を死なせるに十分な無為の時間が流れた。
(そのことを私はこれから警察に行って説明しなければいけないの? なぜ喧嘩になったのか。私は誰なのか。麻々とはどういう関係か。話していると、必ず私は、なぜここに来ているかを問われる。それを話すと…そうよ、それを話すと、連続自殺とけっきょくは結びつけられる。かたわもののトランスジェンダーたちの奇妙な自殺…そして殺人…久木野刑事の疑惑…そうやって彼らは私の人生を正義面していじり始める…いいの、それで? 誰が私とアコや麻々との葛藤を理解できるというの。なんのための平手打ちだったか、誰に理解できるっていうの。誰にもわかりゃしないわ。とんでもないわ。彼らは法律なんかじゃ捉えきれない現実があるってことに気づきもしないでしょうね。そんな連中に、そんな世間に、私の人生を委ねていいの? とんでもないわよっ)
それは、その問いは、何度くり返してみてもとんでもないことなのだった。
私は冷えた目の底でこれまでの歳月を睨みつけた。そこには根雪のように固まった憤りがいまなお横たわっていた。
肉体と精神に宿る性別の矛盾のことで、これまで世間がいったいどんな理解を持とうとしてくれたのか。この国では性別の矛盾を克服しようとする必死の手術が、やっと公けに行われるようになったばかりだし、法の上では心の性別に合わせて戸籍を変えることが許されたが、実際の生活場面では、私たちはただ虫喰いの果実のように見捨てられているだけではないか。
だからどうだ、というのではなかった。
そんなことを嘆くほど私は弱くはなかった。むしろ、矛盾のない性別で生まれた人間よりは、ずっと強靱であるかもしれなかった。強靱になんかなりたいわけではなかったが、強靱にならざるをえない世間の目であり、生活手段の困難さであり、さらに言えば施した手術の過酷さだった。
(私は最後まで私でいるわ!)
私はやはり警察には行かないと、強く結論づけた。
これは尊厳の問題だった。捨て置きにされてきた世間や法律に、この年齢になって、そしてこんなときにだけ正義面して手を突っ込まれるなんて、とんでもない。
(そんなことは私が私に許さない!)
では。
麻々の棲んでいたこの肉体は、いったいどうすればよいのか。
まったく何の考えもなかった。
左側頭部から後頭部にかけて卵大の出血があった。それを見ても、すでに何の感慨もわかなかった。麻々は私に張られた左の頬を皮下出血させ、そこだけにまだ生きた感情が残っているかのように横たわっていた。私は自分自身が麻々から脱け出た魂となって、ただ意味もなく麻々の全身を見おろし続けた。
そして…。
私の目が、顔から胸へ、腹部へ、そして下半身へとおりていったそのとき。
(!)
私の脳裡は、突然、白銀色した光彩に埋め尽くされた。
光彩は内側から私を圧し、私の手を麻々の身につけているパンツへ、ショーツへと押していった。
一秒、
二秒、
三秒、
時が何十倍にも遅く、重たく進んでいく中、私は露わになった麻々の陰部をその目に深く吞み込んだ。
麻々は男だった。