炭山の御神木(3)
雪が降った。例年より半月も早い初雪だった。パラメムの丘は、刷毛で刷いたたように、白一色に塗りつぶされた。肌を刺すような寒風が、安普請の家屋に襲い掛かった。
初雪が降った後は、堰を切ったように、乾いた雪が深々と降り続いた。
和男は晩秋に刈り取っておいた葦で暴風壁を造り、吹き付ける北風に備えた。厳寒の中での作業は堪えたが、産まれてくる子供と、富美のどんに苦しい時でも変わらない笑顔を思い浮かべると、どんな辛い作業でも耐えることが出来た。
富美は穫れた大豆を煮て味噌を造り、大根を漬け、白菜を漬けた。
和男と相談をしなくても、毎年のことである、誰に指示されることなく、富美は富美なりの仕事をこなしていった。
安普請の家屋だが、部屋に入ると赤々と燃え盛る炎が、疲れを癒してくれる。冬の燃料は、炭にならなかった雑木が使い切れないほど沢山あったので、気にすることなく暖をとることが出来た。
まもなく正月が来る。十二月二十八日は代々受け継がれて来た餅つきの日である。
和男は馬車を馬橇に代え、音更市街にまで雑穀を売りに行った。雑穀は、毎年馴染みの穀物商に売った。手にした幾ばくかの現金で、餠米を買い、お神酒を買い、木箱入りの有田みかんを一箱買った。
十勝の開拓者の多くは米作に挑戦した。だが、ことごとく失敗して、今は畑作専業となっている。米を育てることは悲願だったが、いかんせん気候だけはどうすることも出来なかったのである。だから、農民でありながら、コメは買わなければならない。米が口に入るのは、盆と正月、それに法事か婚礼など、限られた日に限られていた。
正月前の音更は、十勝各地から雑穀を売りに来た農民で賑わっていた。未だ日の入り前だというのに、もう強かに酔って、大通りをふら付いている。久しぶりに握った現金である。それを使う快感に酔っているのだ。
ジングルベルの曲が一夜にして「お正月」の曲に変わっていた。町中に流れる曲は、普段寡黙な男の心まで浮き立たせる。一年の終わり、厳しい労働に耐えて来た男達が、解放感に浸るのも理解出来る。もうこの頃になると、大農場経営の夢は捨てている。明日、食い物の心配が無くなる程度の豊かさで十分だと、内心は思っているのだ。
和男はゆっくりと馬橇を馬に曳かせて、暫くの間、賑やかな通りの雰囲気を楽しんでいた。
突然(嗚呼、そう言えば富美を連れてくればよかった)と、悔やんだ。日頃夏は緑一色、冬は白一色の世界で生きている。けれども、ここは赤や青、黄色にピンクにと、色とりどりの世界である。せめて一年に一度くらい華やかな世界を見ることくらいは許される。
和男は洋品店の店先に馬を止めて、富美にマフラーと手袋を買った。多分、手袋なんて、いくらでも手編みで作れると言うだろう。いや絶対にそう言うに決まっている。けれども手袋とマフラーを広げて、嬉しそうに何時までも見入っている姿が瞼に浮かぶ。そんな富美の姿を思い浮かべると、和男も嬉しくなる。
和男が家に戻った時、日はとっくに沈んでいて、空には満天の星がさんざめいていた。
富美は玄関先で和男の帰りを待っていた。
「明日の朝は早く起きて、餅を突かなければならんのに、何してたの」
案の定の台詞である。富美は寂しがり屋である。一日千秋の思いで和男の帰りを待ちわびていたくせに、拗ねてみせるのである。
包み披いて、富美は、土産のマフラーと手袋を手にとって何時までも眺めていた。和男の目を盗んで首に巻いてみたり、手袋を何度を履いたり脱いだり、カラフルな彩を楽しんでいるのだった。
あっと言う間に正月が過ぎ、例年通り炭焼きが始まった。雪が解けて大地が緩み、畑を耕すまでの短い間は救済事業で日銭を稼ぐ毎日が始まる。
パラメムの丘に立って、まだ雪の溶け切らない原野に向かって「ウオー」と大声で叫んだ。叫んだ声に乗せて、全身に溜まっていた一年の疲れを吹き飛ばすと、肺胞の空いた隙間に喜びが染み込んでくるようだった。
ふと、前方の森にキラリと光るものがあった。直ぐに闇の中に消えたが、それは明らかに獣の目の光だった。瞬間和男の背筋に冷や水が走った。急いで家に戻ると鍵をしめ、閂を掛けて窓を点検した。
和男のただならない様子に、富美は怯えた。
「どうしたの。何かあったの」
「獣だ。オオカミ、いや、今はオオカミはいないから、熊かも知れん」
「熊?」
「そうだ。きっと、熊が現れたんだ。今年は不作で、山にも食いもんがないから、里にまで降りて来たんだ」
「どうしょう」
富美の肩は恐怖で小刻みに震えていた。女の本能なのだろう、富美は両手で腹を守っていた。
「戸締りはしたが、熊の野郎は壁をけ破って入って来るかも知れん」
言って和男は村田銃を握って立ち上がった。
「どこに行くの?」
「馬小屋だよ。馬がやられれば一貫の終わりだからな」
「止めて。それより部落会長に知らせたほうがいいんじゃない?」
「部落会長ったって、ここからだと往復で小一時間もかかるんだぜ。その間に熊が入ってきたらどうすんだよ。大丈夫だ。熊の野郎が入ってきたら一発でしとめてやるよ」
言ったものの、和男の顔は蒼白で肩が小刻みに震えていた。富美は部屋の中央に立ったまま固まっている。どの壁から入って来ても逃げられるように身構えていた。和男は弾丸がしっかり装填されているのを確認して馬小屋へ走った。獣の気配を感じるのか、馬も落ち着かない。和男は注意深く辺りを見回した。
「一人じゃ怖くて気が狂いそう」
富美が和男の腕にすがってついて来た。もう涙目である。馬に燕麦を与えて落ち着かせて、二人は並んで座った。神経を研ぎ澄ますと、直ぐ近くに獣が潜んでいるような気がする。和男は時々立ち上がって母屋に変化はないか、周辺に変化はないかと、注意深く調べた。特段に変化は無かった。もう、獣は立ち去ったのかも知れない。そうは思ったものの、結局その日は一晩中、一睡もしないで見張りを続けた。
翌日の早朝屋敷の周辺を調べたが、獣がうろついた痕跡はなかった。
「気の精だったのかな」
家の戻って富美に声を掛けた。尖っていた表情が穏やかな笑顔に変わっていた。
「そうとも言えないわ。私、確かに熊の気配を感じたもの。絶対にまだ近くにいるわよ。油断すると必ず隙をつかれるわ。警戒するにこしたことはないわ」
熊なんか居ないのに脅かさないでよ、と詰られるかと思ったが、富美の反応は意外だった。
もうじき本格的な冬が来る。炭焼窯の修理をしなければならなし、炭焼き用の原木も用意しなければならない。収穫が終わっても息つく暇はなかった。
家の近くには既に切り取られて、炭になりそうな雑木は無かった。鋸と鉈をリュックに入れ、村田銃を肩に担ぎ、弁当を腰に下げた。パラメムの丘は坊主山(東ヌプカウシヌプリ)の裾に盛り上がった小高い丘である。そこに至るまでの大地は起伏があって、その上、クマザサが地面を覆いつくしていた。歩くだけでもかなりの重労働である。
二号の川を渡ると,眼前にパラメムの丘が裾を広げていた。登りきると僅かに拓かれた場所があり、ほぼ崩れかけた炭焼窯が十数基残されていた。戦中にガソリン不足を補う為、盛んに炭が焼かれたという。簡易宿泊所もあつて、何人もの作業員が働いていたと、父から聞いたことがある。その場所にひときわ大きく、天を衝くミズナラの巨木が聳え立っていた。樹齢は八百年、幹周は七メートル以上はありそうである。樹高は二十メートル以上、枝張は三十五メートルはある。生前、父はパラメムの丘のミズナラの巨木は「炭山の御神木」として、作業員の守り神として崇められていたと言っていた。三つ又に分かれた巨木の枝は、炭の原木としては最良のものである。背中に負ぶった鋸を取り出して木肌に当てた。その時、背筋に電流が走って体が固まった。そのミズナラの巨木は、厳として人を寄せ付けない神々しさがあったのだ。梢を見上げると、威風堂々としていて、害なす者は決して許さないという気迫を感じさせた。
和男は、父からパラメムの丘のミズナラの巨木は、炭山の御神木だから、決して伐ってはならないと言われていた。ふと、そんなことを思い出して手を合わせ、邪な行為を詫びた。だが、決して意識して手を合わせたわけではない。「炭山の御神木」がそうさせたのである。
背後でガサとクマザサを踏む音がした。驚いて振り向くと、三十メートル先に巨熊がじっと和男を見ていた。眼と眼があった。背筋に冷や水が走った。持ってきた村田銃は少し離れた場所に置いてある。眼を離した瞬間に巨熊は飛び掛かって来るだろう。一瞬とも眼を離す訳にはいかなかった。
身体が小刻みに震えた。が、巨熊の眼を良く見ると、眼光は穏やかだった。向き合ってから数分、いや実際は数秒ほどだったろう、巨熊はゆっくりと踵を返して深いクマザサの中に消えていった。
和男は荷物を纏めてゆっくりとパラメムの丘を離れた。熊は背を向けて逃げるものを背後から襲うという知識が、恐怖に怯えながらも、和男にあえて緩慢な行動をさせたのだった。
家に戻ると富美は物置で漬物を出していた。
「富美、熊だ。でっかい熊が居た」
「どこに?近くにか」
「丘だ。あのパラメムの丘にとてつもなくでかい熊が居たんた」
「こないだうろついてた熊かい?」
「分かんねえけど、多分冬眠する穴の無い、穴無し熊だよ。でなきゃ今頃は冬眠に入ってるはずだもの」
「穴なし熊はおっかないんだべ」
「ああ、穴なし熊は冬眠しないで、一年中餌を探してうろつくからな」
「どする。役場か警察に電話した方がいいんじゃない?」
「そりより、まずは常会長に連絡した方がいいな。熊がうろついてるから気をつけろってな。常会長なら部落全員に連絡してくれるからな」
和男は言って自転車に跨った。和男は少し行ってから再び戻って来た。
「富美、ここに乗れ。一緒に行くべ」
和男は自転車の荷台を指さした。熊は妊婦を襲うという。富美を一人残して行く訳にはいかなかった。
常会長山井の農場は、4キロ先にあり、自転車で急いでも、片道三十分は掛かる。砂利道の両側は未開発の原生林に覆われていた。今にも巨熊が飛び出してきそうな気がしてならなかった。何度も、(死ぬ時は一緒だからな)と呟きながら、和男は必死にペダルをこいだ。
熊出没の情報はたちまち部落全域に伝わった。鹿追村や本別方面でも熊の被害が相次いで報告されていたので、和男のもたらした情報を疑う者はいなかった。ただちに士幌警察、消防、部落民等、総勢二十名で編成された駆除隊は、夜明けを待ってパラメムの丘に向かった。人数こそ多かったが、旧式の鉄砲三丁の他は大鎌や鉈、フォークなど、とりあえず手元にある武器になりそうな農具を手にした混成隊だった。
幸い、夜半にうっすらと雪が積もっていたので、熊の捜索には条件としては良かった。
駆除隊がパラメムの丘の頂上付近を捜索したが、そこには熊の存在を示す痕跡は見当たらなかった。新雪が降った後である。熊が出没したなら、必ず足跡が残る筈である。だが、小半時も捜索したのに何の痕跡も見あたらなかった。当然疑惑の眼は和男に向けられた。
「お前、本当に熊を見たのか?」
「それもそうだが、お前、そもそも用もないのに何でこったらとこに来たんだ」
「薪でも採りに来たんか?」
「薪ならお前ん家の近くで一杯とれるべ」
「第一よ、熊ならもう穴倉で冬眠に入ってるべ。和男、お前何かと勘違いしたんじゃないか?」
等々、口々に和男を攻め立てた。和男には返す言葉は無かった。一方において、全体の雰囲気は、熊の存在が否定された安堵感が漂っていて明るかった。和男を責めながらも全員が笑顔になっている。それが救いだった。
「まあ、熊が居なくて良かった。それでもよ、用心にこしたことはないぞ。今日は、まず、熊狩りの訓練と思えばそれなりの意義はあったんだ。それにしても、聞いたはなしだが、穴をめっけられずに、冬眠出来ない熊もいるらしい。穴無し熊は年中そこらへんをうろつくらしいからな、いずれにしても用心にこしたこたぁない。ということで、今日はご苦労さんでした」
防寒帽子をとって、常会長は頭を下げて散会となった。
幹周7メートル以上もあるミズナラの巨木を見上げて、手で木肌の感触を確かめていた警官が、「あっ」と声を上げた。警官が指差した地面に雪を被った熊の糞が残されていた。比較的新しい糞である。昨夜は雪が降った。とすると、雪が降る直前に熊はこの辺をうろついていたことになる。駆除隊の全員が引き返して熊の糞を確認した。
「間違いない。和男が云った通り熊はいたんだ」
常会長は呟いた。安堵と恐怖が入り混じった声だった。安堵は熊の存在が確認されたことにより、駆除隊を編成した責任が果たせたという思いであり、一方、熊の存在が確認されたことによって蘇った恐怖心が小声となったのである。
念の為、駆除隊は捜索範囲を広めて、熊が残したであろう痕跡を探した。熊はクマザサの中を移動しても、音を立てない。すぐ傍で駆除隊の動きを見ているかも知れない。緊張感から、誰も声を発することも無く、粛々と捜索が続いた。
捜索範囲が30メートルほどに広がった時、
「オーイ、こっちに来てくれ」
一団となって捜索に当たっていた消防団員の一人から声が上がった。一瞬、緊張が走った。銃を構え恐る恐る近ずくと、雑木の枝が折れ、木肌の一部に鋭い爪で引っ掻いた跡が残されたいた。傷跡は生々しく、樹液が滲んでいた。ということは熊がここを通ったという証拠である。僅かにクマザサが倒伏していた。その跡をたどると微かに残った痕跡は坊主山(東ヌプカウシヌプリ)の裾野に向かっていた。
「多分、熊は山に向かって行ったんだ。いよいよ冬眠に入るだろうから、心配はなさそうだな」
常会長が駆除隊の緊張を和らげるように言った。緊張が解けていつもの柔和な表情に戻っていた。
「和男、多分大丈夫だと思うけど、熊の奴は死んだ訳じゃないからな、用心に越したこたぁない。お前んちは部落のはずれだから、一番に熊に狙われるとこだ。気を抜くな。気をつけろや。もし万が一異変を感じたら、遠慮はいらんから直ぐに俺んちに連絡するんだ。分かったな」
常会長は和男の肩をポンと叩いて、
「見ての通り、熊の奴は山の方に帰ったようだ。ひとまず安心だ。又、何時招集をかけるかわかんねぇけども、そん時は又、よろしくたのみます」
言って再び散会を告げた。
和男は気になることがあった。それは、巨熊の眼である。和男と眼と眼があった時、巨熊の眼差しに凶暴な鋭さはなかった。むしろ穏やかで何かを訴えるような、そしてやさしい光を帯びていたのである。
(あの眼差しは獲物を狙う時のものではない)
仮に飢えていれば一瞬の間をも置かずに襲ってくるはずである。だが、巨熊はゆっくりと踵を返して、森の奥へと消えていった。きっと何かを訴えたかったのではないか。和男にはそれが何なのか分からなかった。
富美が気になった。今は妊婦である。怯えたり、心配事があれは身体に障る。