炭山の御神木(7)
このところ、珍しく晴れた天気が続いた。和男は雑穀六十キロ入りの叺(かます)を仕入れに音更まで出かけた。正直なところ、折角開墾した土地が豊田渋皮の所有と知って、和男は落ち込んでいたし、気力が抜けていた。悔しさと虚しさが胃の腑に沈み込んでいて晴れないのである。富美だって同じ思いの筈だが、顔に出すことも口にすることもなかった。何時もと変わらず明るく振舞ってはいるれど、内心は忸怩たる思いでいる筈である。
は内忸怩たる思いのはずである。 知り合いの大塚商店で中古の叺(かます)を百五十枚仕入れた。今年の雑穀の収量を百五十俵と予想したのである。その内の五十俵は豊田社長に地代として物納しなければならない。豊作とはいえ、相変らず貧乏生活から抜け出せなかった。
買った叺(かます)を馬車に積んで帰路についた。少しの間に街の様子は分と変わっていた。高校生が制服に身を包んで、自転車で通学している。少し前まで軍服姿だった青年が、今は洒落た洋服に身を包んでいる。女性はカラフルな洋服に化粧までしているのだ。日々変わっていく街並みを見るにつけ汚れた作業着の自分が情けなく恥ずかしかった。
洒落た新築の薬局が目に入った。無意識のうちに馬車を止めて店に入った。派手な化粧を施した店員が笑顔で迎えてくれた。その店は薬局で、化粧品も売っていた。引き込まれるように化粧品売り場に向かっていた。
「何かお探しですか?」
派手めな店員が満面の笑顔で近ずいてくる。和男は何を話して良いか分からなかった。不愛想にしている訳ではない。どのように接して良いのか分からないのだ。
「奥様の化粧品ですね」
和男は頷いた。
「この化粧品がお薦めですわ。これは化粧ののりも、伸びも良いし、日焼け止めにもなりますから」
「それを下さい」
和男は一時も早くその場を離れたかった。自分の来る場所ではなかったと悔やまれた。でも、嬉しかった。富美が化粧品を見た時に見せる表情を想像すると心が晴れる。それにしても、自分が知らないうちに、世の中はもの凄いスピードで変化していた。坊主山(東ヌプカウシヌプリ)の裾野で畑を耕している自分がどんどんと置いて行かれていることを実感させられた。
士幌線の駒場簡易委託駅には数名の通学生が群れて談笑していた。高校生の年代の頃、和男はすでに畑仕事をしていた。貧乏だったし、父は百姓に学問はいらない、大事なのはお天道様だといって、和男の進学は許さなかった。一足先に畑から上がって、別棟にある風呂を沸かし、部屋の掃除や、時には夕飯の支度までやらされていた。
ある時、雑穀の価格が急騰して、十勝では豆成金が続出したと、父から聞いたことがある。その夢のような時の再来を信じて、父は少ない農地に縋りついていた。遠い昔の話である。その後、豆景気の再来ところか冷害続きに打ちひしがれ、悲憤の内に死んでいった。
原口東馬が現れ、十五町歩もの土地が手に入るチャンスをもたらしてくれたと希望を抱いたが、それも叶わなかった。貧乏からは一生抜け出せない運命なのかも知れない。唯一の希望は子供が出来たことである。だが、このままでは子供も同じ、貧乏から抜け出せない人生を歩むことになるのではないか。せめて学問だけは身につけさせたいと思うのだが。
馬車はゆっくりと新田地区をめざして進んで行く。馬はねぐらを覚えていて、手綱を離しても迷うことなく家に戻る。睡魔が襲って来た。気がつくと馬は馬小屋の前に佇んで主人の目覚めを待っていた。
家に戻って、富美に化粧品を渡すと、
「こんな。こんなに高いものを。どうして?」
言って目を丸くした。
「私にはもったいなくて使えないわ。胡瓜の樹液で十分なのに」
収穫を終えた胡瓜の茎を切り、ボトルに茎をさしこんで置くと一晩で五百ccほど樹液が溜まる。富美はそれに尿素を加えて化粧品として使っていたのだ。
「お父さん、もうすぐ子供が生まれるんだから、こんな無駄使いはしないで」
言いながらも、富美の目には涙が浮かんでいた。
翌日も快晴だった。眩しい太陽の光が早朝から燦燦と大地に降り注いでいる。
「富美、用意はいいか?そろそろ出かけるぞ」
流し台で洗い物をしていた富美に声をかけた。その日は音更川で、 中古で買って来た叺(かます)を洗う予定だった。近くには二号の川が流れているが、百五十枚もの叺(かます)を洗っても干す場所はなかった。矢張り大河の音更川の方が適している。
流れが緩やかで、川岸の河原が広い方が良い。少年の頃、何度も両親に連れられて来た場所は、しっかりと記憶に残っている。楽しい日の思い出である。
例年通りの場所に馬車を止め、叺(かます)を一枚一枚浅瀬に浸して足で踏む。踏んだ叺(かます)は河原に広げて干す。単純な作業だが、暑さの中、冷たい水に足を浸す作業は決して嫌な作業では無かった。
総てを洗い終え、河原に並べ終えると、太陽は中天に差し掛かっていた。
「お父さん。ご飯にしょうか」
富美は風呂敷包みを披いて、持参した冷たいお茶をコップに注いだ。柳の木陰である。爽やかな風が肌に浮いた汗を攫っていく。
「おっ、これは米じゃないか、一体どうしたんだ」
「たまにはね、贅沢しようと思って、奮発したんだ」
普段は麦に、よくてキビを混ぜたご飯である。米なんかは法事だとかお盆かお正月位にしか口に入らない。十勝は度々米作に挑戦したが、ことごとに失敗して、現在米を作る農家は無かった。
胡瓜の一夜漬けに米のオニギリだけの昼食だったが、それで十分に満たされた。
「毎日米が食えるようになりたいな」
和男はポッリと呟いた。
「我が家の主食はね、鮮度抜群の山菜と、畑で獲れた野菜なの。ご飯は副食だと思えば何ともないでしょ」
富美は全く意に介していなかった。
空は澄み切って輝いている。綿を解したような雲がゆっくと東に流れている。自由気ままに形を変えて伸びやかである。
「お父さん、ニジマスの大きいのを釣って」
「よしゃ。もともとその積もりだ。今日の夕飯はニジマスのフライだな」
もとより、叺(かます)が乾く間は手持ち無沙汰である。勝手知った音更川だ。ポイントは熟知していた和男だった。富美は山菜を求めて森に消えた。
ニジマスは面白いように釣れた。上流域では澱粉工場が乱立して、一時期廃液で川は汚れたが、農協の大型澱粉工場が操業を始めてから一極に集約され、小型の澱粉工場は軒並み廃業に追い込まれたのである。大型の澱粉工場は汚水処理も完璧で、河川は再び清冽な流れを取り戻していた。